有限会社だった読売」タグアーカイブ

正力松太郎の死の後にくるもの p.074-075 大新聞の「広報伝達紙」化の傾向

正力松太郎の死の後にくるもの p.074-075 これからの「マスコミとしての新聞」は、読者不在の傾向が強くなってゆく。それが、朝日、読売の〝超巨大化〟を推進して、言論機関としての機能が退化し、広告面を中心とした〝広報伝達紙〟の形をとってくるであろう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.074-075 これからの「マスコミとしての新聞」は、読者不在の傾向が強くなってゆく。それが、朝日、読売の〝超巨大化〟を推進して、言論機関としての機能が退化し、広告面を中心とした〝広報伝達紙〟の形をとってくるであろう。

広告主の紙面への干渉が、出稿・掲載という経済行為だ、と割り切れない〝日本的〟な習慣だと非難しながらも、今度は販売、拡張面では、その〝日本的〟な習慣を逆手にとって、読者の固定化を図ろうというのである。これは広告主の編集権への侵害であると同時に、読者の紙面撰択権

への侵害でもある。新聞とは、〝大朝日〟においてすらも、かくの通り、〝御都合主義〟であるということを示している。

渡辺は、宅配崩壊後の〝新聞のあり方〟についての質問の中で、わずかにこの程度の具体論にサッとふれただけで、得意の専門分野の〝未来の新聞〟へと、体をかわしてしまったのである。

私は反問した。「部数が不安定では、経営が不安定だというのは、新聞経営者としての一方的な考え方であって、そこでは、〝読者不在〟ではないでしょうか」と。

事実、これからの「マスコミとしての新聞」においては、いよいよ読者不在の傾向が強くなってゆくのである。それが、朝日、読売の二巨大紙の〝超巨大化〟を推進して、いわゆる言論機関としての機能が退化し、意見広告などの、広告面を中心とした、〝広報伝達紙〟の形をとってくるであろう。

意見広告のすう勢は、同時に、言論機関としての、ミニコミ、小新聞、ガリ版新聞の隆盛を促してくるのだ。ここに、ハッキリと大新聞と小新聞の機能別併存が約束されよう。

私は渡辺との会見で、このような判断の確信を得たのだった。

読売の別刷り第一面から、投書欄が〝敗退〟したということ、それが、たとえかねてからの予定の〝撤退作戦〟であろうと、なかろうと、これは、大新聞の体質が、〝広報伝達紙〟に転換しつつあることを示している。

かつての読売編集局長の小島が、「社主の魅力でとっている読者が四〇%、巨人軍でとっているのが二〇%、記事が良いからとっているのが五%」と述べて、全社的失笑を買った話は、前稿で紹介したが、いまや、正確にいうならば、「新聞をとっている」理由の大部分は、ラジオ、テレビという新しい媒体が出現してくる以前からの、長い間の〝慢性的習慣〟であり、そして、新しい世帯の読者は、「ラジオ・テレビ番組があって便利だから」というのが、真相に近いのではあるまいか。

すでに、「社説」が盲腸化したことは、論説委員の質的、社内的評価の下落とともに、万人の認めるところであり、かつ「投書欄」の投稿者が、固定化し、プロ化していて、もはや、〝読者の声〟を反映していない事実もまた、関係者のひとしく認めるところだ。

この「社説」や「投書欄」が、新聞の〝社会の木鐸〟時代の、最後の名残りであった。朝日が、社説の使用活字を大きくして、組み方を変えたのも、読売が、別刷り第一面に、投書欄を持ってきたのも、ローソクの灯の最後の明るいまたたきであった。そして、この読売の別刷りのラ・テ番組に組み合わされている、放送ニュース、読みものなるものは、一般紙の娯楽紙寄り、芸能紙誌寄りの傾向を示して、わずかに、家庭・婦人欄にセックス記事の出てこないことで、一般紙としての〝権威〟を保っている、といえよう。

このような、大新聞の「広報伝達紙」化の傾向は、今後、強まるとも、決して弱まりはし な い。

正力松太郎の死の後にくるもの p.078-079 遠藤をさえも相当に評価していた

正力松太郎の死の後にくるもの p.078-079 原が、社会部の部会へ出た時、彼はこう訓示した。「読売の社会部というのは、読売新聞の主軸なンだ。かつて、遠藤とか三田とかいう記者たちがいて、身を以て築きあげた〝伝統〟をうけついで、仕事に挺身してもらいたい」
正力松太郎の死の後にくるもの p.078-079 原が、社会部の部会へ出た時、彼はこう訓示した。「読売の社会部というのは、読売新聞の主軸なンだ。かつて、遠藤とか三田とかいう記者たちがいて、身を以て築きあげた〝伝統〟をうけついで、仕事に挺身してもらいたい」

