広告主の紙面への干渉が、出稿・掲載という経済行為だ、と割り切れない〝日本的〟な習慣だと非難しながらも、今度は販売、拡張面では、その〝日本的〟な習慣を逆手にとって、読者の固定化を図ろうというのである。これは広告主の編集権への侵害であると同時に、読者の紙面撰択権
への侵害でもある。新聞とは、〝大朝日〟においてすらも、かくの通り、〝御都合主義〟であるということを示している。
渡辺は、宅配崩壊後の〝新聞のあり方〟についての質問の中で、わずかにこの程度の具体論にサッとふれただけで、得意の専門分野の〝未来の新聞〟へと、体をかわしてしまったのである。
私は反問した。「部数が不安定では、経営が不安定だというのは、新聞経営者としての一方的な考え方であって、そこでは、〝読者不在〟ではないでしょうか」と。
事実、これからの「マスコミとしての新聞」においては、いよいよ読者不在の傾向が強くなってゆくのである。それが、朝日、読売の二巨大紙の〝超巨大化〟を推進して、いわゆる言論機関としての機能が退化し、意見広告などの、広告面を中心とした、〝広報伝達紙〟の形をとってくるであろう。
意見広告のすう勢は、同時に、言論機関としての、ミニコミ、小新聞、ガリ版新聞の隆盛を促してくるのだ。ここに、ハッキリと大新聞と小新聞の機能別併存が約束されよう。
私は渡辺との会見で、このような判断の確信を得たのだった。
読売の別刷り第一面から、投書欄が〝敗退〟したということ、それが、たとえかねてからの予定の〝撤退作戦〟であろうと、なかろうと、これは、大新聞の体質が、〝広報伝達紙〟に転換しつつあることを示している。
かつての読売編集局長の小島が、「社主の魅力でとっている読者が四〇%、巨人軍でとっているのが二〇%、記事が良いからとっているのが五%」と述べて、全社的失笑を買った話は、前稿で紹介したが、いまや、正確にいうならば、「新聞をとっている」理由の大部分は、ラジオ、テレビという新しい媒体が出現してくる以前からの、長い間の〝慢性的習慣〟であり、そして、新しい世帯の読者は、「ラジオ・テレビ番組があって便利だから」というのが、真相に近いのではあるまいか。
すでに、「社説」が盲腸化したことは、論説委員の質的、社内的評価の下落とともに、万人の認めるところであり、かつ「投書欄」の投稿者が、固定化し、プロ化していて、もはや、〝読者の声〟を反映していない事実もまた、関係者のひとしく認めるところだ。
この「社説」や「投書欄」が、新聞の〝社会の木鐸〟時代の、最後の名残りであった。朝日が、社説の使用活字を大きくして、組み方を変えたのも、読売が、別刷り第一面に、投書欄を持ってきたのも、ローソクの灯の最後の明るいまたたきであった。そして、この読売の別刷りのラ・テ番組に組み合わされている、放送ニュース、読みものなるものは、一般紙の娯楽紙寄り、芸能紙誌寄りの傾向を示して、わずかに、家庭・婦人欄にセックス記事の出てこないことで、一般紙としての〝権威〟を保っている、といえよう。
このような、大新聞の「広報伝達紙」化の傾向は、今後、強まるとも、決して弱まりはし
な
い。