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新宿慕情 p.016-017 東口の二幸前から伊勢丹までの通り

新宿慕情 p.016-017 私と新宿とのかかわり合いはもう、ずいぶんになる。旧制中学の二年生ごろのこと、つまり昭和十年前後からである。
新宿慕情 p.016-017 私と新宿とのかかわり合いはもう、ずいぶんになる。旧制中学の二年生ごろのこと、つまり昭和十年前後からである。

新宿慕情
さる七月から、二十回にわたって、正論新聞紙上に連載してきた著者のエッセイ。その四十年以上もの〈新宿〉との関わり合いを語りながら、軽い筆致でたのしく、人生を説いている。
狂言まわしに、新宿の街と店と人物とを登場させながらも、その随想は、著者の〈社会部記者魂〉ともいうべき、頑固な人生観を述べていて、飽きさせない。
ことに、オカマや半陰陽などという、下品になり勝ちな素材を、ユーモラスに描き切っているのは、その健康な精神の故、であろう。

洋食屋の美人

旧制中学二年から

私と新宿とのかかわり合いはもう、ずいぶんになる。旧制中学の二年生ごろのこと、つまり昭和十年前後からである。家が池袋と目白の間の、婦人の友社の付近から、世田谷の代田に引っ越して、小田急線を利用しはじめたのだ。

当時の小田急は、せいぜい二両連結で、現在の南新宿駅は、千駄ヶ谷新田、世田谷代田駅は世田谷中原という名前だった。その世田谷中原駅を利用していた。次の豪徳寺駅との間に、梅ヶ丘という新駅ができて、タンボの真ン中の寂しい駅だったことを思うと、まさに隔世の感がある。

中学が、省線・巣鴨駅にあったから、新宿駅で乗り換える。定期券があるから、自然、新宿の街にも出る、ということになる。

いま、日曜日には歩行者天国になる、東口の二幸前から、伊勢丹までの通りに、都電が走っていたことなど、もう、すっかり、記憶から薄れてしまっているが、変わらないのは、駅前にデンと坐っている二幸と、三丁目角の伊勢丹であろう。

新宿慕情 p.018-019 四つ角を越えるとすぐ遊郭になる

新宿慕情018-019 二幸のオート・マット食堂、中村屋のカリーライスと支那まんじゅう、オリンピックの洋食。伊勢丹までが、カタ気の新宿の街だ。
新宿慕情 p.018-019 二幸のオート・マット食堂、中村屋のカリーライスと支那まんじゅう、オリンピックの洋食。伊勢丹までが、カタ気の新宿の街だ。

いま、日曜日には歩行者天国になる、東口の二幸前から、伊勢丹までの通りに、都電が走っていたことなど、もう、すっかり、記憶から薄れてしまっているが、変わらないのは、駅前にデンと坐っている二幸と、三丁目角の伊勢丹であろう。

途中、右側にある中村屋。すでに、三峰に買収されたオリンピックなども、建物こそ変わったが、場所はそのままだ。

二幸の開店は、多分、昭和七~八年ごろではあるまいか。海の幸・山の幸の「二幸」という、キャッチ・フレーズを憶えている。その地下に、「オート・マット食堂」というのがあって、連れていってもらったのは、小学生のころだ。

国電の切符売り場のような、ガラス張りの窓があって、下端が開いている。出前用の箱みたいに、段がついた棚には、すでに料理された洋食が、一人前ずつ並んでいる。

二幸の〝自動〟食堂

それを眺めて、食べたい料理の窓の前で、コインを投入してハンドルを引くと、ガタンと音がして、棚が一段下がって、料理を取り出せる仕掛けだった。

それを持って、中央のテーブルで食べるのだが、料理は冷たいし、なによりも、ウェイトレスのサービスがないのが、味気ない。物珍しさが、ひと通り行き渡ると、この〈超最新式食堂〉は閑古鳥が啼く始末。

そうであろうとも、米国直輸入を謳ったのだが、当時は、人手も十分、あり余るほどだったし、第一、デパートの食堂というのが、第一級のレジャー施設だったのだ。それだからこそ、洋食を食べるには、デパートに行く時代だから、味気ないセルフサービスなど、クソ食らえだった。

この〝二幸の目玉〟食堂は、間もなく、無くなってしまったと思った。

そこにゆくと、〈中村屋のカリーライス〉と、〈支那まんじゅう〉とは、まだ、洋食が珍しくて、♪きょうもコロッケ、あすもコロッケ……の歌が流行したのでもわかるように、大人気であった。

私が中学生のころで、肉まんあんまん各一個のセットで、一皿十銭(肉六銭、あん四銭)と憶えている。昼食として、いまのラーメンほどの人気だった。

その向かいのオリンピックもまた、洋食屋の雄であった。手軽に、学生にでも食べられる洋食屋は、オリンピック、森キャン(森永キャンデーストア)、明菓(明治製菓売店)の、三大チェーンストアであった。

戦後、いく度か、オリンピックに入ってみたが、新宿、銀座などの店で、いわゆる〝洋食〟類がマズい。むかし懐かしさのあまり、入って食べてみるのだが、もう、まったく救い難かった。