例えば、読売社会部が第一回菊池寛賞をうけた「東京租界」という続きものは、私と牧野拓司記者の二人が取材に当ったのだが、これで取りあげた、鮮系米人のジェイソン・リィという、ギャングの親分を、同書では「原—三田—リィの線」などと、もっともらしく書かれているなど、

誤まりが多い。

話はそれたが、社会部員の遠藤は部長の原に対して、先入主の偏見を抱いて、彼を極度に嫌っていたようである。

しかし、原の方が人物は数等上であった。告訴も児玉誉士夫が調停に入って、取り下げとなったのだが、それよりも、原が出版局長から、小島の病死のあとを襲って編集局長へともどってきて、社会部の部会へ出た時、彼はこう訓示した。

「読売の社会部というのは、読売新聞の主軸なンだ。かつて、遠藤とか三田とかいう記者たちがいて、身を以て築きあげた〝伝統〟をうけついで、仕事に挺身してもらいたい」

私の名前が出てくるのが恐縮だが、自分に対して悪感情を持ち、〝切り出しナイフをもって迫って〟くるような遠藤をさえも、原は仕事への情熱という点では、相当に評価していたことが、うかがわれる。

原の訓示の趣旨は、おおむね前記のようなものであったらしいが、訓示されていた、若い社会部の記者たちには、原のこのような〝檄〟も、あまり感動を呼ばなかったようだ。私に、その話をしてくれたある記者が、「遠藤だ、三田だといっても、時代が変っているのだから、あまりピンと来なかったようだ」とつけ加えていたからである。

また、私の名前が出たついでに、原はこうもいっている。昭和四十二年八月八日付の「新聞協

会報」は、全国学校新聞指導教官講習会における、原の「私の新聞制作の態度」と題する講演の要旨を報じているのだが、「取材対象には、できるだけ近付かねばならぬが、それと同時に、最後まで相手と対立する立場を維持しなければならない」「新人記者には、徹底的な 基礎訓練が必要である」とする、その講演の中に、次のようなクダリがある。

「社会部長時代、私の部下にいた優秀な事件記者が、取材に熱心のあまり、ピストル傷害事件の犯人をかくまい、記事を独占しようとしたことがあった。彼は、取材対象にあまりにも近づこうとして、本来守るべきルールを忘れてしまったわけだ。

彼の上司であった自分にも、当然、責任があったわけで、事件のあと〝あれほどの優秀な記者が、なぜあのようなばかげたことをしてしまったのか』と、反省してみた。彼が記者として成長してきた過程をふりかえると、彼は入社したあと、記者として十分な訓練をうけないうちに、すぐ兵隊にとられ、戦地とシベリアの抑留所で、長い年月をすごした。

帰国したのち、すぐに大きな事件を担当するようになり、また、これをこなすだけの力を持っていた。われわれも、これが本当の才能と信じていたわけだが、あとになって考えてみれば、彼には記者になるための、十分な基礎訓練を受ける機会がなかったことが、大きな原因になっている、と思う」

正力松太郎の死の後にくるもの p.080-081 記者になるための十分な基礎訓練

正力松太郎の死の後にくるもの p.080-081 「彼は、十分な基礎訓練を受ける機会がなかったことが原因になっている」原は私が〝ルールを忘れ〟〝バカげた〟ことをしてしまった「原因」を、記者の基礎訓練の問題として、とらえている。これは、正しいことである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.080-081 「彼は、十分な基礎訓練を受ける機会がなかったことが原因になっている」原は私が〝ルールを忘れ〟〝バカげた〟ことをしてしまった「原因」を、記者の基礎訓練の問題として、とらえている。これは、正しいことである。

尊敬する先輩であり、かつての、直属上司であった、原の言葉ではあるが、〝あれほどの優秀な記者〟と、過分な表現をされた私として、この講演に異議をさしはさまねばならない部分がある。

私が、昭和三十三年六月十一日の夜、銀座のビルで発生した、「横井社長殺人未遂事件」で、〝本来守るべきルールを忘れ〟てしまったことは、事実である。そのために、犯人隠避として刑事訴追を受けたことが、果して〝バカげた〟ことであったかどうかは、別の問題であろう。

