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新宿慕情 p.086-087 「お茶でも飲むか」と社の付近の喫茶店に

新宿慕情 p.086-087 社会部は、そのころでも、七、八十人はいるのである。~クラブ詰め、サツまわりなどの外勤記者が、夕方、社に上がってくると、坐る椅子もない混雑ぶりなのである。
新宿慕情 p.086-087 社会部は、そのころでも、七、八十人はいるのである。~クラブ詰め、サツまわりなどの外勤記者が、夕方、社に上がってくると、坐る椅子もない混雑ぶりなのである。

店はせまいし、椅子とて、決して坐り心地が良いわけではなく、客は付近の常連で、高話の声

がうるさく、落ち着けないので、本来ならば、キライな部類に属する店なのだが、コーヒーの美味さにひかれて〝グループ詣り〟なのである。

近くの新田裏交差点にあるバロンよりも、私は、グループを推す。バロンだってコーヒーは美味なのだが……。

私のコーヒー好きは、やはり新聞記者生活の長さからきているようだ。

昭和二十二年の秋、シベリア帰りの私を迎えてくれたのは、戦災で焼かれた本社を復旧中で報知新聞の社屋(有楽町駅前の読売会館。階下にそごうデパートが入っている建物は、戦時中の新聞統合で、読売に合併された報知新聞のビルを、建て直したもの)にいた社会部の面々であった。

時期を憶えていないが、翌年ぐらいに、銀座の本社に移転したと思う。

三階のワンフロアを、仕切りなしで占めている編集局。カタカナのヨの字形に、タテの棒が整理部。ヨコの三本棒が、社会、政治、経済と、〝一等部〟が並ぶという配置だった。

しかし、政治、経済部などは部長以下二、三十人ほどなのに社会部は、そのころでも、七、八十人はいるのである。それでも、部長の机をハシに、向かい合って二列に並ぶ机は、せいぜい二十個ほど。

ふだんは、朝夕刊交代の次長(デスク)と、遊軍十余名の席として、十分なのだが、クラブ詰め、サツまわりなどの外勤記者が、夕方、社に上がってくると、坐る椅子もない混雑ぶりなのである。

外勤記者が社に帰ってきて原稿でも書こうものなら、内勤の遊軍記者でさえ立ちん坊である。

めったに社に現われない古参のクラブ記者などは、社会部にやってくると、新人に、「なにか御用ですか」などと、すっかり部外者扱いをされたりする。

用事のある仲間や、久し振りに顔を合わせた奴などと、しばらくの間は、社会部周辺で立ち話をしていたりするが、どちらからともなく、「お茶でも飲むか」と、誘い合って、社の付近の喫茶店に出かける。

はみだしは喫茶店

夕方のラッシュ時、といっても、通勤の電車の話ではない。月給日や記者手当が出たりした日などは、このヨの字の付近は各部の外勤記者たちがみなやってきて、それこそ、立錐の余地さえないほどの〝人垣〟ができてしまうのだ。

Aとお茶を飲みに出かけ、三、四十分ほどでもどってくると、Bと出会って、またコーヒー店に行く。要するに、自分の会社なのに自分の席がない。もしも原稿を書こうとするなら、用事もなく、机と椅子を占領している男がいれば、先輩なら、「スミマセン。ちょっと……」と、明け渡しを要求し、後輩だったら「オイ。場所を貸せよ」と、追い立てを食わせる。

八十人も部員がいて、座席が二十ほどだから、ヒョイとトイレに立っても、だれか坐られてしまう。

読売梁山泊の記者たち p.078-079 元旦の夜から徹夜マージャン

読売梁山泊の記者たち p.078-079 部下たちの現金の大半を捲き上げると、彼はいう。「ナンダ、もうツケか。バカらしいから、オレは寝るゾ!」と。残された連中が奥さんの用意した御馳走を喰べながら、大福帳のマージャンである。
読売梁山泊の記者たち p.078-079 部下たちの現金の大半を捲き上げると、彼はいう。「ナンダ、もうツケか。バカらしいから、オレは寝るゾ!」と。残された連中が奥さんの用意した御馳走を喰べながら、大福帳のマージャンである。

いい仕事、いい紙面だけが勝負

昭和二十年。敗戦とともに、戦時中の新聞統合は崩れたが、新聞用紙は割り当て配給制だ。各紙同じスタートラインなので、戦前の〝朝毎〟時代は終わったか、と思われたが、やはり、朝・毎は強かった。

私は、昭和二十年代を、朝日・毎日時代と見る。昭和二十七年、大阪読売を発刊して、おくれ馳せながら、全国紙体制を整えた読売が加わって、昭和三十年代は、朝・毎・読の三紙並列の時代。

そして、昭和四十年代が、毎日が凋落して朝日、読売、毎日の時代となり、同五十年代には、それが決定的になって、朝日、読売の二紙拮抗の時代。さらに、六十年代になると読売・朝日の時代へと進んでゆく。

その、読売の飛躍のバネを、私は、前に〝読売の非情さ〟と、指摘した。私が、昭和十八年に、読売を撰択した根拠は、多分、朝毎に対し、追いつき、追いこせの、バイタリティあふれる、読売にひかれたのであろう。

読売には、学閥がない、派閥がない、と聞いていたからでもあろう。いうなれば〝荒野の七人〟だったのである。事実、昭和二十二年、シベリアから復員してきた私が、読売社会部に復職してみて、その〝雑軍〟ぶりに驚いたものであった。

経歴不詳、前職不明。文字通りの〝エンピツやくざ〟が、社会部記者と称していたのであった。明

治時代の新聞記者が、役者の〝河原乞食〟と同列に、「探訪」と「戯作者」に分類され、「職業の貴賤」のうちの、「賤」に位置していたことを、ほうふつとさせるものがあった。

社会部記者の華は、〝金と酒と女〟の結果の「事件」であった。だから、当時は、原稿の書けない記者が、ゴロゴロしていた。それでも、〝金と酒と女〟とに原因する事件だけは、嗅ぎつけてくるのだ。

その、〝エンピツやくざ〟百名を統轄する社会部長が、〝やくざ〟さながらの、府立五中、慶大卒の竹内四郎であった。竹内ならでは、あの〝梁山泊〟そのままの社会部を、率いることは、できなかったであろう。

正月には、逗子の竹内家に、社会部員が連日やってくる。元旦の夜から、徹夜マージャンである。竹内部長は、部下たちから、容赦なく、賭け金を取り立てる。実際、強引な打ち方で強い。

部下たちの現金の大半を捲き上げると、彼はいう。「ナンダ、もうツケか。バカらしいから、オレは寝るゾ!」と。残された連中が奥さんの用意した御馳走を喰べながら、大福帳のマージャンである。

部下たちは、疲れ切って、東京に帰ってゆく。金がないから、社へ出て、取材費の前借伝票を書いて、デスクに出す。ポンとハンコを押す。編集庶務へ行くと、その伝票は現金になる。そこで、仲間同士で、大福帳の精算をする。

松が取れたあたりから、竹内部長は、「オイ、あの件はどうなった?」と、ハッパをかけ出すから、〝エンピツやくざ〟たちは、駈けずりまわらざるを得ない。

これが、昭和二十年代前半の、読売社会部のバイタリティだったのである。