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正力松太郎の死の後にくるもの p.002-003 目次 1~5

正力松太郎の死の後にくるもの p.002-003 目次
正力松太郎の死の後にくるもの p.002-003 目次

正力松太郎の死の後にくるもの——目次

1 正力さんと私(はじめに……)

銀座の朝に秋雨が……/正力〝社長〟の辞令

2 死の日のコラム休載

編集手帖なしの読売/正力なればこその「社主」

3 有限会社だった読売

悲願千人記者斬り/「畜生、辞めてやる!」の伝統/慄えあがった編集局長/五人の犯人〝生け捕り計画〟/社史にはない二度のスト/強まる「広報伝達紙」化/記者のド根性/紙面にクビをかける

4 〝務台教〟の興隆

朝・毎アカ証言の周辺/記事の魅力は五パーセント/読売の〝家庭の事情〟/務台あって の〝正力の読売〟/販売の神サマ復社す/七十三歳のブンヤ〝副社長〟/〝読売精神〟地を払うか/出向社員は〝冷飯〟組/正力〝法皇〟に対する本田〝天皇〟/〝アカイ〟という神話の朝日/封建制に守られる〝大朝日〟

5 正力コンツェルンの地すべり

正力代議士ついに引退す/報知新聞のド口沼闘争/伝説断絶の日本テレビ/〝務台教〟に 支えられる読売/小林副社長〝モウベン〟中/〝社長〟のいない大会社/新聞、週刊誌に追尾す

正力松太郎の死の後にくるもの p.142-143 いうなれば〝檄〟を飛ばした

正力松太郎の死の後にくるもの p.142-143 薄給に甘んじて、読売と共に生き、読売と共に死ぬ、運命協同体の思想は、昭和三十年代までは、その神通力を発揮した。だが、「新聞」そのものの体質の変化は、この思想を現実遊離に追いやった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.142-143 薄給に甘んじて、読売と共に生き、読売と共に死ぬ、運命協同体の思想は、昭和三十年代までは、その神通力を発揮した。だが、「新聞」そのものの体質の変化は、この思想を現実遊離に追いやった。

今年はいよいよ、新社屋建設の初年度。しかも、日本制覇の朝日との決戦の年です。この秋に当り、全社員に、いうなれば〝檄〟を飛ばしたのが、あのコピーの配布でした。

もちろん、小林与三次副社長にもお見せしたし、全重役の了解もとって、やったことでした。それも、たまたま、務台さんの友人の方(注。御手洗辰雄といわれている)が、蔵書の整理をしていたらあの新聞が出てきた。発行所に聞いてみると、もう、保存もされていないという。そこで、『これは貴重な資料だから、保存されたらどうか』と、務台さんに下さった。読み返してみると、今の読売社員に訓えるべき内容を含んでいる、というので、自費で作られて、個人の資格で配られたものなのです。

ところが、全く思いもかけない反応が起きてしまって……」

思いもかけない反応——というのは、改めて説明するまでもなかろう。〝ポスト・ショーリキ〟をめぐる、正力コンツェルンの動きである。

薄給に甘んじて、読売と共に生き、読売と共に死ぬ、運命協同体の思想は、昭和三十年代までは、その神通力を発揮したのであった。だが、「新聞」そのものの、体質の変化は、この思想を現実遊離に追いやってしまった。ここに、務台—原ラインが、現場から浮いてしまっているという、私の論拠がある。

出向社員は〝冷飯〟組

さて、ここらで各社の体質をみなければならない。

昭和十八年十二月十五日現在の社員名簿によれば、有限会社読売新聞社は、代表取締役社長正力松太郎以下二千八百三十三名。しかも、ほぼ二割もの応召休職者を加えての人数だから、実数は二千名チョットであろう。それから二十年六カ月後の、三十九年六月一日現在の名簿をみると、社主(注。法的権利義務がない)正力松太郎、代取副社長高橋雄豺、代取専務務台光雄以下(注。社長空席)四千六百五名。