本人である私は、今にしても、決してあの行為を、〝バカげて〟いたとは思えないのである。もっとも、〝バカげて〟いるというのは、原の主観であって、あの事件で社を辞めなければ、今ごろは、原編集局長のもとで、もっと〝新聞〟のために働けたであろうにという、「惜しい男をなくした」という、編集局長としての〝親心〟であろうか。その方が、三田にとっても、社にとっても、新聞界にとっても、プラスであったのに……バカげているという、それこそ身に余る言葉であろう、と考えている。

「彼は、記者になるための、十分な基礎訓練を受ける機会がなかったことが、大きな原因になっている、と思う」——原は私が〝ルールを忘れ〟〝バカげた〟ことをしてしまった「原因」を、記者の基礎訓練の問題として、とらえている。

これは、正しいことである。

私は刑事訴追を受け、有罪となったが、公判を通じて明らかになったことは、安藤組という暴力団とは、過去に全く関係がなかったこと、金銭その他の利をもって誘われたものでも、脅迫などの強制的なものでもなく、全く「五人の指名手配犯人逮捕の記事独占」のためであった、ということである。

そのため、社歴十五年の記者経歴を棒に振り、刑事訴追されて有罪となる——となると、やはり、客観的には〝バカげて〟いるし、原因としては、〝記者としての基礎訓練不十分〟としか、判断しようもないのが事実であろう。

私自身の主張はさておき、だから、原のいうことが、正しいというのだ。では一体、〝十分な基礎訓練〟とは、何を指していうのであろうか。

私たちの時代は、小山栄三の「新聞学」であったが、そのうん奥をきわめることなのだろうか。否である。新聞学の学究が、〝完成された記者〟でないことは、明らかである。

刑事は〝現場百遍〟という。犯罪の手がかりは、すべて現場にあるということだが、これも「読書百遍、意義おのずから通ず」からきたものだ。事件記者の完成は、デカになることではない。

「新聞記者は、疑うことではじまる」

この言葉は、読売の先輩、「昭和史の天皇」をまとめている辻本芳雄記者に、私が教えられた

言葉である。批判の眼を持つことである。抵抗の精神である。

〝記者として十分な基礎訓練〟とは、私は、この批判の眼、抵抗の精神を、徹底的に、自分自身に叩きこむこと、だと思う。

正力松太郎の死の後にくるもの p.082-083 自分自身を批判する自分自身の〝眼〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.082-083 私がルールを忘れたのは、実にこの点にあったのである。法を犯して記事を独占しようとしている、三田記者の行動を批判する〝三田記者自身の眼〟が、その時は〝見て見ぬフリ〟をしたのであった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.082-083 私がルールを忘れたのは、実にこの点にあったのである。法を犯して記事を独占しようとしている、三田記者の行動を批判する〝三田記者自身の眼〟が、その時は〝見て見ぬフリ〟をしたのであった。

「新聞記者は、疑うことではじまる」

この言葉は、読売の先輩、「昭和史の天皇」をまとめている辻本芳雄記者に、私が教えられた

言葉である。批判の眼を持つことである。抵抗の精神である。

〝記者として十分な基礎訓練〟とは、私は、この批判の眼、抵抗の精神を、徹底的に、自分自身に叩きこむこと、だと思う。

まず第一に、自分自身を批判する、自分自身の〝眼〟が、つねに、記者活動を監視している状態——自分に抵抗する精神がなくて、何で〝新聞記者〟と呼ばれようか。

私がルールを忘れたのは、実にこの点にあったのである。法を犯して記事を独占しようとしている、三田記者の行動を批判する〝三田記者自身の眼〟が、その時は〝見て見ぬフリ〟をしたのであった。

五人の犯人を生け捕り、毎日一人宛、捜査当局に逮捕させて、五日間の連続大スクープと、事件の解決功労者——この恍惚たる〝成果〟に陶酔しようとする、三田記者に対して、まず、〝三田記者自身が抵抗〟せねばならなかったのである。原局長をはじめとする先輩諸氏の訓育も、この〝記者冥利に尽きる成果〟の前には空しく、まず抵抗の精神が、マヒしてしまった。つまりルールを忘れたのであった。

この〝記者のド根性〟が、十分に叩きこまれているかどうかが、基礎訓練の度合いを示すものだと考える。批判の眼は、常に清潔でなければならないのだ。不正を憎み、不義に憤らねば、その眼は濁ってくる。抵抗の精神は、まず己れに厳しくあらねばならない。自分に抵抗することな

