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正力松太郎の死の後にくるもの p.002-003 目次 1~5

正力松太郎の死の後にくるもの p.002-003 目次
正力松太郎の死の後にくるもの p.002-003 目次

正力松太郎の死の後にくるもの——目次

1 正力さんと私(はじめに……)

銀座の朝に秋雨が……/正力〝社長〟の辞令

2 死の日のコラム休載

編集手帖なしの読売/正力なればこその「社主」

3 有限会社だった読売

悲願千人記者斬り/「畜生、辞めてやる!」の伝統/慄えあがった編集局長/五人の犯人〝生け捕り計画〟/社史にはない二度のスト/強まる「広報伝達紙」化/記者のド根性/紙面にクビをかける

4 〝務台教〟の興隆

朝・毎アカ証言の周辺/記事の魅力は五パーセント/読売の〝家庭の事情〟/務台あって の〝正力の読売〟/販売の神サマ復社す/七十三歳のブンヤ〝副社長〟/〝読売精神〟地を払うか/出向社員は〝冷飯〟組/正力〝法皇〟に対する本田〝天皇〟/〝アカイ〟という神話の朝日/封建制に守られる〝大朝日〟

5 正力コンツェルンの地すべり

正力代議士ついに引退す/報知新聞のド口沼闘争/伝説断絶の日本テレビ/〝務台教〟に 支えられる読売/小林副社長〝モウベン〟中/〝社長〟のいない大会社/新聞、週刊誌に追尾す

正力松太郎の死の後にくるもの p.182-183 亨は報知との縁は全く切れた

正力松太郎の死の後にくるもの p.182-183 この報知関係の人事異動の意味するところは大きい。さきにのべた〝報知は亨、日本テレビは武〟は、全くのハズレだったのである。冒頭に書いた正力松太郎と正力コンツェルンの苦悩とは、このことなのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.182-183 この報知関係の人事異動の意味するところは大きい。さきにのべた〝報知は亨、日本テレビは武〟は、全くのハズレだったのである。冒頭に書いた正力松太郎と正力コンツェルンの苦悩とは、このことなのである。

パーティの式辞原稿で大会社の専務が退社するとは、このルーモアが示すところに、現在の日本テレビの体質があるのであるが、それは後述しよう。
ともかく〝地すべり〟は始まり出した。そのころ、四十三年十月二十四日には、正力タワー

(日本テレビ大テレビ塔)の起工式が行なわれており、同十一月二十九日の株主総会では、取締役九人の増員を決め、正力亨報知新聞社長が、新取締役に加わり、副社長に選任されたのであった。と同時に、正力武は日本テレビ取締役のまま、株式会社よみうりランド常務取締役となり、管理部長を兼ねることとなった。

つづいて、十二月三十日に報知新聞は、臨時株主総会と取締役会を開き、正力亨社長と大江原矯専務の辞任を承認し、新社長に菅尾且夫(読売西部本社専務)を選んだ。傍系の報知印刷所も享会長と棚橋一尚社長の辞任を承認、岡本武雄(元産経常務)を社長に選んだ。

つまり、これで、亨は報知新聞社長、報知印刷会長を共に退陣し、報知との縁は全く切れたわけである。読売興業やランドの平取をのぞけば、日本テレビ副社長一本になったということになる。ついでながら、大江原は旧報知(昭和十八年の読売と報知の合併以前をさす)出身で、戦後の読売と報知分離時代から、一貫して旧報知人代表の格で、報知の経営に関与してきたのであったが、彼の退陣で、もはや〝旧報知〟という感触は全くなくなったことを意味しよう。報知印刷を去った棚橋は、読売の編集庶務部長、地方部長などを経た記者出身であった。

この報知関係の人事異動の意味するところは大きい。さきにのべた〝報知は亨、日本テレビは武〟は、全くのハズレだったのである。冒頭に書いた正力松太郎と正力コンツェルンの苦悩とは、このことなのである。

報知新聞のドロ沼闘争

麹町から国会へ抜ける隼町一帯は、そのころのどかな春の陽気とはウラハラな、重苦しい雰囲気が立ちこめている。報知新聞があるからである。社屋玄関には、「労協改悪反対」「組合つぶしをやめろ」「岡本体制、断固粉砕」などのアジビラが、不動産屋の入口さながらに貼りまわされ、赤、青の腕章の若者たちが徘徊している。近くの喫茶店に立ち寄っても、この腕章たちがタムロしていて、コーヒーをたのしむ気にもなれない。報知労組のドロ沼闘争のせいである。五月三日付の報知は休刊になったほどだ。

