朝日・毎日の神話喪失」タグアーカイブ

正力松太郎の死の後にくるもの p.312-313 毎日の〝ショック療法〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.312-313 大小のショックを与えてみて、一時は病状好転かと思えたが、結果はやはり、思わしくなかったのである。例えば、〝国際事件記者〟として売り出され、すっかり〝スター〟になってしまった、大森実の退社問題がある。
正力松太郎の死の後にくるもの p.312-313 大小のショックを与えてみて、一時は病状好転かと思えたが、結果はやはり、思わしくなかったのである。例えば、〝国際事件記者〟として売り出され、すっかり〝スター〟になってしまった、大森実の退社問題がある。

「田舎記者をこの大東京にもってきて、即座に戦力たり得るだろうか。マンモス東京のもつ環境的な悪条件が、清浄な地方の条件に適応していた彼の肉体や精神に変化を与えるのが当然だ。た

とえば、興亜建設大橋事件の抜かれっ放しなど、地方の区検と、東京地検特捜部とを同一検察庁とみるに等しい。そりゃ、上京当時こそハッスルするだろうが」

彼は、派閥打破の上田の意欲に、十分に納得し、それに賛成した上で、こう、技術的に批判する。

電波の発達によって、新聞はその速報性を奪われたという。確かにそうであろう。しかし、新聞が失った速報性は、ホンの一部のニュースの分野で、である。またいう。速報性を失った新聞は、その解説性を強調すべきであり、記録性をも具備しなければならない、と。事実である。だが、新聞はすべての分野で、速報性を失っていない。

新聞が解説を主力とするならば、解説は主観が入るのだから、署名記事にすべきで、署名が入るから、スター記者が生れるのが当然である——この論理の組み立ては、一応筋道が立ってはいるが、重大な誤ちを犯している。第一前提である、「新聞は解説を主力記事とする」という点で。

今、三紙の記事量の何パーセントが解説であろうか。速報性をほとんど失っていない新聞の現状で、かつまた、現在の新聞が必死になって、維持しようとしている「宅配」の習慣、そして、紙面をひろげてみるという、随時性の長所に、完全に馴らされている読者の現況の中で、新聞は依然としてその速報性を失っていないのである。

テレビ受信機の普及率、トランジスタ・ラジオの生産台数、カー・ラジオの……と、どんなデータをあげても、新聞が奪われた速報性は、ホンの僅かであり、それを立証するものは、一日に

三千万枚も発行されている新聞紙面で、ニュースの占めているパーセンテージである。これが、私のいう、毎日の〝ショック療法〟の根拠である。スター記者は意識して造られたもの、なのである。毎日新聞の退勢挽回のコマーシャリズムのため、〝売り出された〟ものである。この、スター売り出しが、ショックとなって、全社が立ち直るかと判断されて、大きなショックを与えてみたのである。人事交流しかり、若手抜てきしかりだ。大小のショックを与えてみて、一時は病状好転かと思えたが、結果はやはり、思わしくなかったのである。

〝外報の毎日〟はどこへ

例えば、〝国際事件記者〟として売り出され、すっかり〝スター〟になってしまった、大森実の退社問題がある。

大森記者の退社をめぐるイキサツも、各種の情報が入り乱れて、真相はつかみ難い。しかし、その〝各種の情報〟が出るところに、今日の毎日の性格が現れている、と、みることは偏見にすぎるであろうか。

正力松太郎の死の後にくるもの p.314-315 「外報の毎日」という金看板を背負っていた

正力松太郎の死の後にくるもの p.314-315 毎日の中で、大森記者がもっとも売り出され、またファンをつかんでいった。大森実という、スター記者の名前と写真とは、大きな活字で何百万部も印刷されて、日本全国津々浦々までバラまかれ、毎日外信部の名をあげた。
正力松太郎の死の後にくるもの p.314-315 毎日の中で、大森記者がもっとも売り出され、またファンをつかんでいった。大森実という、スター記者の名前と写真とは、大きな活字で何百万部も印刷されて、日本全国津々浦々までバラまかれ、毎日外信部の名をあげた。

大森とのライバル関係にあったのが、朝日の外報部長秦正流である。そして、ともに、「外報の朝日」「外報の毎日」という、金看板を背負っていたのである。「事件の読売」は、このさいラチ外である。どうしても、この機会に、外報部についてふれねばならないだろう。