くして、何の〝抵抗〟であろうか。

私が、自分自身の〝事件〟を通じ、学んだことは、否、学び直したことは、やはり、このような〝記者のド根性〟であった。

しかし、〝記者のド根性〟が必要とされるのは、やはり、記者が「無冠の帝王」であり、新聞が「社会の木鐸」である時代であったようである。原の訓示が、若い記者たちに身ぶるいを起こさせ、共感の嘆声を発せしめ得なかったということは、そこに、局長と、局長以下との間に、「断層」があるということであろう。

私の経験をもってしても、「社会部長」というのは、大変にエライ人であった。昭和二十四年ごろ、団体等規制令という法律で、朝連(朝鮮人連盟)が解散を命じられたのだが、夕刊のない時代のことで、当時の法務庁記者クラブ詰めであった私ら三人の記者が、朝の早出をサボって、その事件を号外落ちしてしまったことがある。

恐る恐る社に上ってきた私らを、竹内四郎部長は、編集局入口付近で認めるや、はるかかなたの部長席から、大音声で怒鳴りあげたものであった。

「このバカヤローッ!」と。

ワン・フロア、仕切りなしの編集局で、この罵声であるから、局内の視線がすべて私らに集まったことはいうまでもない。

正力松太郎の死の後にくるもの p.084-085 カラ出張しようという悪企み

正力松太郎の死の後にくるもの p.084-085 すべての次長の顔が揃った時、原は、部長席で立ちあがるや、遊軍席を見渡しながら、大声で怒鳴った。「いいか。これから、三田の野郎は、箱根から西へは、出張させるナッ!」
正力松太郎の死の後にくるもの p.084-085 すべての次長の顔が揃った時、原は、部長席で立ちあがるや、遊軍席を見渡しながら、大声で怒鳴った。「いいか。これから、三田の野郎は、箱根から西へは、出張させるナッ!」

原部長の時代になってからのことである。同好の士数名が集まって、酒をくみかわすうちに、興のおもむくままに、さる花街にくり込むハメとなった。いよいよ意気さかんな一行も、やがて来るべき〝オ勘定〟が気になり出してきた。鳩首協議の結果、朝刊デスクで深夜でも社にいた次長を仲間に引きずりこみ、カラ出張しようという悪企みとなり、その次長を花街に招いた。

H次長が〝勇躍〟して共犯となったことはいうまでもない。酒好きでは人後に落ちない人物、であったからである。そして、翌日、私がその次長の承認印で、鹿児島に取材出張をしたのであった。約一週間の休暇ののちに、出社した私に対し、原部長は根掘り葉掘りに、出張の取材状況を質問するのである。いつもの例ならば、私が出張報告で「アア、あれはダメです。シロでした」といえば、それで「ウン、そうか」と、済ませていた部長とは違って、何か様子がオカシイ。

かくて、私のカラ出張と、そのカラクリが一切露見することとなる。その翌日の夕刻、夕刊デスク、朝刊デスクの交代時で、すべての次長の顔が揃った時、原は、部長席で立ちあがるや、遊軍席を見渡しながら、大声で怒鳴った。

「いいか。これから、三田の野郎は、箱根から西へは、出張させるナッ!」

私の仲間の一人であった立松記者は、取材費の精算のために、「何某氏宅訪問、ウイスキー一本、いくら」を羅列した伝票を出したが、「このドロボーの、✕✕人の、パチンコ屋の手伝い野

郎メッ!」と、やはり怒鳴られた。取材費精算の内容が、あまり正確でないことは〝習慣〟として黙認されていたのであったけれども、これではあまりにもデタラメすぎるということであった。

おのれの収入で養う女房子供がいて、それなりに社会人として通用している、三十歳もの男をつかまえて、「バカヤロー、ドロボー」呼ばわりなのである。

事実、遠藤が切り出しナイフを握って、部長に「表へ出ろッ」と迫ったように、写真部長と社会部次長とが、電話器を投げつけて、殴りあうように、見通しのきく編集局内部では、「よりよい新聞をつくる」という、仕事の上での意見の衝突や対立からの、ケンカ出入りが、日常茶飯事のように行なわれていた。

新聞休刊日に、〝全舷上陸〟と称して、社会部員数十名(百名に近い)が、近郊の温泉地に出かける時には、上下にニラミの利く古手記者の「幹事長」のもとに、「輸送、会計、宴会、酒、勝負事」などの幹事のほか、「ケンカ係幹事」までがあって、旅行間におきるケンカの当事者の顔触れから判断して、「あれはやらせておけ」「これは止めろ」と、指導監督をする時代だったのである。

