思想係将校」タグアーカイブ

雑誌『キング』p.127下段 幻兵団の全貌 日本人に連絡手段はない

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.127 下段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.127 下段

——ハイ。

『貴方は星澤さんに、いつお逢いになりましたか?』
——私は、十日の夜に逢いました。

これは人名を用いるもので、星澤——いつ(反問)——何日、というように反覆される。

このような三種類の合言葉に関して、口頭で授けられる注意がある。この注意の内容をみると、この組織の規模と性格とがうかがわれよう。

『何時、何処で、何国人であっても——それは、日本人か、中国人か、朝鮮人か、あるいは印度人であるかも知れないが、合言葉をもって現れる者がいたら、お前はその者の発する一切の命令をきけ』

2 手段 Ⓐにおいては、将校が所内を見廻ってきて、机をコツコツと叩いて、眼くばせをしたら来い(タイセット)というのもあるが、一般には、各種の用事にかこつけて、思想係将校が呼び出すのではないとカモフラージュして、収容所司令部に呼び出しする。その際に報告の提出、次の命令の下命が行われていた。Ⓑも同様であるが、ともに連絡の手段は、ソ側の一方的なもので、日本人スパイからはとることができなかった。たまたま、担当将校にめぐり合った時には、その旨を申し出ることはできたが。

3 報告 Ⓐは連絡のたびごとに、必ず報告

雑誌『キング』p.122中段 幻兵団の全貌 全ソ連地域で要員摘出

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.122 中段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.122 中段

収容所で、専属の思想係将校がおらず、しかもⒶ要員であった。

2 地区 アルチョムでは二十一年暮れにはじめられたらしいが、大体において、アルチョム、ウォロシロフなどの沿海州地区、チタ、イルクーツク、チェレムホーボなどの東部シベリア地区などで、二十二年上半期に大量に、まさに玉石混淆の状態で選考された。

この連中は結局主としてⒶ要員とされて、しかも、極反動も含んだため、この組織の暴露される原因ともなった。

これと並行して選考はされていたが、コムソモリスク、ハバロフスク方面、及びカラガンダ、ベゴワード、アルマアタ方面、バルナウル、ビイスク、ロフソフカ方面、カザン、エラブカ方面などでは、二十二年下半期において、粗製らん造をさけた厳選主義で、Ⓑ要員がえらばれていた。

もちろん、ここにあげた地名は、ごく大ざっぱな分類であって、全ソ連地域の各収容所で、この要員摘出は行われていた。ただ、二十二年上半期の玉石混淆の大量生産が、主としてⒶ要員となり、同年下半期の粒選りがⒷ要員となっていることは面白い。

3 基準 Ⓐ要員には、軍隊の人事関係者、民主グループ員、特殊(本部、炊事、理髪、縫

雑誌『キング』p.110中段 幻兵団の全貌 A氏特に名を秘す

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.110 中段

A氏(特に名を秘す。三十歳、元少尉、大学卒、会社員、東京都、チェレムホーボ地区より二十二年に復員)

『A! A!』

兵舎の入口で歩哨が声高に私を呼んでいる。それは昭和二十二年二月八日の夜八時ごろのことだった。去年の十二月はじめにもう零下五十二度を記録したほどで、二月といえば冬のさ中だった。北緯五十四度という、八月の末には早くも初雪のチラつくこのあたりでは、来る日も来る日も雪曇りのようなうっとうしさの中で、刺すように痛い寒風が雪の氷粒をサアーッサアーッところがし廻している。

もう一週間も続いている深夜の炭坑作業に疲れ切った私は、二段寝台の板の上に横になったまま、寝つかれずにイライラしているところだった。

——来たな! やはり今夜もか⁉

今までもう二回もひそかに司令部に呼び出されて、思想係将校に取調べをうけていた私は、直感的に今夜の呼び出しの重大さを感じとって、返事をしながら上半身を起こした。

『ダ、ダー、シト?』(オーイ、何だい?)