同じように、森キャン、明菓ともに、〝味の信用〟は、昔日のおもかげはなかった。これら三店のウェイトレスには、たがいに美人が、ケンを競い合っていた。制服姿がサッソウとしていて学生たちの憧れの的だったのに……。池袋の明菓には、日大芸術科に進んでからも、良く行ったが、当時の映画の題名から、〝フランス座〟と呼んでいた美人がいたほどだった。

伊勢丹までが、カタ気の新宿の街だ。というのは、その四つ角を越えると、すぐ、遊郭になるからだ。

新宿慕情 p.020-021 日活の滝新太郎・花柳小菊、松竹が上原謙・桑野通子

新宿慕情020-021 伊勢丹も三越も小さかった。新宿駅の正面玄関は、二幸に面していた。映画館は、日活帝都座。新宿松竹館は…。
新宿慕情 p.020-021 伊勢丹も三越も小さかった。新宿駅の正面玄関は、二幸に面していた。映画館は、日活帝都座。新宿松竹館は…。

小さかった伊勢丹

伊勢丹だって、今日の隆盛ぶりが、信じられないほどの、小さなデパートだった。確か、角が伊勢丹で、その手前に、ほてい屋という、同じぐらいのデパートがあって、それを合併したのは昭和十年代の初期だったと思う。

いまの伊勢丹本館の四分の一か、六分の一ぐらいの広さだろう。

三越も、いまの位置で、もちろん、小さいものだった。当時は、三越は、「きょうは三越、あすは帝劇」という、第一級社交場——伊勢丹などは、足許にも寄れないデパートだ。いまの三越の現状を見ると、それこそ斜陽の感が深い。

同郷の立教大学の英文科の学生が、下宿の侘びしさをまぎらわしに、良く、私の家に食事にきては、ダベっていた。

まだ、私が小学生のころだった、と思う。その人が、新宿の三越の、店内掲示の英語看板にミス・スペリングを発見して、売り場の店員に注意をした、というのだ。

すると、翌日、支店長が五円の商品券を持って、下宿にまでお礼の挨拶にきた、という話をしていたのを、まだ憶えているが、当時の五円が、どれほどの値打ちがあったか——昔日の三越の店の格式を物語って、あまりある話、ではある。

新宿駅の正面玄関は、二幸に面していた。つまり、東口である。いまの駅ビルに変わる前まで

古臭い駅舎があったのだが、それももう、忘れてしまった。

映画館といえば、伊勢丹角にあった、日活帝都座しか、記憶がない。いまの、丸井の場所である。当時から、日活多摩川作品に対して、松竹蒲田映画、とくるのだが、どうしても、新宿松竹館が、どこにあったのか思い出せない。

日活の滝新太郎・花柳小菊の夢心コンビに対しては、松竹が上原謙・桑野通子の、都会的なコンビで売っていた。日活側はやや下町調なのだ。

上原、桑野の御両人は、ファンからは、当然、結婚するものだ、と、思われていたのだが、上原は、小桜葉子と結婚して、全国のファンを驚かせた。桑野通子は、森キャンだか、明菓だったかの、スイート・ガール出身(ウェイトレスや売り子を、こう呼んでいた)の美人で、売れっ子のあまり、兵隊に取られて台湾に行った上原に、あまり手紙を書かなかった、という。

そのスキに、三枚目で、あまりモテなかった小桜葉子が、セッセと、毎日、手紙を書きつづけて、上原謙の心を動かした、と、ファン雑誌で知ったものだが、その上原謙の、六十何歳だかの再婚ニュースが、同じような雑誌に書かれている。

松竹系の、新宿第一劇場というのが、南口、明治通りと甲州街道の交差点近く、いまの三越モータープールのあたりにあった。新宿松竹館は、その付近だった、カモね……。

新宿慕情16-17 洋食屋の美人 旧制中学二年から

私と新宿とのかかわり合いはもう、ずいぶんになる。旧制中学の二年生ごろのこと、つまり昭和十年前後からである。
新宿慕情16-17 私と新宿とのかかわり合いはもう、ずいぶんになる。旧制中学の二年生ごろのこと、つまり昭和十年前後からである。

新宿慕情18-19 二幸の〝自動〟食堂

二幸のオート・マット食堂、中村屋のカリーライスと支那まんじゅう、オリンピックの洋食。伊勢丹までが、カタ気の新宿の街だ。
新宿慕情18-19 二幸のオート・マット食堂、中村屋のカリーライスと支那まんじゅう、オリンピックの洋食。伊勢丹までが、カタ気の新宿の街だ。

新宿慕情20-21 小さかった伊勢丹

伊勢丹も三越も小さかった。新宿駅の正面玄関は、二幸に面していた。映画館は、日活帝都座。新宿松竹館は…。
新宿慕情20-21 伊勢丹も三越も小さかった。新宿駅の正面玄関は、二幸に面していた。映画館は、日活帝都座。新宿松竹館は…。