そのような時代には、部下を怒鳴りつけ、上司、先輩に反抗して「批判」と「抵抗」の精神が培かわれていったのであった。これをもって、原は、「新人記者の徹底的基礎訓練」と、いったのであろう。

正力松太郎の死の後にくるもの p.086-087 想像もできないであろう〝素顔〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.086-087 原が社会部長になった当時、われわれ警視庁詰め記者たちが、部長歓迎会に、シロクロ、花電車の鑑賞というコースを準備した時のことである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.086-087 原が社会部長になった当時、われわれ警視庁詰め記者たちが、部長歓迎会に、シロクロ、花電車の鑑賞というコースを準備した時のことである。

このような時代に、原は順風満帆の記者生活を歩んできた。長身にジャージィの上衣を着こなし、アミダに冠ったソフトから、横ビンの白髪をのぞかせ、有楽橋(今のフードセンターがある堀にかかっていた)を渡りながら、社の玄関に歩んでくる姿は、それこそ、〝新聞記者を絵に描いた〟感じであった。映画のブンヤの、ハンティングに胸ポケットの鉛筆といった、下品なタネ取り時代のイメージから、A級の知識人という社会的評価に高められた新聞記者を、文化部長から社会部長というコースを歩んでいた原が、身をもって示していたのである。

そうかといって、そんな〝キザ〟な〝気取った〟スタイルばかりではない。原が社会部長になった当時、われわれ警視庁詰め記者たちが、部長歓迎会に、シロクロ、花電車の鑑賞というコースを準備した時のことである。本庁の保安で調べて、浅草のとあるウラ露地の旅館が、その会場となった。

われわれの呼んだタレントが到着する前、待たされていた部屋に、妖しい声がきこえてくる。原は、われわれと一緒になって、ツバをつけてあけたフスマの穴から、その部屋をノゾキこんだのであった。

さらにまた、花電車がはじまり、バナナ切りのあとで、ユデ玉子飛ばしの段となったとき、スポンと三メートルほども玉子が飛んだ瞬間、原はアッと小さく叫んでホオを押えた。なんと、バナナ切りの時に、内部に残っていたバナナのスジが、玉子にくっついてハネ飛び、原に命中した

のであった。若い記者諸君には、今の原四郎編集局長からは、想像もできないであろう、〝素顔〟なのである。

仕事と、仕事以外の部分との、チャンネルの切り替えは、極めて画然としていた。取材費がバーのツケに廻るのを承知していても、黙ってハンコを押した。呑んだくれようと、バクチにふけろうと、女におぼれようと、仕事ができればよかった。しかも、「新聞記者の評価は結果論で決まる」という態度であった。彼の人事をみていると、最近はともかくとして、かつてはオベンチャラも、クソ真面目も、共に効果はなかったようである。

部下に対する信頼も、〝赤心をおして人の腹中におく〟態のものであった。前述した、「東京租界」の企画のスタートに当って、部長として私に与えた言葉はただ一つ——「名誉棄損の告訴が、何十本と舞いこんでも、ビクともしないような取材をしろよ」であった。この言葉に、感奮興起しないような「新聞記者」がいるだろうか。

しかし、このような実力と経歴とからくる原の「自信」が、いよいよ、局長と局長以下との間の「断層」をきわだたせる。

ある社会部次長がいった。

「驚いたよ。今の若い記者には……。コロシがあったサツで、サツ廻りの奴が電話してくるンダ。『アノォ、私は日勤なもンですから、もう帰るンですけど、あとは誰に引きついだらよいの

でしょうか』だとサ。まだ、六時すぎごろのことだぜ。三鷹や下山のころには、一カ月以上もウチに帰れなかったのにナ」

正力松太郎の死の後にくるもの p.088-089 立松和博記者の微笑ましいエピソード

正力松太郎の死の後にくるもの p.088-089 彼は、担当係官の顔など、ほとんど知らなかったであろう。現に、読売のスクープに、警視庁の担当係官が口惜しがったことがある。「読売は取材にも来ないで、どうして、あの事件をヌイたのだろう?」
正力松太郎の死の後にくるもの p.088-089 彼は、担当係官の顔など、ほとんど知らなかったであろう。現に、読売のスクープに、警視庁の担当係官が口惜しがったことがある。「読売は取材にも来ないで、どうして、あの事件をヌイたのだろう?」

ある社会部次長がいった。

「驚いたよ。今の若い記者には……。コロシがあったサツで、サツ廻りの奴が電話してくるンダ。『アノォ、私は日勤なもンですから、もう帰るンですけど、あとは誰に引きついだらよいの