第一回は昨年の十月末ごろのある夜だった。この日はペトロフ少佐の思想係着任によって、

雑誌『キング』p.23下段 シベリア抑留実記 シベリアで考えたこと

雑誌『キング』昭和23年2月号 p.23 下段 シベリアで考えたこと ソ連国民生活の実情
雑誌『キング』昭和23年2月号 p.23 下段 シベリアで考えたこと ソ連国民生活の実情

傷したり、不慮の死を招いたりする。

優遇されたのは特技者であった。腕に職のある人——工員、理髪、大工、左官、仕立屋、靴屋などは、低いソ連技術者が相手なので皆自分の本業で楽に働いていた。

シベリアで考えたこと

ソ側思想係将校が各中隊へ壁新聞を作れといってきた。私が中隊の編集者にきめられたので、皆が筆者であり、皆が興味を持てなければと考え、「ものは付」を募集した。あのシベリアで中隊の皆は何を考えていただろうか。

一、「逢いたいものは」は、九割くらいがお母さんと呼び、わずかに妻子、父、兄妹だった。

二、「食べたいものは」は、一位から十位までが、餅類、お赤飯。餅も甘い餅で、量があって腹ごたえがあるからだったろう。

三、「したいものは」は、温泉とか釣りとかゆっくりした休養を求めていたが、親孝行も上位の方だった。

四、「みたいものは」は、故郷の山河、その後の内地、肉親の顔など、毎日毎日考えていたことばかりであった。

ソ連国民生活の実情

私達の列車がシベリアに入ってからの情景は、

最後の事件記者 p.116-117 エヌカー(秘密警察)の中佐

最後の事件記者 p.116-117 私自身の手で書き、署名さえした〝スパイ誓約書〟が、今でも、秘密警察の極秘書類箱に残されているのだ。「この誓約を破ったならば、如何なる処断をうけても構いません」と、死を約束した一文とともに。
最後の事件記者 p.116-117 私自身の手で書き、署名さえした〝スパイ誓約書〟が、今でも、秘密警察の極秘書類箱に残されているのだ。「この誓約を破ったならば、如何なる処断をうけても構いません」と、死を約束した一文とともに。

だが、それにもまして、私自身が、いうなればソ連のスパイであったからだ。だからこそ、引揚者の土産話を聞けば、何かピンとくるものがあるのだった。

私の名は、ソ連スパイ! 私が、「このことは、内地へ帰ってからも、たとえ、肉親であっても、決して話しません。」と、私自身の手で書き、署名さえした。〝スパイ誓約書〟が、今でも、ソ連国内のどこかの、秘密警察の極秘書類箱に残されているのだ。「…もし、この誓約を破ったならば、ソ連刑法による如何なる処断をうけても構いません」と、死を約束した一文とともに。

モスクワから来た中佐

『ミー夕、ミータ』、兵舎の入口で歩哨が、声高に私を呼んでいる。それは、昭和二十二年二月八日の夜八時ごろのことだった。去年の十二月はじめに、もう零下五十二度という、寒暖計温度を記録したほどで、二月といえば冬のさ中だった。

北緯五十四度の、八月末といえばもう初雪のチラつくこのあたりでは、来る日も来る日も、雪曇りのようなうっとうしさの中で、刺すように痛い寒風が、地下二、三メートルも凍りついた地面の上を、雪の氷粒をサァーッ、サァーッと転がし廻している。

もう一週間も続いている深夜の炭抗作業に、疲れ切った私は、二段べッドの板の上に横になったまま、寝つかれずにイライラしているところだった。

――来たな! やはり今夜もか?

今まで、もう二回もひそかに司令部に呼び出されて、思想係将校に取調べをうけていた私は、直感的に今夜の呼び出しの重大さを感じとって、返事をしながらに上半身を起した。

『ダー、ダー、シト?』(オーイ、何だい?)

第一回は昨年の十月末ごろのある夜であった。この日は、ペトロフ少佐という思想係将校が着任してからの第一回目、という意味であって、私自身に関する調査は、それ以前にも数回にわたって、怠りなく行なわれていたのである。

作業係将校のシュピツコフ少尉が、カンカンになって怒っているゾ、と、歩哨におどかされながら、収容所を出て、すぐ傍らの司令部に出頭した。ところが、行ってみると、意外にもシュピツコフ少尉ではなくて、ペトロフ少佐と並んで、格幅の良い、見馴れぬエヌカー(秘密警察)の中佐が待っていた。

私はうながされて、その中佐の前に腰を下ろした。