毎日の数多いスター記者たちの中で、大森記者がもっとも売り出され、またファンをつかんでいったのである。大森実という、スター記者の名前と写真とは、大きな活字で何百万部も印刷されて、日本全国津々浦々までバラまかれ、毎日外信部の名をあげた。〝外報〟が強いのは毎日の伝統といえる。日本の興隆期、大陸に兵を進めていた時代に、毎日は陸軍とタイアップし、大陸各地にくまなく特派員を配置し、従軍記者を派して、この声価を得た。現役でいうならば、東亜同文書院(注。上海にあった日系大学)出身の、田中香苗をトップとする〝外報閥〟である。高田、工藤、橘、といった人たちだ。

上田社長の東西交流により、神戸支局採用の傍系記者だった大森実も、稲野治兵衛社会部長らと同じく、東京へ転勤してきて、田中香苗の認めるところとなった。彼ら大阪勢は田中主幹に大いに使われたのであった。その活躍ぶりに、白い眼を向ける部長クラスもまた、多数いたことは否めまい。

毎日の伝統的ライバルは朝日である。その意味で、たとえ読売がどんなに実力を発揮しようとも、朝・毎は表面、歯牙にもかけないのだ。だから読売の敵は朝・毎二社であり、同時にこの二

社のライバル意識を利用して、朝毎二社は読売の味方である。朝日がスクープすると、毎日と読売は手を握り、毎日の場合は反対になる。しかし、読売のスクープに対して、朝、毎は決して手を握らない。したがって、朝、毎の記者間には友情も生れない。

朝日の外報部長秦正流は、モスクワ育ちの外報記者である。これに対するに、毎日の大森実はワシントン育ち。両者のライバル意識がさらに燃え上るのは、無理もないことであった。しかし、秦、大森の人間的比較ではなくて、自由、共産両世界の外国記者たちは、ともすれば、より多く、秦に教えを乞うた。彼がモスクワ育ちであるという理由で。

そして、それだけに、その事実を知るが故に、大森はさらにスパークしたに違いない。秦と大森の知名度を比べれば、大森が全世界を通して、はるかに秦を抜いていた。いうなれば、批評家の賞める映画と、興収をあげる映画の違いであろうか。秦は組織に納まれる人間であり、大森はハミ出る人間として、先天的な差もあったに違いない。

そもそも、解説、解説と称しながら、果して、大森記者の署名記事は、すべて「解説」であったろうか。「ニュース」ではなかったろうか。スター記者に、署名でニュースを書かせた時代は、すでに遠くすぎさった。個人の記者が、その能力と才智とコネと、さらに幸運とで、かくされたニュースを発掘した時代は、精々、昭和三十年までである。

今は、新聞のもつ、強大な組織と物量と資金とで、ニュースも、解説も、「商品」として、「生

産」される時代である。記者はその小さな部分のオペレーターであって、タレントではない。毎日新聞幹部の、このアナクロニズムを、私は〝ショック療法〟の失敗と指摘した。誤診である。ショックが終ったのちに、病状が悪化していなければ、幸いである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.316-317 ニュースも解説も「商品」として「生産」される時代

正力松太郎の死の後にくるもの p.316-317 朝日の本多勝一記者は、カナダ・エスキモーの報道で、第一二回菊池寛賞…。〝朝日の本多〟が書いているのではなく、「朝日」が企画し、「朝日」が準備し、「朝日」が実行し、「朝日」が書いているのである。本多記者はその担当者にすぎない。
正力松太郎の死の後にくるもの p.316-317 朝日の本多勝一記者は、カナダ・エスキモーの報道で、第一二回菊池寛賞…。〝朝日の本多〟が書いているのではなく、「朝日」が企画し、「朝日」が準備し、「朝日」が実行し、「朝日」が書いているのである。本多記者はその担当者にすぎない。

今は、新聞のもつ、強大な組織と物量と資金とで、ニュースも、解説も、「商品」として、「生

産」される時代である。記者はその小さな部分のオペレーターであって、タレントではない。毎日新聞幹部の、このアナクロニズムを、私は〝ショック療法〟の失敗と指摘した。誤診である。ショックが終ったのちに、病状が悪化していなければ、幸いである。

設問しよう。朝日の本多勝一記者は、カナダ・エスキモーの報道で、第一二回(昭和三十九年度)菊池寛賞を、藤木カメラマンとともに受け、以後、何回となく好読物を紙面に提供したが、果して彼は、朝日のスター記者であるだろうか。全日空機の沈没地点にダイバーとともにもぐった、読売の富尾信一郎カメラマンは、スターだろうか。