でしょうか』だとサ。まだ、六時すぎごろのことだぜ。三鷹や下山のころには、一カ月以上もウチに帰れなかったのにナ」

また、もう一人、古手の記者がいう。

「今年の〝全舷上陸〟は中止だよ。何しろ、若い連中から、ふだんの勤務が乱れていて、十分に〝家庭サービス〟ができないのだから、せめて、新聞休刊日ぐらいは、旅行なんぞやめて、ゆっくりと家族と一緒にさせてほしい、という声が強いのでネ。……時代の流れなんだろうナ。ヤング・パワーというヤツか……」

退社してもう十一年。最近の社員名簿をみてみると、百五名におよぶ社会部員のうち、私の知っている記者は、二割程度しかいないのである。文字通りに、〝時移り、星変って〟しまっているのだった。

紙面にクビをかける

もう少し、昔話をつづけさせて頂く。

売春汚職事件にからむ大誤報事件の立松和博記者についての、微笑ましいエピソードは多い。そして、それは多くが、酒についてであった。

彼が警視庁記者クラブ詰めになって、捜査二課を担当していた当時である。もちろん、タタキ、コロシのデカたちと、付き合えはしなかった。警備、公安がダメ。保安防犯は、麻薬や売春、風紀などがあるので興味を示してはいたが、やはり、二課事件(知能犯罪担当。当時は暴力団関係もふくまれていたが、中心は、何といっても、汚職や会社犯罪であった)に集中していた。

彼は、担当係官の顔など、ほとんど知らなかったであろう。現に、読売のスクープに、警視庁の担当係官が口惜しがったことがある。

「読売は取材にも来ないで、どうして、あの事件をヌイたのだろう?」

係官の疑問も当然である。警視庁の捜査を指揮している、検察庁へ行って取材してくるから、係の顔など知らない男が、ボンボン抜きダネを書くのであった。

深夜の三時、四時。朝刊原稿の締め切りごろに、立松記者は酔って、警視庁クラブに現れる。泊り番の記者たちは各社一名宛であるが、原稿を送稿し終って、サテ、仮眠でもという時の、酔ッ払いのチン入である。

彼は、各社の記者に抱きつき、「オレ、オ前が好きなンだア」と、ホオをペロペロなめる。素面の泊り番は、カオをしかめて逃げまどう。やがて、放声高吟のあげく、彼はズボンのチャック

を下げて、クラブ中に〝放水〟を開始する。

正力松太郎の死の後にくるもの p.090-091 他社の社会部記者たちとマージャン

正力松太郎の死の後にくるもの p.090-091 私は、丸三年にも及んだ警視庁記者クラブを卒業させて頂いて、通産、農林両省クラブ詰(兼務)となった。だが、このクラブ勤務は、ほぼ一年で外される。理由は特落ちである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.090-091 私は、丸三年にも及んだ警視庁記者クラブを卒業させて頂いて、通産、農林両省クラブ詰(兼務)となった。だが、このクラブ勤務は、ほぼ一年で外される。理由は特落ちである。

彼は、各社の記者に抱きつき、「オレ、オ前が好きなンだア」と、ホオをペロペロなめる。素面の泊り番は、カオをしかめて逃げまどう。やがて、放声高吟のあげく、彼はズボンのチャック

を下げて、クラブ中に〝放水〟を開始する。

そんなある時、数人がかりで彼を押えつけて、ホースの先端にインクを塗りつけたことがあった(注。記者のデスクには、原稿の加筆訂正用に、青、赤のインク壷と筆が備えられている)。数日後、彼は蒼白な顔色で、私に相談してきた。

「オイ。大丈夫だろうか。先の方からボロボロと、皮が剥げ落ちてくるンだ。……まさか、インクで崩れやしまいナ?」

立松記者の、あれほど真剣で、思いつめた表情は、仕事の時でも見られなかったほどである。——こんな想い出も、すでに幽明境を異にして、四十歳の若さで逝った立松記者を偲ぶよすがの一つである。

付記すれば、克城、良城の遺児両君は、靖子夫人の薫育のもとに、健やかに成長して早くも大学生になっている。

このように、立松記者に対して、読売記者はもちろんのこと、他社の記者諸君も、極めて〝寛容〟であった。

それは何故か?