二十年前に現在の本館が外側六階、内側三階だったものが、増築され、さらに二つの別館ビル。札幌、高岡、大阪、北九州の四発行所を加え、完全な全国紙の態勢を整え、四十年元旦の社告によると、東京本社三百三十二万六千七百部、大阪本社百二十六万四千部、西部本社二十八万一千部、合計四百八十七万九百十四部の有代部数を発行している。人員は二倍、部数は五倍という、驚くべき発展ぶりである。

この数字に見る限り、読売は、日本三大紙の雄と、称し称せられるのも当然である。そして、

社主正力松太郎もまた、この事実に関する限り、〝偉大なる新聞人〟と、自ら誇り、かつ尊敬せらるべきことも、動かし難い事実である。

正力松太郎の死の後にくるもの p.144-145 出向社員は出先での〝冷飯〟組

正力松太郎の死の後にくるもの p.144-145 世間では、読売の子会社と思われているすべての正力系会社が、すべて〝赤の他人〟で、歴史があり、有能な人材を多数かかえた読売新聞社の社員は、働き盛の五十五歳定年で、老後の生活を考えねばならない
正力松太郎の死の後にくるもの p.144-145 世間では、読売の子会社と思われているすべての正力系会社が、すべて〝赤の他人〟で、歴史があり、有能な人材を多数かかえた読売新聞社の社員は、働き盛の五十五歳定年で、老後の生活を考えねばならない

この数字に見る限り、読売は、日本三大紙の雄と、称し称せられるのも当然である。そして、

社主正力松太郎もまた、この事実に関する限り、〝偉大なる新聞人〟と、自ら誇り、かつ尊敬せらるべきことも、動かし難い事実である。

試みに、三十九年度の社員名簿をみると、総員四千六百五名の大世帯にもかかわらず、出向社員は、タッタの百六十一名という点が、問題である。その内訳は、大阪読売九六、報知印刷所二○、報知新聞一六、西部本社八、よみうりテレビ六、健保組合三、観光、映画社、日本テレビ、関東レース各二、興業、日響、福島民友、新聞輸送各一、という実情である。

昭和十八年の二千余名が、倍の四千六百にふくれた読売新聞も、ようやく、社員構成が逆ピラミッドになろうとしている。つまり、頭でっかちである。これをピラミッドの正常な形にするのが、企業としての健全な形である。そのためには、大企業は子会社を持ち、そこに幹部社員を出向させて、各々その所を得さしめるのが、当然であろう。

ところが、この出向社員数をみてみると、如何に読売新聞社の社員が、苦しむかが判然としよう。つまり、世間では、読売の子会社と思われているすべての正力系会社が、すべて〝赤の他人〟で、歴史があり、有能な人材を多数かかえた読売新聞社の社員は、働き盛の五十五歳定年で、老後の生活を考えねばならないということだ。

しかも、これらの出向社員は、すべて出先での〝冷飯〟組である。各社にはそれぞれ人事閥が確立されており、読売出向社員を冷遇している。いわんや、新聞の定年組の天降るポストなどは

皆無である。従って、新聞社員は定年が近づくと、それこそ猟官運動に没頭して、何とかして定年延長を獲得しようとする。

猟官には、良心の抹殺と迎合とオベンチャラが、絶対の要件であり、仕事は責任の回避と、同僚のアラ探し、裏切り、蹴落し、その他のあらゆる悪徳のオンパレードである。経営の悪化は、必然的に定年厳守を原則とするから、読売新聞で生き残るためには、新聞人であってはならない。

読売興業という会社は、野球部で読売巨人軍を持ち、新聞部で、九州読売新聞を持っている。しかし、興業の全株を読売新聞が持っており、巨人軍の興業権を読売新聞が持っているので、九州読売の赤字七千万円を読売が負担しているのも、巨人軍の稼ぎを読売が流用しているのも、法的には問題がなさそうである。九州読売を、なぜ興業にやらせたかというと、巨人軍が稼ぐ黒字を、税金にとられないで、九州の赤字にあてようという計画らしい。つまりは、税金で新聞をやろうというわけだ。

