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正力松太郎の死の後にくるもの p.024-025 〝紙面で勝負〟する新聞だった

正力松太郎の死の後にくるもの p.024-025 紙面を作るものは、新聞記者である。記者の質と量との戦いであった。毎日毎日の紙面が、他社との戦いであると同時に、社内では、部内では、記者同士の〝実力〟競争であった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.024-025 紙面を作るものは、新聞記者である。記者の質と量との戦いであった。毎日毎日の紙面が、他社との戦いであると同時に、社内では、部内では、記者同士の〝実力〟競争であった。

しかし、現実の「新聞」の姿は、このように変りつつある。昭和も四十五年ともなれば、こうして、明治生れの大正の新聞人たちを送り出し、大正生れの昭和の新聞人たちの〝感慨〟をよそに、その外形ばかりか、新聞の「本質」そのものをも、昭和生れの昭和の新聞人たちの手によっ

て、変化させつつあるのである。

この「現代新聞論」の取材を進めながら、私は「現役を去って十年。この十年間に新聞は大きく変った」と、感じたのだったが、正確にいうならば、昭和三十年代の十年間に大きく変り、さらにまた昭和四十年代の十年間に、もっと大きく変ろうとしていることに、気付いたのである。

例えば、後述するが、元朝日新聞記者の佐藤信。退社した朝日の内情を、〝感情的〟にバクロし、同僚、上司を口を極めて罵倒した著書を公刊して、話題となった人物である。

この佐藤信のような、〝奇特の言行〟を旨とする記者が、昭和三十年代の十年間に、社という組織からハミ出るか、組織の中に埋没してしまうかという現象が、私の指摘する第一次の大きな変化である。新聞の均質化、個性放棄の時代である。

事実、彼の二著を読んでみて、新聞記者であるならば、あえて、〝奇異〟とするに当らない事実が書かれている。少くとも、昭和三十年ごろまでの新聞は、〝紙面で勝負〟する新聞だったのである。戦後のタブロイド版からブランケット版(大判)二頁、四頁、六頁と、次第に頁数を増し、朝刊紙は夕刊を出して、朝夕刊セットとして伸びてきた新聞の争いは、「紙面」であった。

紙面を作るものは、新聞記者である。記者の質と量との戦いであった。毎日毎日の紙面が、他社との戦いであると同時に、社内では、部内では、記者同士の〝実力〟競争であった。紙面は他社との比較の上で、担当記者の実力を一眼で、誰にでも判断させた。こうして、才能のある者、

学のある者、チエのある者は、学歴や年齢や、入社年次に関わりなく、自然に重きをなしたのであった。

何よりも不都合なことは、取材、執筆という記者の仕事は、穴掘りや帖面付けと違って、職制が命令したからといって、一定時間が経過したからといって、完了し、完成するものではない。だから、能力のない者が、能力のある者を、〝使う〟ことができないのだ。先輩だからといって、後輩に、〝指図〟できないのである。

「何某さんは旅行中です」「まだ調査が終りません」——これらの言葉で、やがて〆切時間が来てしまう。合法的に、反抗もサボタージュも可能だったのである。

佐藤信の二著は、どこの新聞社でもあることを、多少、誇張した表現ともとれるが、また、人間関係の微妙さを無視した形で、活字にしたに過ぎない。活字以外に、クチコミでならば、どこででも、平然と語られていることである。無能な先輩やデスクをコケ扱いにし、酒のサカナにしたり、喫茶店でのダベリに持ち出すのは、記者にとって、日常茶飯事であった。

私のいた読売でも、三十歳を出たばかりで次長に登用された記者が、末席の若僧のクセに、先輩次長たち、十歳も年齢の違う人たちを、すべてクン付けで呼んでいた。クンと呼ばれた先輩たちの胸中は如何ばかりであったかは別として、彼がクンと呼ぶのを聞いた私たちカケ出しは、彼の態度の大きさに、少しも不自然さを感じなかったのも事実だ。

正力松太郎の死の後にくるもの p.166-167 草柳大蔵と佐藤信

正力松太郎の死の後にくるもの p.166-167 群小〝新聞記者〟を常に支配する朝日コンプレックスと、元〝朝日記者〟の脱皮することのできないエリート意識——この対照の妙は、朝日新聞の現実の姿を浮彫りにしてくれる。
正力松太郎の死の後にくるもの p.166-167 群小〝新聞記者〟を常に支配する朝日コンプレックスと、元〝朝日記者〟の脱皮することのできないエリート意識——この対照の妙は、朝日新聞の現実の姿を浮彫りにしてくれる。

著者の経歴紹介は、読者にその文章に判断の根拠を与えるもの、でなければならない。フリーの新聞記者という職業がない日本のことだから、社名のない「新聞記者」という表現は、事実をまげてお提灯を書くための考慮であろうか。朝日新聞とは、このような群小〝記者〟に、朝日コンプレックスを抱かせる新聞なのである。

封建制に守られる〝大朝日〟

佐藤信「朝日新聞の内幕」「新聞を批判する」の二著は、これまた、私に非常な興味を抱かせた。社歴十八年、昭和四十年に調査部員に配転された、社会部、学芸部のベテラン記者だった著者は、これを〝侮辱〟と判断して、辞表を郵送して退社した。

だが、会ってみると、彼は依然として〝朝日人〟であり、その一流意識には、いささかの乱れもない。口を極めて、朝日新聞の先輩や同僚を罵るその著書の内容からは、想像もできないことである。朝日新聞の紙面について語る彼の印象は、私にとっては、〝現役の大朝日 記者〟であった。何故かならば、「紙面の勝負」に生きつづけてきた新聞記者であるならば、社の如何を問わ

ずに、「紙面」に対する批判は、常に徹底していたからだ。

群小〝新聞記者〟を常に支配する朝日コンプレックスと、元〝朝日記者〟の脱皮することのできないエリート意識——この対照の妙はその著書の極端に対照的な内容と相俟って、朝日新聞の現実の姿を浮彫りにしてくれる。

朝日は〝村山家の朝日〟であった。この点は、読売が〝正力の読売〟であるのと、全く同じである。これに比べて、毎日は強力な資本家を持たず、常に、サラリーマン重役によって、右往左往してきたという、体質の差があった。

戦後の朝日と読売の共通点はそればかりではないのだ。長谷部忠・馬場恒吾の代理社長の時期を持ち、それぞれにストライキを経験した。だが、毎日にはストによるお家騒動の体験がない。

けれども、朝日と読売とが、体質的に違う点は、朝日には、編集、業務を通じて、村山派と反村山派があるが、読売には、正力派直系と非直系派とはあっても、反正力派というのがないということである。

昭和三十五年以降の銀行資料によると、朝日の株主持株比率は、村山、上野両家で六割を占め、その間、全く変動がないのである。ところが、読売では、大株主の正力厚生会や、正力松太郎個人の、持株比率が毎年のように動いているのである。これは、読売社内に反正力派がいないことを物語る。正力一族の経営参加で、如何様にも持株を操作できるのだ。朝日では、「反村山派」

がいるので、そのようなサジ加減ができない。だから、村山家四名、上野家二名の持株は、微動だにしない。