新聞記者に対する評価は、すべて「紙面」で決ったからである。「紙面」とは、仕事の実績であり、才能の舞台であった。彼の昭電事件における、輝やかしい経歴と、現実のスクープ。極め

て的確、かつ大胆な予告記事、見通し記事と、その記事通りの事件の展開とが、立松記者に対して、人々を寛容にさせ、また、畏敬せしめたのだ。

だが、彼の仕事が、検察庁筋のみに限られていたことが、私の指摘する、〝変則取材〟ということであり、かつ、後年の悲劇の芽を胚胎させていたのであった。

昭和二十四年以来、あしかけ七年間も社会部長の職にあって、〝名社会部長〟の名をほしいままにした原四郎が、昭和三十年春に、編集総務に栄転し、後任に、原のサツ廻り仲間といわれる、景山が社会部長となった。

そして、私は、丸三年にも及んだ警視庁記者クラブを卒業させて頂いて、通産、農林両省クラブ詰(兼務)となった。だが、このクラブ勤務は、ほぼ一年で外される。

理由は特落ちである。多久島という農林省の役人が、何千万円という公金を使いこんで、当局に告発されるのである。その日の夕方五時ごろ、安田農林経済局長が、農政記者クラブに現れて、「只今告発いたして参りました」と発表した。

農政クラブへは、読売は、政治、経済、社会、地方の各部から記者が派遣されており、ニュースの種類によって、各部ごとに分担する。この時、地方部の記者が発表を聞いて、私を探したが見当らないので、直接社会部のデスクに、「こういう発表がありました」と、連絡した。

私は、その日、その時、ずっと通産省の虎の門記者クラブに在室していた。残念ながら、仕事

ではなかった。通産省のクラブには、経済部を主力に、やはり、政治、社会部から記者が詰めている。私は他社の社会部記者たちと、マージャンをしていたのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.092-093 発表モノの特オチとは

正力松太郎の死の後にくるもの p.092-093 原因調査の結果、地方部小野寺記者の通報が、その夜の当番デスク山崎次長のもとにあったのだが、山崎次長は、これを自社の特ダネと感違いして、警視庁クラブに調査を命じた。「特ダネだから隠密に」と
正力松太郎の死の後にくるもの p.092-093 原因調査の結果、地方部小野寺記者の通報が、その夜の当番デスク山崎次長のもとにあったのだが、山崎次長は、これを自社の特ダネと感違いして、警視庁クラブに調査を命じた。「特ダネだから隠密に」と

私は、その日、その時、ずっと通産省の虎の門記者クラブに在室していた。残念ながら、仕事

ではなかった。通産省のクラブには、経済部を主力に、やはり、政治、社会部から記者が詰めている。私は他社の社会部記者たちと、マージャンをしていたのである。

負けがこんでいて、午後からずっと、ジャン台にかじりついていたのだった。そして、その日、そんな大事件が起きているとも知らず、夜の九時すぎまで、他社の記者を放さなかったのである。彼らも、国税庁や文部省の兼務はいたが、農林省兼務なのは私一人であった。

大負けした私は、そのまま社へも上らず通産省から帰宅してしまった。そして、翌朝、自宅で、朝日、毎日を見て、「多久島事件」の大々的な記事の扱いに、ガク然としたのだったが、〝発表モノ〟と判って、安心して、最後に読売をひろげた。

無い! 自社は出ていないのである。

スッと、背筋に冷たさが走った。

「そんなバカな! 発表モノなのに……」

私は、あわてて各面を繰ったが、読売だけ、一行すら載っていないではないか。

重い、苦しい気持で農政クラブに電話を入れると、地方部の記者が出た。

「私は発表を聞いて、社会部のデスクに入れておきましたよ」

不安はさらに募った。ニュースが入っているのに出ていないとは……、かつて、立松、萩原両記者と共に、法務庁クラブで、朝連解散の発表モノを、号外落ちした時よりも、重い足取りで社

へ向った——景山社会部長も蒼い顔であったし、原編集総務も、沈痛な表情であった。こんな大事件の、発表モノの特オチとは、まさに醜態の限りであったからだ。

原因調査の結果、地方部小野寺記者の通報が、その夜の当番デスク山崎次長のもとにあったのだが、山崎次長は、これを自社の特ダネと感違いして、警視庁クラブに調査を命じた。

「特ダネだから隠密に」という注意を守った、捜査二課担当記者は、庁内を当ってみたが判らないので、翌日回しということになったのであった。

いずれにせよ、農林省詰めである私の責任はまぬがれ得ない。ことに遊んでいた時の失敗だから、自責の念にかられた。

ところが、原因調査のさい、山崎次長は「農林省の事件だからと思い、警視庁へ連絡する一方、三田を探して、農林、通產両クラブに社電を入れたが、三田がいなかったので、翌日廻しになった」と、弁解したという話(注。私は以後山崎次長と口を利いていないので、確かめてない)を、部長に聞かされて、私は怒った。