私は、いずれもノーと答える。両人とも所属新聞社の組織の一員で、専門的な、技術的なオペレーターの一人にすぎない。〝朝日の本多〟が書いているのではなく、「朝日」が企画し、「朝日」が準備し、「朝日」が実行し、「朝日」が書いているのである。本多記者はその担当者にすぎない。チョコレートの包み紙に押されている個人名のハンコ、あれと同じ立場が本多記者である。そして「朝日」なればこそ、可能な取材なのである。

ところが、毎日の場合は、〝売り出し〟が決ってからというものは、「毎日の大森」だったのが、やがて、単なる「大森」が書く結果になってきた。——この、立論の根拠を示さねばならない。

大森の退社問題は、私は四十年暮れに耳にして、毎日の友人に問い合せたが、彼は知らなかっ

た。耳にしたのは、週刊誌記者からであった。その時の、私自身の感想は、「来るべき時がきたナ」というのにすぎなかったが、毎日社内で情報通である友人が知らずに、週刊誌記者が知っていることに、フト不自然なものを感じた。

しかし、実現すればしたで、週刊誌が書くであろうことを思い、その理由のつけ方に、ひそかに興味を抱いていたのだった。私は私なりの取材を試みたかったからである。果して、三流週刊誌が第一番に取りあげて、「アメリカの圧力」だとか、「銀行筋の指令」だとか、いわゆる〝黒い霧〟ムードをマキ散らして、結構、商売をしていた。

私の取材の結果は、純粋な社内問題と、個人の〝一身上の都合〟の二つの理由が、真相であると思う。この社内問題というのに、問題点があるのだ。毎日労組としても、不当な人事干渉が、外部からあったかの如き流説が聞えては、放ってもおけず、一応の調査をして、大森氏自身の言葉を、会社側にブツけて、確認してみたという。

この組合調査が、正鵠を得ていると思われるのだが、それによると「メヌエル氏病で、健康が外信部長の職に堪えられない。かつ、自分のわがままで、フリーになってしたいことをしてみたい——この二点で、退社を申し出て、幾度かの慰留をうけたが、辞意を押し通した」と、いうにある。私自身が会社側に当った限りでも、慰留の事実は認められ、辞表受理はやむを得なかった、と思われた。しかし、この二つの一身上の都合にも、それだけの背景はあるのであった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.318-319 銀行借入金の急増と〝明日の毎日〟を暗示

正力松太郎の死の後にくるもの p.318-319 チミモウリョウが最新式ビルであるパレスサイド・ビルにうごめくという結果にもなった。私が、かつて上田にインタビューした時、「私が去る時は、毎日の去る時だ」という意味の発言をしていた。
正力松太郎の死の後にくるもの p.318-319 チミモウリョウが最新式ビルであるパレスサイド・ビルにうごめくという結果にもなった。私が、かつて上田にインタビューした時、「私が去る時は、毎日の去る時だ」という意味の発言をしていた。

この組合調査が、正鵠を得ていると思われるのだが、それによると「メヌエル氏病で、健康が外信部長の職に堪えられない。かつ、自分のわがままで、フリーになってしたいことをしてみたい——この二点で、退社を申し出て、幾度かの慰留をうけたが、辞意を押し通した」と、いうにある。私自身が会社側に当った限りでも、慰留の事実は認められ、辞表受理はやむを得なかった、と思われた。しかし、この二つの一身上の都合にも、それだけの背景はあるのであった。

まず、第一番には、会社側のとった〝スター記者〟主義に、アナクロニズムという、大義名分からの反対論があったということ。これが、その大義名分からみれば、本来は「大森が可哀想」と出てくるはずであるのだが、反発は逆作用して、会社側へではなく、大森個人へ当った。

第二には、物書き業共通の感情である自己顕示欲からくる、〝盛名ぶり〟への反感とシット。これが意外にも強かった。これらの基本的な条件としての、従来からの派閥根性が基底にあった。

記者に共通する自己顕示欲は、情実とコネにイージーに依存できる〝派閥〟がある状態では、〝ナニクソ! オレもやったるでェ〟と反発せず(会社側は、こんな形でのショックを期待したのだろうが)、裏目に出て、「大森の野郎、ノボセてる!」と、ならざるを得ない。

