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迎えにきたジープ p.072-073 次の情報を提供することを誓約

迎えにきたジープ p.072-073 By March 15, I was called twice and was forced to sign, but did not respond. However, seeing my subordinates fall down one after another due to extreme overwork, I finally signed the spy pledge on March 16th.
迎えにきたジープ p.072-073 By March 15, I was called twice and was forced to sign, but did not respond. However, seeing my subordinates fall down one after another due to extreme overwork, I finally signed the spy pledge on March 16th.

二月四日再び呼び出され調査を受く。そのときには中佐がいて前回と同様訊問し、次の如き事項を誓約せしめんとした。

1 収容所内に於ける軍国主義者の摘出。
2 内地帰還後に於てソ連代表者に対する情報の提供。

私は日本人として出来ないと断言して席を立たんとした。すると中佐は次の如く脅迫した。

1 お前は重労働五十年の刑に処せられる。

2 お前の大隊は直ちに伐採に出す、人事権は私が掌握している。

3 お前の大隊は一番遅れて内地に帰す。

しかし私は室を出た。二月十一日夜突然私の大隊は伐採作業の命を受けた。

三月十五日迄に前後二回呼出され、署名を強要されたが応じなかった。しかし極度の過労の為つぎつぎと部下は倒れて行くのを見て、私は遂に三月十六日署名した。

1 私の偽名を丸太波乗と云う。

2 『私はクレムペラーを持って来ることが出来ませんでした』と云って来る者(それは如何なる国の人であるか判らない)に次の情報を提供することを誓約する。

イ 内地に於ける細菌研究所の位置、内容、研究主任者氏名。

ロ 内地に於ける軍需工場の位置、内容、主任者氏名。

一九四七年三月十六日      署名

その後で中佐に、もし私が内地に帰還後情報を提供しなかったら如何になるかと問うた所『アナタの御想像にまかせます』と答えた。

注意事項として次の事項を云われた。

1 ソ連大使館に積極的に近づいてはならない。

2 舞鶴で米軍の調査を受けても、山の中で何も知らないと答えよ。

三月十七日私の大隊は伐採作業の中止を命ぜられた。

四月二日マルタ収容所で例の通訳と写真機(小型ライカ)を持った地方人に、写真撮影されようとしたが、目的を示さないので拒否した所、日本新聞にのせると称して半身脱帽(将校服、坊主頭姿)で三枚写された。

八月十五日ナホトカで突然例の通訳が来て『元気ですか、それでは願います』と云われた。

九月二十五日ナホトカ出港、二十七日舞鶴港に到着した。私の落着先は鳥取市内某方であるが、本年末又は明春には札幌市内某方(父の友人)に行く予定である。私の様に任務を命ぜられた者は、マルタ収容所だけでも二十名を下らない。

招かれざるハレモノの客

一 七変化の〝狸穴〟御殿

三十年一月二十五日、鳩山首相は元駐日ソ連代表部ドムニツキー首席の訪問を受けて、ソ連政府の日ソ国交調整に関する意志表示の文書を受取った。そして、それ以来日ソ国交調整の動きは二十九年末以来の潜在的動きとは打って変って、日々眼ま

ぐるしく進みつつある。

迎えにきたジープ p.074-075 今や「事実上のソ連代表部」

迎えにきたジープ p.074-075 Only the Soviet embassy, which was a neutral nation until the end of the war, was in a position of "wolf in sheep's clothing". Finally, the wolf showed its true nature by throwing away the sheep's skin.
迎えにきたジープ p.074-075 Only the Soviet embassy, which was a neutral nation until the end of the war, was in a position of “wolf in sheep’s clothing”. Finally, the wolf showed its true nature by throwing away the sheep’s skin.

一 七変化の〝狸穴〟御殿

三十年一月二十五日、鳩山首相は元駐日ソ連代表部ドムニツキー首席の訪問を受けて、ソ連政府の日ソ国交調整に関する意志表示の文書を受取った。そして、それ以来日ソ国交調整の動きは二十九年末以来の潜在的動きとは打って変って、日々眼ま

ぐるしく進みつつある。

この事実は二十七年五月三十日に日本政府が代表部に対して行った、「講和発効後存在の法的根拠を失った」旨の正式通告を否定して、存在を認めるという事実上の承認にもひとしいことである。

この〝変転〟も、太平洋戦争以前に、さかのぼってみてみると、まさに七変化の〝狸〟である。まず戦前は正式な外交関係があり、大使館として認められていたことは、いうまでもあるまい。

だが、戦争ぼっ発と同時に、米英の連合国側大公使館は敵産として管理され、独伊は同盟国として、ゾルゲ事件が起きたほど寬大な自由を得ており、終戦直前まで中立国であったソ連大使館だけは、〝自由+監視〟という、まさに〝狼+羊の皮〟といった中途半端な立場におかれていた。そしてついに狼は羊の皮をカナぐりすてて本性を現わしたのであった。中立国の大使館は三転して敵産になると、アッという間もなく、対日理事会駐日ソ連代表部に変った。この期間がすぎたのが、二十七年四月二十八日の講和発効と同時の、対日理事会の消滅の時からである。

五度変って「元」ソ連代表部となった。これは日本政府がその存在を認めず、外交上の恩恵

によって、あえて退去強制をしないということからである。従って電話帳でも、「モ」の字の項に配列されたのである。

それが今や「事実上のソ連代表部」となった。やがて近い将来に、再び大使館にもどって、その七変化を終るに違いない。

また対日理事会時代の内容は、日本側にとって全く分らないのは止むを得ないのだが、最盛期には家族も含めて約五百人はいただろうといわれている。

その維持費はすべてPD(占領軍調達命令書)でまかなわれていたのであるから、つまり日本政府の負担だったわけである。これを二十五年度でみると、四千二万、六千七百六十円で、各国代表部中のナムバー・ワンであった。

シカゴ・トリビューン紙のウォルター・シモンズ特派員の調べによると、次のような数字が出されている。(年度不明)

部員の洗濯代   五一〇万・〇円
自動車維持費   五三二万・〇円(四十台)
家具購入費   一七四六万・三〇〇〇円
新聞雑誌代    二二八万・六一八八円
印刷製本代    二二七万・四八〇〇円
事務需品代    四二五万・六〇〇〇円
フィルム代      一万・九五七二円
衣服仕立代    二五一万・五二〇〇円
家具修繕費    五一〇万・〇円
製パン費     七二〇万・〇円

 合計     五一五三万・四七六二円