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正力松太郎の死の後にくるもの p.020-021 〝小さな〟異変があった

正力松太郎の死の後にくるもの p.020-021 読売の朝刊のすべてに必らず掲載されている、「編集手帖」というコラムが、この五版だけは、「本日休みます」という、断り書きで、 休載になっていたのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.020-021 読売の朝刊のすべてに必らず掲載されている、「編集手帖」というコラムが、この五版だけは、「本日休みます」という、断り書きで、 休載になっていたのである。

新聞人としての正力松太郎、新聞人としての正力亨、それぞれの批判は、それぞれの事蹟をもって、その判断の根拠とされるのである。愛憎、好悪の感情をもってさるべきでないことは明らかである。

大新聞社という機構の中にいると、この〝感情〟が、〝冷静な批判〟を動かしてきて、終りに

は、主客転倒して、感情論を批判だと思いこんでしまうようである。

私が、「大正力の死」について、追憶を述べるのには、人を得ていないといったのは、そんな形での、感覚的な(触覚的なというべきか)接触がなかった人間だから、という意味で、前述した通り、大正力の遺したなにかについて書くならば、十分に書ける立場であったのである。

さて、本論に入って、十月十日付、つまり正力死去の翌日付の読売朝刊五版(注。夕刊が一版から都内最終版の四版まであるから、五版というのが、東京読売がつくる朝刊の第一版ということになる。朝刊は、この五版から都内最終版の十四版まである)に、〝小さな〟異変があったのは、東京の読者では気付かれなかったのが当然であろう。

この五版というのは、東京本社管内で、一番遠隔地に配達される新聞だから、青森とか名古屋だとかに行く新聞である。その五版の一面下、読売の朝刊のすべてに必らず掲載されている、「編集手帖」というコラムが、この五版だけは、「本日休みます」という、断り書きで、 休載になっていたのである。

調べてみると、この欄のコラムニストは、〝大正力の死〟について、その追悼文をまとめてきて、提稿したのであったが、編集幹部の意向で、「アイツが、正力の追悼を書くなんて、オコがましい」という声もあって、ボツになり、急いで別のテーマで原稿をまとめて、六版の〆切に間に合わせたらしい、ということが判った。

彼は戦後の入社だから、私以上に正力について語るべき、〝触覚的〟接触は少なかったろうと思う。しかし、このコラム休載という事件は、極めて示唆的であった、と考えざるを得ない。

つまり、彼コラムニストとしては、〝大正力の死〟の翌朝刊の紙面構成は、当然、大々的な正力追悼号になるであろう、と判断したに違いない。従って、その日の編集手帖としては、正力をテーマとすべきである、と、考えるのが、これまた理の当然である。

例えば、朝日新聞の社会面が、「板橋署六人の刑事」入浴事件を、〝独占的〟に華々しくやれば、「天声人語」もまた、筆を揃えてその責任を追及する、というのが、最近の大新聞の〝綜合編集〟なる紙面構成の常だから、「六人の刑事」事件のように、自社社会面が歪報で構成されていても、コラムはその真否をたずねることなく、オ提灯を持たされるのが、習慣となっているのだった。

その限りでは、「編集手帖」子の判断は正しかったハズであり、彼を迎合的であると非難するのは酷であった。最近では、コラムニストとはいっても、〝老妻〟や〝外孫〟などをテーマに、身辺雑記をつづってはおられなくなったし、組織の中の、月給取りコラムニストなのが、現実の姿なのだからだ。

私には、この日の、〝大正力の死〟を追慕した(に違いなし)「編集手帖」が、ボツになった理由も、ボツにした機関もしくは個人も、ともに正確には判らない。しかし、テーマが〝大正力の死〟

であり、それがボツになって、六版から差し換えられたことだけは、確かである。

私は、これを知って、「正論新聞」のコラム「風林火山」欄に、こう書いた。

読売梁山泊の記者たち p.080-081 ヒットのほとんどが辻本の作品

読売梁山泊の記者たち p.080-081 辻本芳雄もまた、原四郎によって、その才能を大きく、花開かせたひとりである。給仕として入社しながら、その頭脳と文才とで、それこそ、筆一本で生きた、私にとっても、敬愛する先輩であった。
読売梁山泊の記者たち p.080-081 辻本芳雄もまた、原四郎によって、その才能を大きく、花開かせたひとりである。給仕として入社しながら、その頭脳と文才とで、それこそ、筆一本で生きた、私にとっても、敬愛する先輩であった。

そして、そのあとを継いだのが、文化人・原四郎である。戦後の混乱期も、ようやく安定化に向かいはじめていた。情に溺れず、能力だけを買う、原の施政方針は、いつの間にか、〝エンピツやくざ〟たちを、自然淘汰していったのであった。

昭和二十年代の、朝日・毎日時代から、三十年代の、朝・毎・読時代へと、二流紙読売を、一流紙に押し上げていった〝活力〟は、紙面では、竹内四郎の基礎造りと、原四郎の七年に及ぶ、社会部長時代、出版局長、編集局長という、二十余年の成果であった。

もちろん、業務面での、務臺光雄〝販売の神様〟との、両々相俟ったことは、いうまでもない。

だが、私が七年間も、部長として仕えながら、原四郎の家で、酒を呑んで騒いだ、という記憶がない。タッタ一度だけ、数名の仲間と、自宅へ行った記憶がある。

それは、当時としては、まだ珍しかった電話器の差しこみコンセントを見て、「ハハア、やっぱり、社会部長ともなると、電話器も最先端をゆくものだなァ」と、感心したことを覚えているから、だ。

だが、自宅へ行っても、竹内家のように、〝豪快な乱痴気騒ぎ〟ができなかったせいか「ハラチンの家は、ツマらん」ということになって、みな、行かなくなったのだろう。原自身は、決して、酒を呑まないわけではなかったのだが、ハメを外さない〝紳士〟然とした酒、だったのである。

原四郎は、社会部長になると、筆頭の森村正平から、四席までの次長を放出して、五席の羽中田誠を筆頭に、デスク陣の大幅な入れ換えを行った。

次長は、通称デスクと呼ばれ、六人が交代で、朝夕刊の紙面作りをする。常時、デスクはデスクにいて、記者を指揮し、原稿に目を通し、整理部、写真部、地方部などとの、連絡調整に当たる。社会部の実質的な責任者である。

部長は、次長を信頼することによって、その職務が遂行され、紙面が作られるのだ。次長の次には、警視庁、法務省詰めの主任(キャップ)がいて、さらに、警察記者のボスである通信主任が二人いる。これが、サツダネ(警察原稿)を処理する。

最近では、都内支局ができたので、その支局長が、主任の次に位置している。この役付き以下は、入社年月日順に並ぶ。

ある意味で、辻本芳雄もまた、原四郎によって、その才能を大きく、花開かせたひとりである。若くして逝ったが、大阪生まれの大阪育ち。給仕として入社しながら、その頭脳と文才とで、それこそ、筆一本で生きた、私にとっても、敬愛する先輩であった。

大阪弁で、すぐ、「アホラシ」を連発するので、愛称アホラシと呼ばれて、多くの記者たちに、尊敬されていた。

辻本が次長になると、俄然、頭角をあらわしてきて、原部長時代にヒットした、続きもの(連載・企画記事)の、ほとんどすべてが辻本のデスク作品であった。いままでの、読売社会部スタイルとは、まったく違っておりながら、政治、経済はもちろんのこと、国際文化、科学の領域にまで、社会部記事を読みものとして、総合的な立体的構成で、書きおろしたのであった。