大森が辞任したあと、彼が外信部長の肩書きをつけて、サンデー毎日誌に連載中の記事が、どうなるかも、一つの問題であった。彼の辞意が伝えられるや、サンデーのデスクが早速訪問してきて、連載継続を申入れたり、組合側も「会社に何か御不満でも?」と現れてきたことも、部下への不信感に打ちのめされていた彼には、素直に取れなかったらしい。

大森は「奴らがオレの様子をスパイしにきた」と怒って、いよいよ辞意を固めたようだ。一方、サンデーの機敏さは、そんな意味の御忠勤さがあったようだが、会社側では、「一切の糧道を絶っては、何するかわからんと考えて、肩書をとって、連載継続を認めた」と、解説する消息通もいる。

この消息通(現役記者)は、やはり、上田のとった、派閥打破の措置を歓迎しつつも、「過渡的な現象であろうが、人事交流によって、従来の派閥系列は確かに崩れた。しかし、東西四社をゴチャまぜにし、若手抜てきで上下にカキまわした結果、社内は全く混沌として、小派閥の分立、乱立で、いまだに過去の派閥の化けものが、うごめいている状態だ。

その実例として、大阪の社会部長は、本田、浅井、斎藤栄一とつづき、本来ならば斎藤栄一は本田社長派に列すべきなのに、彼は何故か、本田時代は冷や飯組であった。斎藤社会部長の部下に、稲野、大森らがいた。上田時代になって、反本田の田中香苗と斎藤とは緊密化し、ようやく、斎藤は重役コースにのった。だから、斎藤の部下、稲野、大森らが東京に移って、田中主幹に登用されたのもうなずける。それなのに、大森を斬ったのは、田中ラインの右派である。混とんとして、インドネシア情勢みたいでわからない」と、嘆じたのである。

こうして、チミモウリョウが最新式ビルであるパレスサイド・ビルにうごめくという結果にもなったのであるが、上田は退陣してバトンを田中—梅島ラインに渡した。私が、かつて上田にインタビューした時、「私が去る時は、毎日の去る時だ」という意味の発言をしていた。その言葉は、前述した銀行借入金の急増とニラミ合せてみると、〝明日の毎日〟を暗示するのだろうか。

インドネシアといえば、さる四十一年二月二十四日付毎日夕刊は(シンガポール二十四日UPI)として、シンガポールできいたジャカルタ放送が、インドネシア・クーデターの主謀者ウン

トン中佐が、公判廷で反逆、殺人の容疑を否認、次のように述べたことを報じている。

正力松太郎の死の後にくるもの p.320-321 ウントン自供書なるものは米CIAの謀略文書

正力松太郎の死の後にくるもの p.320-321 大森氏は「自供書を入手」したのであるが、社会部出身の記者としては、「自供書の写しを入手」と書くべきであったと思う。昨年入手できるのは「ウントン自供書と称される文書」であるはずだ。
正力松太郎の死の後にくるもの p.320-321 大森氏は「自供書を入手」したのであるが、社会部出身の記者としては、「自供書の写しを入手」と書くべきであったと思う。昨年入手できるのは「ウントン自供書と称される文書」であるはずだ。

インドネシアといえば、さる四十一年二月二十四日付毎日夕刊は(シンガポール二十四日UPI)として、シンガポールできいたジャカルタ放送が、インドネシア・クーデターの主謀者ウン

トン中佐が、公判廷で反逆、殺人の容疑を否認、次のように述べたことを報じている。

「公判前の証言は偽りであり撤回する。私は九・三〇事件の主謀者ではない。政府に対し反逆を企てたこともなく、反乱軍の指導者であったこともなく、また共謀に加担したこともない」

私はこの記事が、毎日のみで、朝日、読売にないこと、翌二十五日の両紙朝刊にもないことに、大変興味を覚えた。何故かというと、毎日こそ、昨四十年十一月二十日付朝刊第一面に大きく、「ウントン中佐の自供書を入手」と特筆大書して、大森外信部長の署名記事(断るまでもないが、これは解説ではなく、ニュースである)を掲載しているからだ。つまり、この大スクープの署名記事を、全く否定する外電が、大森なきあとの外信部の手で、同じ毎日に掲載されているということだ。

その大森署名記事に付された、短かい前文によると、「ジャカルタ行きを中止して、東京に帰った。以来約五十日間、九・三○クーデターの真相と、その背景を追究すべく、いくつかのルートを通じ情報を取材してきたが……(中略)……私が入手した自供書によれば……」とある。

