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赤い広場ー霞ヶ関 p.150-151 「彼と私は全く相容れない立場」

赤い広場ー霞ヶ関 p.150-151 In Siberia, Activist Michitaro Murakami ruled the Raichikhinsk camp after the exile of "the Emperor Raichikhinsk" Shizuo Nakanishi, and was called "the Emperor Murakami".
赤い広場ー霞ヶ関 p.150-151 In Siberia, Activist Michitaro Murakami ruled the Raichikhinsk camp after the exile of “the Emperor Raichikhinsk” Shizuo Nakanishi, and was called “the Emperor Murakami”.

問——ソ連の一少将が戦犯への文通、送金自由といったからとて、具体化の見通しもなく

発表したのは?

答——研究中だということだ。私なら発表はしない。高良氏のことにはもう答えない。

問——あなたは共産党員もしくは共産主義者か。

答——党籍は持っていない。(冷笑して)党員に向って党員かときいた時、党員ですと答えるバカはいない。

問——ロシヤ語を話し、アクチヴだったあなたが計画的に女史を入ソさせ、いいように女史を操っていたのではないか。

答——高良氏のことにはもう答えない。

問——抑留地イルクーツクでだれかに会ったか。シベリヤで日本人に会ったか。

答——(沈黙)

問——さっきその他いろいろな影響があるといった、いろいろな影響とは?

答——第一に学徒援護会に迷惑がかかる、私だって生活して行かなきゃならない……(再び声を荒らげて)記事にする気なのか。私はオフレコのつもりで話したのだ。もう話したくない。

約四十分、村上氏は外出の時間があると打切った。最後に声をひそめて、『今さらなにを調

べるんです。もしもこんなことをスッパ抜くと、貴方は、大衆の怒りを買いますよ、国際的にも……』と真剣な表情で、明らかに脅迫の言葉を記者に投げつけた。

高良とみ女史談『村上氏のことは学徒援護会で聞いて下さい。あの人は私の秘書ではありません。前身やらいろいろ隠していたことがあったので、グリーン・クロスの書記長はパリの会議が終るとすぐやめてもらいました。もう何の関係もない人です。入ソおよび在ソ間の私は私自身の意思で行動しました。村上氏に引回されたということはありません。ともかく彼と私は全く相容れない立場にあるのです』

私はここで非常に数多くの疑問を感じたのである。この疑問を当局のアナリストにただしてみた結果、当局でもまた、私と同じような判断を下しているのだった。

疑問の第一は、高良、村上両氏の結びつきである。シベリヤ、ライチハ収容所における村上氏は、〝ライチハ天皇〟こと中西静雄氏がボスとして追放されたのち、その実権を握り地区講師兼文化部長で〝村上天皇〟(シベリヤには何と〝天皇〟の多かったことか)と称されるにいたった。これは政治学校で教育され「人間変革」を完成したアクチィヴィストである。

その彼が復員後SCIの縁十字運動書記長として会長の高良女史と結んだのは、果して故意か偶然かということだ。ここに同氏の父君がやはり緑化運動関係者である、という条件を考えると偶然であるともいえるが、出てきた結果からみると、シベリヤ・オルグの予定されたコー

スでもあるようである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.182-183 「仔豚は育ってきた!」

赤い広場ー霞ヶ関 p.182-183 Saito National Police Agency Commissioner said, “There are more than 60 Japanese Soviet spies under Rastvorov.”
赤い広場ー霞ヶ関 p.182-183 Saito National Police Agency Commissioner said, “There are more than 60 Japanese Soviet spies under Rastvorov.”

ソ連の手口である。ラ氏の失綜は形式的には、アメリカの拉致である。だが、真相は謀略的亡命である。わざと拉致されたのだ。そして敵の手中に入ってから、味方の意図するような自

供をする。ひったくりという、アメリカの手口に、つけこんだのである。

諜報謀略の原則は、七割与えて十割取る、肉を切らせて骨を切る、と同じである。「宗谷岬に漂うソ連兵の死体」で述べた、死体謀略の逆手ともいうべき、〝生体謀略〟である。つまり死体の携行書類の代りに、生きて口でシャベるのである。しかも、十年もたってから、ラ氏が米国内で自由の身となれば、敵中に一拠点を設けられるということだ。

『ウーム、それならば一切の疑問が解決する』

アナリストは、この著想に思わず唸りながら、急いで日ソ双方の全権団名簿を取出してみつめた。

交渉地ロンドンの、駐英ソ連大使を兼ねるソ連全権はマリク氏である。マリク氏は終戦時の駐日大使で、スターリン調停を依頼して煮湯を飲ませた男である。当時の外相は重光現外相、当時の外務次官は松本全権。

ソ連随員のゲオルギー・パブリチェフ氏は、終戦時のハルビン総領事で、その謀略性には流石の関東軍特務機関も、手をあげさせられた男である。しかも、戦後は代表部員でずっと日本にいた。ソ連随員で通訳のアデルハエフ氏は、政治上級中尉で、戦前から二十二年まで代表部に勤務し、二十九年と三十年の二度にわたって、エカフェ代表として日本を訪れている。

そしてまた、日本随員の都倉氏は、パブリチェフ氏と同じように、終戦まではハルビン勤務、しかも、戦後は同じ東京にいた。

――何という、奇縁に連らなる人々ばかりだろうか!

――そして、そこへ、清川特派員がモスクワからロンドンへ来ていたとしたら……?

『仔豚は育ってきた!』

こればかりは氏名を明かにできないのだが、この〝当局のアナリスト〟は、こう叫んで立上っていた。

斎藤警察庁長官が、小坂質問に答えて『ラ事件の関係日本人は、六十数名いる』といった。また二十九年八月二十日付の毎日新聞によると、当時の小原法相は『近く第二次発表を行い、関係民間人二十数名の氏名を明らかにする』と、記者会見で語っているが、何故かこの発表は行われなかった。

もちろん、そのかげにはいろいろな政治的理由があろうが、小原法相のいう「二十数名」は丸十ヶ月後には斎藤長官のいう「六十数名」と、三倍にハネ上っている。依然として捜査が続けられていた証拠である。

そして、今にいたるも、この六十数名は明らかにされていない。そして、六十数名というの が「山本調書」の全貌なのである。私が、今までに明らかになし得たのは、その一部にすぎないが、その重要な部分であることには間違いない。