「責任転嫁を部下にするなど、とんでもない野郎だ。今だからいいますが、当日、私はマージャンで通産省クラブから、一歩も外へ出なかったのです。その間、一度だって社電はなかった。他社の三人の証人もいるんです。第一、通産省クラブを呼んだという、電話交換手を明らかにして頂きたい」

正力松太郎の死の後にくるもの p.094-095 以前にも〝事件〟を起していた

正力松太郎の死の後にくるもの p.094-095 数日たって、処分の辞令が社内に掲示された。社会部長、譴責罰俸、私が罰俸一カ月とあって、処分者は二名だけであった。私は、やがて、「多久島事件」の時に、部長が腕組みをしたワケを知った。
正力松太郎の死の後にくるもの p.094-095 数日たって、処分の辞令が社内に掲示された。社会部長、譴責罰俸、私が罰俸一カ月とあって、処分者は二名だけであった。私は、やがて、「多久島事件」の時に、部長が腕組みをしたワケを知った。

私のばく論に、景山部長は黙って腕組みをしてしまった。何かを考えているようだったが、 「マ、いい。オレに考えがあるから、黙ってオレにまかせろ」と、私を制した。

数日後、私は部長に呼ばれた。

「オレも進退伺いを出すが、お前も黙って始末書を出せ」

「部長がそういうなら、私も黙っていうことをききます」

景山とは、そういう人柄の人物であった。そして、それなりに部長を理解できる部下からは、良く慕われてはいたが、ある意味では、古いタイプの〝社会部派〟の記者であった。人情に篤く、温厚な人柄ではあったが、もう一つ、記者の〝鋭さ〟〝非情さ〟に欠けていた。

数日たって、処分の辞令が社内に掲示された。社会部長、譴責罰俸、私が罰俸一カ月とあって、処分者は二名だけであった。

こうして、当然の配置転換。私は通産、農林両省詰めを解かれて、本社勤務の遊軍記者となった。遊軍になって、部長とお茶を飲んだり、ダベったりする機会が多くなって、私は、やがて、「多久島事件」の時に、部長が腕組みをしたワケを知った。

山崎次長という人は、以前にも〝事件〟を起していたのだ。日本テレビの記者座談会での、〝舌禍〟である。時の郵政大臣佐藤栄作に関する、事実無根の呑み屋談義をホントらしくしゃべってしまった。たまたまそのテレビを見た佐藤大臣の抗議から、デマを流した嘱託の記者がク

ビ、山崎次長が次長を剥奪されて平部員に降等、内外タイムスへ出向という、前歴があったのだ。景山は、人情家らしく、やっと次長に復帰してきた山崎デスクを、何とか救ってやろうとしたのである。

前の事件は、原部長時代だ。冷厳な信賞必罰—責任体制の確立こそ、新聞記者という〝責任ある職業人〟にとって、何よりも必要なことであったと思う。

私はいま、自由な立場のライターとして「立松記者事件」の背景を、冷静に眺め、検討してみると、あの大誤報の遠因は、一個人山崎を秘かに救ってやった、景山温情部長の社会部長としてのあり方、姿勢にすでに胚胎していたと考察する。

原四郎編集局長が、七年間も社会部長をつづけていられた、ということの意味の重要さは、このように、毎日、毎日の朝夕刊の「紙面」という、クビのかかった生活の連続の中で、〝名部長〟といわれこそすれ、ほとんどまったく、ミスがなかった——ということなのである。だからこそ、七年間も、「社会部長」がつづいたのだ。

原が統率の才にめぐまれていたということと、さらには、「新聞の体質」が、原という「記者の体質」と同一だったことである。

原四郎編集局長の記者としての体質が、新聞の体質と同じであったことが、彼をして、七年間もの長きにわたって、社会部長の椅子にあらしめた——と、私は書いた。

正力松太郎の死の後にくるもの p.096-097 4章トビラ

正力松太郎の死の後にくるもの p.096-097 紙面にクビをかける(つづき) 4章トビラ 4 〝務台教〟の興隆
正力松太郎の死の後にくるもの p.096-097 紙面にクビをかける(つづき) 4章トビラ 4 〝務台教〟の興隆

だが一方で、私は、昭和三十年代に、新聞は急激にその体質を変えて、「広報伝達紙」となってしまった、とも書いている。すると原の記者としての体質は、どうなってしまったのであろうか。そこが問題である。

4 〝務台教〟の興隆