この前文で明らかな通り、大森氏は東京にいて、「いくつかのルート」で、取材しており、その結果、「自供書を入手」したのであるが、社会部出身の記者としては、「自供書の写しを入手」と書くべきであったと思う。簡単にいえば、大阪府警がやっている事件の調書(司法警察員調書および検察官調書ともに)は、東京の警視庁にはないし、東京地検にもない。公判がはじまれ

ば、法廷に調書が出されるのだから、関係者は謄写することができる。まだ、公判が開かれていない、昨年十一月二十日の時点に、東京で入手できるのは「ウントン自供書と称される文書」であるはずだ。そして、記者としては、その〝称される文書〟の信ぴょう性の確認をすべきなのであって、その裏付けのため、入手経路やら、信ぴょう性を立証できる人物、もしくは、立証できると信じられる人物の談話、をも併載して、読者の疑問に答えるのが、大新聞ならびに大新聞記者としての、当然の措置であったと思う。

〝殷鑑遠からず〟で、昭和二十五年九月二十七日付朝日新聞は、社会面のトップで、大スクープ「伊藤律会見記」を掲載した。今、この「ウントン自供否定」の小さな外電をみて、毎日新聞ならびに大森外信部長に、それだけの慎重さを望みたかったと、私は考える。というのは、他でもない。私がこの毎日新聞論の取材を進めている時、大森事件の真相をも、同時に調べていたのである。その時、意外な証言者に出会った。

「大森外信部長の退社の真相は、例の大スクープ、ウントン自供書ですよ。ウントン自供書なるものは、米CIAの謀略文書だったのです。彼があれを強引に発表したのち、毎日内部、論説系の人たちの間から、猛然と批判の火の手が上りました。

そして、彼も責任をとらざるを得なくなったのです。紙面の問題だからこそ、狩野編集局長

も、出版担当へと異動させられたのです。論説や編集幹部の間では、CIAの謀略文書を意識して掲載したと、判断されたのです。汚職みたいなものです」

正力松太郎の死の後にくるもの p.322-323 大森さんは佃書記官からあの文書を入手

正力松太郎の死の後にくるもの p.322-323 驚いた私は、この毎日OB記者の証言の、さらに裏付けを求めて、走り廻った。ある外交評論家が肯定した。「デビ夫人の話やら、スカルノ亡命説など、国民はもっとウラを考える必要がある」
正力松太郎の死の後にくるもの p.322-323 驚いた私は、この毎日OB記者の証言の、さらに裏付けを求めて、走り廻った。ある外交評論家が肯定した。「デビ夫人の話やら、スカルノ亡命説など、国民はもっとウラを考える必要がある」

「大森外信部長の退社の真相は、例の大スクープ、ウントン自供書ですよ。ウントン自供書なるものは、米CIAの謀略文書だったのです。彼があれを強引に発表したのち、毎日内部、論説系の人たちの間から、猛然と批判の火の手が上りました。
そして、彼も責任をとらざるを得なくなったのです。紙面の問題だからこそ、狩野編集局長

も、出版担当へと異動させられたのです。論説や編集幹部の間では、CIAの謀略文書を意識して掲載したと、判断されたのです。汚職みたいなものです」

驚いた私は、この毎日OB記者の証言の、さらに裏付けを求めて、走り廻った。ある外交評論家で、インドネシアの現地も踏んでいる人物が肯定した。

「今、日本の新聞、雑誌にハンランしているデビ夫人の話やら、スカルノ亡命説など、国民はもっとウラを考える必要がある。亡命説などは、ある意図のもとに、CIAが流している与論形成です。毎日のウントン自供書なるモノも、CIAの謀略用文書であることは、間違いありません。どうして、大森さんは、あんなものを見破れず、堂々と署名して出したのでしょうか。判断に苦しみます。しかし、その責任を明らかにしたことは、流石に、大毎日です。

アメリカは、スカルノに石油会社などを接収されて、情報活動のアジトを失ってから、在インドネシア日本大使館への、情報依存度を高めています。従って、斎藤大使、遠藤公使以下、大使館員は大変です。機密費だって本省からくる分では足りないらしく、デビ夫人や商社とからんでの、黒い噂が出るほどです。

アメリカのグリーン大使というのが、CIA出身ですから、日本側からは連絡係として、佃泰一等書記官が、PKI視察の専門家として派遣されているほどです。大森さんは佃書記官から、あの文書を入手したはずですよ」