姉妹紙であるとみられる、報知新聞でさえ、今や、〝嫁にいった妹〟のような存在で、読売育ちの竹内四郎社長が急逝し、正力亨社長になってからは、組合の勢力拡張めざましく、竹内が懸命に試みた読売との人事交流、読売の〝植民地化〟は崩壊してしまった。大阪のよみうりテレビで六人、NTVにいたっては、タッタの二人という出向社員数が、電波との関係を物語っていよう。また、「読売広告社」なる会社は、これこそ、全くのアカの他人で、正力すら関係がないと

いう会社である。

正力松太郎の死の後にくるもの p.146-147 ランドの〝死の行進〟が始まった

正力松太郎の死の後にくるもの p.146-147 関東レースは、もともと正力が追放中のウサ晴らしに始めた会社で、京浜、京成、五島慶太、川島正次郎、永野護らの応援を得て、川崎と船橋の競馬場、船橋のオートレース場を持ち、それを賃貸している、大家業であった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.146-147 関東レースは、もともと正力が追放中のウサ晴らしに始めた会社で、京浜、京成、五島慶太、川島正次郎、永野護らの応援を得て、川崎と船橋の競馬場、船橋のオートレース場を持ち、それを賃貸している、大家業であった。

姉妹紙であるとみられる、報知新聞でさえ、今や、〝嫁にいった妹〟のような存在で、読売育ちの竹内四郎社長が急逝し、正力亨社長になってからは、組合の勢力拡張めざましく、竹内が懸命に試みた読売との人事交流、読売の〝植民地化〟は崩壊してしまった。大阪のよみうりテレビで六人、NTVにいたっては、タッタの二人という出向社員数が、電波との関係を物語っていよう。また、「読売広告社」なる会社は、これこそ、全くのアカの他人で、正力すら関係がないと

いう会社である。

問題の「ランド」、株式会社関東レース倶楽部(注。現在は株式会社よみうりランドに一本化された)もまた、同様に〝家族〟ではない。いわば、親父のメカケのようなもので、読売新聞としては、家財を持ち出してまで、生活の面倒をみる義理はないはずである。ただ、ここでは、正力社主が堂々と代表権をもって、代取会長である。新聞と同じく社長空席のまま、立教出の後楽園系、代取副社長高橋雄二が続く。平取には、川島正次郎、永田雅一らに伍して、新聞の高橋雄豺副社長 正力亨取締役、清水与七郎監査役の三氏が列っている。

関東レースは、もともと正力が追放中のウサ晴らしに始めた会社で、京浜、京成、五島慶太、川島正次郎、永野護らの応援を得て、川崎と船橋の競馬場、船橋のオートレース場を持ち、それを賃貸している、大家業であった。その限りでは、家主だから安定した黒字会社で、別にどうということがなかったから、社員二十名ほどの小会社で、常勤幹部も、それに見合った人材で充分だったのである。

ところが、戦後のゴルフ・ブームに着眼した正力が、プロ野球、テレビの大衆化の故智にならって、読売パブリック・コースを造ろうと計画したことから、ランドの〝死の行進〟が始まったのであった。

東京読売カントリークラブというメンバー・コース、続いては遊園地のランドとなり、七十万

坪の大計画となってしまった。これが、いわゆる「正力コーナー」問題化の始まりである。「正力コーナー」というのは、読売新聞の紙面に、連日のように登場する、正力社主の写真入り宣伝記事のことを、社内でそう呼んでいるのだ。

全社員二十名ばかりの小会社関東レースは、こうして、正力の〝畢生の事業〟とも、〝私の悲願〟とも称する、「読売ランド」によって、従来の、川崎、船橋の営業所の他に、二つ のゴルフ場と、遊園地とを直営する、傭人とも六○○名ほどの大会社にふくれ上ったが、読売の出向社員二名と、定年退職者一名は、単なる一遊戯場の支配人に過ぎず、課長よりも低い地位に置かれている。