報知の戦後史について語らねばならない。戦時中の新聞統合で、「読売報知」となったものであるが、読売の銀座の本社ビルは焼け、現在の十合デパートの場所にあった報知の社屋は残った。読売はそこで編集されていた。やがて、報知が娯楽紙として再刊されることになって、社会部長から企画調査局長となっていた竹内四郎が、社長として赴任した時は、銀座の本社ビルの裏、東電銀座支社隣りの木造二階建てバラックの社屋であった。

読売の部長、局長として、大型車に乗っていた竹内は、社長になったために、田舎医者がよく

乗っていた細い車輪のダットサンの小型車に、きゅうくつそうに乗らねばならなかった。当時の報知にはこんな社長乗用車とサイドカー程度しかなかったようだ。

正力松太郎の死の後にくるもの p.184-185 竹内は〝報知新聞中興の祖〟となった

正力松太郎の死の後にくるもの p.184-185 竹内は、この社長室に陣取って、〝報知独立王国〟を悲願とした。竹内—大江原—森村トリオは、ただひたすら報知の再興を念じていたようだ。原稿も、取材も、無電さえも、読売の世話になるな、というのが、竹内—森村の口グセであった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.184-185 竹内は、この社長室に陣取って、〝報知独立王国〟を悲願とした。竹内—大江原—森村トリオは、ただひたすら報知の再興を念じていたようだ。原稿も、取材も、無電さえも、読売の世話になるな、というのが、竹内—森村の口グセであった。

読売の部長、局長として、大型車に乗っていた竹内は、社長になったために、田舎医者がよく

乗っていた細い車輪のダットサンの小型車に、きゅうくつそうに乗らねばならなかった。当時の報知にはこんな社長乗用車とサイドカー程度しかなかったようだ。

床のキシむ裏二階の社長室は、昼間から電燈をつけねばならなかった。読売では冷遇されていた、といわれる竹内は、この社長室に陣取って、〝報知独立王国〟を悲願とした。当時、関節の奇病に倒れ、やはり不運をカコっていた、竹内社会部長当時の筆頭次長であり、文化部長を経ていた森村正平を、半身不随の身体のまま、報知編集局長によんで、竹内—森村コンビの「報知新聞」が出された。業務面は、さきの大江原が協力した。報知は折からのスポーツ・ブーム、レジャーブームにのって、グングンと部数をふやした。竹内は社会部時代の旧部下を好んで報知によび、竹内体制を固めていった。

竹内の後任として、文化部長から社会部長に着任した原四郎が、やがて、読売の編集総務となり、出版局長へとすすんで、取締役に列した昭和三十三年、竹内はまだ読売本社ではヒラであったし、三十五年になって、ようやく役員待遇となっている。

そんな不満もあったに違いない。竹内—大江原—森村トリオは、ただひたすら報知の再興を念じていたようだ。原稿も、取材も、無電さえも、読売の世話になるな、というのが、竹内—森村の口グセであった。こうして、ダットサンはやがて外車となり、取材のサイドカーも、雨に濡れないセダンとなり、報知の旗をなびかせた取材の車が、銀座を行き交うようになったのである。

現在の平河町の新社屋が竣工して、事実上、竹内は〝報知新聞中興の祖〟となったが、それからまもない昭和三十八年四月二十一日突然に病を得て死んだ。森村もまた、読売本社出版局に帰っていたが、後を追うように、四十三年一月十八日、こうじた宿痾のため、世を去った。

竹内の後を襲って、正力亨が社長となった。亨の経歴をみると、昭和十七年十月、慶大経済を繰りあげ卒業。二十一年五月、王子製紙入社、三十一年六月、読売事業部入社、三十三年五月、関東レース倶楽部取締役、三十四年六月、読売監査役、同十二月、読売興業取締役、三十五年六月、読売取締役、三十七年十二月、読売興業副社長、三十八年五月、報知社長、同六月、報知印刷会長、三十九年読売興業代取専務、四十三年一月、よみうりランド取締役、同十一月、日本テレビ副社長というものである。

