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正力松太郎の死の後にくるもの p.022-023 正力という〝重石〟がとれたので

正力松太郎の死の後にくるもの p.022-023 正力の私生活をノゾくのなら、生きているうちにやれ。読売の〝内紛〟を扱うなら、生きているうちに書け! 日本テレビの粉飾だって、正力さんの眼の黒いうちに発表したらどうだ。
正力松太郎の死の後にくるもの p.022-023 正力の私生活をノゾくのなら、生きているうちにやれ。読売の〝内紛〟を扱うなら、生きているうちに書け! 日本テレビの粉飾だって、正力さんの眼の黒いうちに発表したらどうだ。

私には、この日の、〝大正力の死〟を追慕した(に違いなし)「編集手帖」が、ボツになった理由も、ボツにした機関もしくは個人も、ともに正確には判らない。しかし、テーマが〝大正力の死〟

であり、それがボツになって、六版から差し換えられたことだけは、確かである。

私は、これを知って、「正論新聞」のコラム「風林火山」欄に、こう書いた。

「正力さんが亡くなられて、いろんな形の〝異変〟が、早くも起りはじめた。

第一番に感じたのは、読売の葬儀その他の記事の扱いが、極めて地味だったということ。第二には、亡くなるのを待ちかねていたように、日本テレビの粉飾決算が問題化したこと。第三には、週刊誌がまったくの興味本位に、いわゆる〝跡目争い〟なるものを書きはじめたこと、などなどである。

私はかつて、昭和四十年ごろの〝正力コーナー〟(注。読売紙上の正力関係記事のこと) 華やかなりしころに、『紙面を私するもの』と、批判したことがあった。このような社内外の批判から、やがてコーナーは姿を消したのだった。

しかしいま、この偉大なる新聞人を葬送するとき、読売が特集グラフを組み、参列者氏名を掲げ、コラムで追悼し、といった、大扱いをしないことに、フト、一抹の寂しさを感じた。

『社主・正力松太郎』の死亡記事として、読売のあの扱いは、妥当であり、良識の線を守ったものであろう。他紙誌の扱い方は、過小の感があったけれども、それは、私の〝私的な感情〟かも知れない。

しかし、解せないのは、日本テレビの粉飾決算の摘発である。大蔵省は『過去四年半にわたり……このほど調査で判明』(毎日紙)というが、その〝調査〟は四年半もかかるものであり、ホントに〝このほど判明〟したものなのだろうか。正力という〝重石〟がとれたので、欣然として発表した感が残る。

週刊誌もまたしかり。私をたずねてきた某誌の若い記者は、『臨終には〝愛人〟が付き添ってたといいますが、ホントでしょうか』ときく。この下品なノゾキ趣味! 相手えらばずの、貧しい取材力は、週刊サンケイ、週刊ポストなどに、掲載された記事でも明らかである。

正力の私生活をノゾくのなら、生きているうちにやれ。読売の〝内紛〟を扱うなら、生きているうちに書け! 日本テレビの粉飾だって、正力さんの眼の黒いうちに発表したらどうだ。

解放感もあろう。しかし、あまりにも、わざと過ぎまいか」

〝フト、一抹の寂しさ〟を感じたのは、私自身の〝私的な感情〟であったことは、認めるのだが、「編集手帖」の休載が、〝重石のなくなった解放感〟でなければ、それでよい。

しかし、現実の「新聞」の姿は、このように変りつつある。昭和も四十五年ともなれば、こうして、明治生れの大正の新聞人たちを送り出し、大正生れの昭和の新聞人たちの〝感慨〟をよそに、その外形ばかりか、新聞の「本質」そのものをも、昭和生れの昭和の新聞人たちの手によっ

て、変化させつつあるのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.024-025 〝紙面で勝負〟する新聞だった

正力松太郎の死の後にくるもの p.024-025 紙面を作るものは、新聞記者である。記者の質と量との戦いであった。毎日毎日の紙面が、他社との戦いであると同時に、社内では、部内では、記者同士の〝実力〟競争であった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.024-025 紙面を作るものは、新聞記者である。記者の質と量との戦いであった。毎日毎日の紙面が、他社との戦いであると同時に、社内では、部内では、記者同士の〝実力〟競争であった。

しかし、現実の「新聞」の姿は、このように変りつつある。昭和も四十五年ともなれば、こうして、明治生れの大正の新聞人たちを送り出し、大正生れの昭和の新聞人たちの〝感慨〟をよそに、その外形ばかりか、新聞の「本質」そのものをも、昭和生れの昭和の新聞人たちの手によっ

て、変化させつつあるのである。

この「現代新聞論」の取材を進めながら、私は「現役を去って十年。この十年間に新聞は大きく変った」と、感じたのだったが、正確にいうならば、昭和三十年代の十年間に大きく変り、さらにまた昭和四十年代の十年間に、もっと大きく変ろうとしていることに、気付いたのである。

例えば、後述するが、元朝日新聞記者の佐藤信。退社した朝日の内情を、〝感情的〟にバクロし、同僚、上司を口を極めて罵倒した著書を公刊して、話題となった人物である。

この佐藤信のような、〝奇特の言行〟を旨とする記者が、昭和三十年代の十年間に、社という組織からハミ出るか、組織の中に埋没してしまうかという現象が、私の指摘する第一次の大きな変化である。新聞の均質化、個性放棄の時代である。

事実、彼の二著を読んでみて、新聞記者であるならば、あえて、〝奇異〟とするに当らない事実が書かれている。少くとも、昭和三十年ごろまでの新聞は、〝紙面で勝負〟する新聞だったのである。戦後のタブロイド版からブランケット版(大判)二頁、四頁、六頁と、次第に頁数を増し、朝刊紙は夕刊を出して、朝夕刊セットとして伸びてきた新聞の争いは、「紙面」であった。

紙面を作るものは、新聞記者である。記者の質と量との戦いであった。毎日毎日の紙面が、他社との戦いであると同時に、社内では、部内では、記者同士の〝実力〟競争であった。紙面は他社との比較の上で、担当記者の実力を一眼で、誰にでも判断させた。こうして、才能のある者、

学のある者、チエのある者は、学歴や年齢や、入社年次に関わりなく、自然に重きをなしたのであった。

何よりも不都合なことは、取材、執筆という記者の仕事は、穴掘りや帖面付けと違って、職制が命令したからといって、一定時間が経過したからといって、完了し、完成するものではない。だから、能力のない者が、能力のある者を、〝使う〟ことができないのだ。先輩だからといって、後輩に、〝指図〟できないのである。

「何某さんは旅行中です」「まだ調査が終りません」——これらの言葉で、やがて〆切時間が来てしまう。合法的に、反抗もサボタージュも可能だったのである。

佐藤信の二著は、どこの新聞社でもあることを、多少、誇張した表現ともとれるが、また、人間関係の微妙さを無視した形で、活字にしたに過ぎない。活字以外に、クチコミでならば、どこででも、平然と語られていることである。無能な先輩やデスクをコケ扱いにし、酒のサカナにしたり、喫茶店でのダベリに持ち出すのは、記者にとって、日常茶飯事であった。

私のいた読売でも、三十歳を出たばかりで次長に登用された記者が、末席の若僧のクセに、先輩次長たち、十歳も年齢の違う人たちを、すべてクン付けで呼んでいた。クンと呼ばれた先輩たちの胸中は如何ばかりであったかは別として、彼がクンと呼ぶのを聞いた私たちカケ出しは、彼の態度の大きさに、少しも不自然さを感じなかったのも事実だ。