読売ランドもまた、組織がない。その乱派ぶりは、急激にふくれただけにひどすぎる。ランド内のモノレールビル二階にある、関東レース倶楽部の本社は、総務、経理、営業、管理の四部制だが、各営業所に責任者がいるわけではない。船橋オートレースは総務部、ランドとゴルフ場は営業部、競馬場は管理部と、経理部を除いた三部が縄張りを持ち、自己勢力の拡張争いをしている。かつて、市営川崎球場の田辺重役が、読売安田編集局長(故人)に、「一回で良いから巨人を川崎に出してくれ」と頼みにきたことがあった。理由を聞いてみると、「巨人が出場すれば、売店は入場者五千人で七〇万、一万人で百四十万以上の利益をあげられる。すると一回で一カ月の維持費が出るから」という。

正力松太郎の死の後にくるもの p.148-149 ランドの〝黒い噂〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.148-149 ランドの経営の内容は、本論からはずれるので、しばらく措こう。ただ、正力の〝私の悲願〟が、黒い手に汚されたのでは、正力のために惜しまねばならない。
正力松太郎の死の後にくるもの p.148-149 ランドの経営の内容は、本論からはずれるので、しばらく措こう。ただ、正力の〝私の悲願〟が、黒い手に汚されたのでは、正力のために惜しまねばならない。

そのように売店の売上げ利益は大きい。だが、ランド内の売店は、東京レストラン経営という、新設の会社に委託され、その会社の監査役に、ランド建設の工事人である、大成建設営業本部第三部長仁科英男氏が加わっていた。また、同様に、ランドと同時期に新設された、清水スポーツサービスセンターという、ランド御用の会社には、ランド営業部長志倉竜男が重役として名を列ねていた。これは何を意味するのであろうか。読売が大成建設に支払った金は、ランドだけで八十億、未払い三十億ともいわれ、その工事人が、ランド御用会社の重役である。

そればかりではない。スポーツ用品、備品の納入についても、〝黒い噂〟は多く、経理部長であった志倉が営業部長に転じ、経理部長には巨人軍の高橋が出向し、常任監査役には、正力亨夫人の父に当る梅渓通虎が当られたというが、新聞が苦しんでまでヒネリ出している金が、特定個人の私腹を肥しているとすれば、読売労組は何とするであろうか。ランドの経営の内容は、本論からはずれるので、しばらく措こう。ただ、正力の〝私の悲願〟が、黒い手に汚されたのでは、正力のために惜しまねばならない。

ランドの後背地、都下南多摩郡稲城村は、首都圏構想によって、住宅都市として開発されることになっている。関東レース高橋副社長が、最近、ランド七十万坪を宅地造成して売却したい旨を語ったといわれるが、読売はランドとの奇妙な関係を明らかにしておかねば、もしもの時は、ソックリ、アカの他人のものとなるのである。

正力〝法皇〟に対する本田〝天皇〟

派閥とボスの集団! 私はかつての毎日新聞を、あえてこう表現せざるを得ない。戦後、正力の読売が驚異的にのびて、それまでの〝朝毎〟二紙対立の時代から、〝朝毎読〟三大紙時代となり、さらに、毎日の〝有楽町敗退〟から〝朝読〟二紙拮抗時代へと変ってしまったのも、時の流れである。毎日記者をして「朝日の〝大朝日意識〟と読売の〝読売精神〟、しかし毎日には何もない!」と嘆ぜしめたのもむべなるかなであろう。

その毎日の体質をみてみよう。

毎日新聞の実態を、端的に示す一つのエピソードがある。

前社長本田親男は、〝本田天皇〟と称せられるほどの、長期独裁政権をほしいままにした人であった。その〝本田天皇〟が〝御巡幸〟の旅に出られ、時間の都合で深夜おそく、宿泊予定の旅館に到着された時のことである。当該温泉地を管内に持つ毎日新聞支局長は、恐懼感激して御入浴を先導申しあげ、自ら〝天皇〟のお背中をお流し申しあげたのであった。時刻は、もはや午前二時をまわっていた。