竹内の遺した報知の幹部は、ほとんどが読売の編集出身であった。沢寿次編集局長、藤本憲治総務部長、羽中田誠社長室長といった人たちは、みな社会部記者たちである。沢の後任、村上好信は地方部長、棚橋もまた同じである。そして、報知は部数の増加とともに社員もふえて、あの銀座のウラ店の二階を知らない人たちばかりになってしまった。

報知労組が、そして常に共闘する報知印刷労組が、いわゆる〝強い組合〟になってしまって、報知が〝会社でない〟状態にまで陥ってしまった遠因はここにあった。いま、隼町界隈でみる、あのウソ寒いドロ沼闘争の芽は〝中興の祖〟竹内の衣鉢を継ぐものに、人を得なかったというに

ある。

正力松太郎の死の後にくるもの p.186-187 「ナンダ。たべないのか」

正力松太郎の死の後にくるもの p.186-187 報知の部長会が、社の近くの天ぷら屋の二階で開かれたという。部長連は、どんな御馳走かと、固唾をのんでいるうちに、皆の前に配られたのは一つの天ドンだったという。
正力松太郎の死の後にくるもの p.186-187 報知の部長会が、社の近くの天ぷら屋の二階で開かれたという。部長連は、どんな御馳走かと、固唾をのんでいるうちに、皆の前に配られたのは一つの天ドンだったという。

報知労組が、そして常に共闘する報知印刷労組が、いわゆる〝強い組合〟になってしまって、報知が〝会社でない〟状態にまで陥ってしまった遠因はここにあった。いま、隼町界隈でみる、あのウソ寒いドロ沼闘争の芽は〝中興の祖〟竹内の衣鉢を継ぐものに、人を得なかったというに

ある。

竹内は、アダ名を〝無法の竹〟といわれた親分肌の男であった。弁説さわやかならず、よく社会部記者になれたと思えるほど。それなればこそ、能く〝中興の祖〟たり得たのであろうか。これに反し、亨社長は〝奇行〟の人であり、大の組合ギライであった。組合ときけば、手にフルエがくるといわれるほど。

亨と面識すらない私には(彼の読売幹部時代にスレ違いで、私が退社した)、彼の人柄を語れない。しかし〝風聞〟のエピソードを紹介すれば、彼の〝奇行〟が納得されよう。

報知の部長会が、社の近くの天ぷら屋の二階で開かれたという。部長連は、どんな御馳走かと、固唾をのんでいるうちに、皆の前に配られたのは一つの天ドンだったという。亨社長は、自分の前におかれた天ドンをとりあげるや、早速やりだした。しかし、傍らの連中にはたべろとすすめない。

社長から遠くはなれた末席の連中は、ガヤガヤとやり出したが、近くの連中は、社長がすすめないので、手もつけられずにいたところ、自分の天ドンをくいおわった社長は、フト隣席をかえりみて、「ナンダ。たべないのか」というや、その一つに手を伸ばしてフタをとり、天ぷらだけを食ってしまった、という。

また一日、読売の編集局長を招いて、レクチュアをさせたという。そして、社長は局長と自分

とにだけ、コーラをたのんで、うまそうに飲みほした。列席の他の者たちにはお構いなしなので、これを怪んで読売の局長が問うたところ、「貴方はしゃべってノドが渇いたろうから御馳走する。私はのみたいからのんだ。みなも、ほしいものは、自分で金を出してのめばよい」と、答えた。徹底した合理主義である。

合理主義も結構である。そして、千円以上の会食申請書(取材で誰かにあって、のみくいする費用が、千円を越す場合には、申請書を出すのだそうである)は、社長の決済印が必要だとして、自分でハンコを押すのも結構である。だが、新聞という不思議な企業は、それこそ、「人」が資本なのである。合理主義に徹して、企業の合理化は図れない。

例えば、取材の電話代である。出張先からの電話送稿の場合、週刊誌などでもそうであるが、地方から本社に電話を入れ、自分の所在地の電話番号を教えて切る。数分後に、本社から電話がかかってくる。通話料を本社の直通電話に負担させて、送稿をするが、出張の精算書では、抜け目なく「電話料」をとるのである。こうして数千円の金を浮かせるのが、記者の英気を養う小遣い銭になる。天ドンやコーラや、千円の会食費審査のアミにはかからない〝不合理〟なのである。

記者経験しかない補佐役に、合理主義の社長のもとで、組合側はドンドン力を伸ばし、すぐ時限ストの実力行使に入り、会社側には十分な人事権すらない労働協約までモノにしてしまった。そして、印刷所とは常に共闘である。組合員五九〇名だから、会社側の管理職だけでは、新聞の

発行ができない。それどころか、印刷工場(二六○名)の同調で、刷りにも困る。こんな事情もあって、会社はつねに譲歩に譲歩を重ねた。

正力松太郎の死の後にくるもの p.188-189 〝無法の竹〟竹内ならバカヤローッの大喝

正力松太郎の死の後にくるもの p.188-189 竹内—森村ラインの、〝報知独立王国〟という、新聞記者魂の、読売への叛骨精神。彼らの精神は、その死去とともに断絶して、報知新聞は、本家の読売とは全く関係のない、他人のスポーツ紙と化してしまった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.188-189 竹内—森村ラインの、〝報知独立王国〟という、新聞記者魂の、読売への叛骨精神。彼らの精神は、その死去とともに断絶して、報知新聞は、本家の読売とは全く関係のない、他人のスポーツ紙と化してしまった。

記者経験しかない補佐役に、合理主義の社長のもとで、組合側はドンドン力を伸ばし、すぐ時限ストの実力行使に入り、会社側には十分な人事権すらない労働協約までモノにしてしまった。そして、印刷所とは常に共闘である。組合員五九〇名だから、会社側の管理職だけでは、新聞の

発行ができない。それどころか、印刷工場(二六○名)の同調で、刷りにも困る。こんな事情もあって、会社はつねに譲歩に譲歩を重ねた。

もしも、〝無法の竹〟こと竹内が社長であったなら、バカヤローッの大喝で、組合とは決裂しても、譲歩はしなかったであろう。労担重役となった藤本も、東大卒で、本人自身が論理的人物であるだけに、極めて論理的な攻撃には弱い、誰にでも好かれる好人物であるから、労担重役には向かない男だ。社長がジイサマの御曹司とあれば、サラリーマン経営陣が弱体であるのは当然である。編集局の部長クラスに出向してくる読売記者はみな組合に突きあげられて、ほうほうの態で本社に逃げ帰るものが続出した。

これでは、報知の今日を築きあげた、竹内—森村ラインの、〝報知独立王国〟という、新聞記者魂の、読売への叛骨精神は、全く別な形で実現してしまったようである。彼らの精神は、その死去とともに断絶して、報知新聞は、本家の読売とは全く関係のない、他人のスポーツ紙と化してしまった。六百の社員に七十万の部数。一人当り千部という新聞経営の理想的な状態にありながら、十分な収益をあげられない実情にあったのではあるまいか。

正力の胸中にも、亨の経営責任が去来したのであろうか。同時に販売店からの読売務台副社長への突きあげもあったのであろう。しかし、報知のこの現況を、亨社長個人にのみ追求するのは酷にすぎよう。社会部記者のみで幹部を固めた竹内の意図と、その期待に応え得なかった社長側

近にも、その一端を負わすべきである。

伝説断絶の日本テレビ

正力の女婿小林与三次が、自治省次官を辞して読売に入ってきたころ、代議士の後継者は小林といわれていた。正力の地盤は高岡である。すでに当選五回、トップの松村謙三は破れないものの、前回で、定員三名の二位、六四、九○二票を得て、三位の社会党と一万弱の差である。だが、高岡が新産業都市に指定されて、漁民がひっそくし、工員とその家族がふえてくると、他府県からの流入人口が多くなり、正力支持票が減少しているようである。ことに、地元の富山県知事が、前から出馬したがっているのを抑えてきてもいるし、公明党が立候補すると、晩節を汚すおそれも出てくる。

正力の名前ならば、地元民にも利くけれども、小林姓になれば、たとえ女婿でも馴染みがうすくなる。小林は人物、識見とも立派だが、女婿にゆずるというほど強固な地盤というものではない。では正力亨はどうかとなると、あの〝合理主義〟では地方の選挙民がついてこられるものではない。