さらに調査を進めると、「空路、羽田に飛んできた男を待ち構えていて、銀座のバーで書類をうけとった」とか、「TBSの前に構えた事務所をごらんなさい。彼の資金は豊富ですよ」など、さらに「アメリカの黒い霧に包まれた退社などの話が、つきつめてみると彼の周辺から流されている」「大宅壮一氏と組んで雑誌を出すらしい」「彼の周辺というのは大宅氏のクチコミです。だから、週刊誌が一番に動いた」などと、真偽を判じ難い情報がうずまいている。

しかし、明らかになったことは、佃一等書記官は、二十三年組の警視正で、外務省に出向していた警察官である。いわば対共産党の専門家、CIA係の大使館員としては、CIA担当官であることは、十分うなずける。また、TBS前の新赤坂ビルの事務所というのは、毎日の先輩であり、四十年サイエンス・ランドで御喜家氏と組んで活躍していた、小谷正一の関係での入居であり、格別、〝豊富な資金〟などと、〝黒い……〟 ムードの表現は不必要であること、などであった。

そしてまた、大森自身もまた、当時、このことを否定して、私に会いたがっていた、ということを聞いた。

私の結論としては、ウントン自供書なるものが、CIAの謀略文書であるかどうかは、「データ評論」という(昨今の評論家たちのはすべて〝ムード評論〟でありすぎる)、データにもとづく評論という、私の主張から、にわかには断じ難い。ただ、前述のように、外信部長として、

「自供書」と断定して発表するには、慎重を失したといえよう。

正力松太郎の死の後にくるもの p.324-325 朝毎は「アカの巣くつ」証言

正力松太郎の死の後にくるもの p.324-325 各社の外報記者たちは、ライシャワー大使に会見を求めて、米大使館につめかけていた。朝日の外報部長だった秦正流が突如として口を切った。「どうだい、みんな。こんな問題はなかったことにしようじゃないか」
正力松太郎の死の後にくるもの p.324-325 各社の外報記者たちは、ライシャワー大使に会見を求めて、米大使館につめかけていた。朝日の外報部長だった秦正流が突如として口を切った。「どうだい、みんな。こんな問題はなかったことにしようじゃないか」

私の結論としては、ウントン自供書なるものが、CIAの謀略文書であるかどうかは、「データ評論」という(昨今の評論家たちのはすべて〝ムード評論〟でありすぎる)、データにもとづく評論という、私の主張から、にわかには断じ難い。ただ、前述のように、外信部長として、

「自供書」と断定して発表するには、慎重を失したといえよう。

はたまた〝外報の朝日〟か

かつて朝日は、〝外報の朝日〟とさえよばれていた。だが、内部でさえも、「森恭三(社友、論説顧問)の退役で、〝外報の朝日〟は終った」と、批判する者もいる。外報記者——外国特派員に要求されるものの第一は、高度な判断力である。何しろ、遠い異境の地にあって、ただ一人で記者活動をするのであるから、単なる現象を報ずるリポーターであってはならない。

国内のつまらない事件ならば、少々ばかり宣伝に利用されても、大した影響がないのだから、まだよかろうが、これが、外報記者の問題となってくると、いささか違う。そこに広く深い知識、素養にもとづく、高度な判断力が要求されてくるのである。

朝日が、〝外報の朝日〟の名をほしいままにしていたということは、それに値するだけの外国特派員群をもっていたことである。だが、その昔日の栄光は消えて、今や〝スポーツの朝日〟なのだそうである。これもまた、硬派対軟派の抗争なのであろうか。

さる四十年四月二十九日、アメリカの二大通信社であるAP、UPIが、そろって打電した記事は、朝毎は、「アカの巣くつで、そのためアメリカのベトナム政策が批判されるのだ」というもの。米上院外交委員会が、四月七日に開いた、一九六六会計年度の軍事援助に関する秘密聴聞会での、ポール国務次官、マッカーサー同補の証言内容についての記事であった。

これに対し、朝日、毎日両紙は、それこそ〝猛然〟と反ばくしたが、翌日の両紙を見くらべると、毎日の怒りにみちた大扱いに対して、朝日のそれは、何事か次の段階のことを考慮したようなタメライを感じさせた。

不思議に思った私は、当時、その事情を調べてみると、入電した各社の外報記者たちは、ライシャワー大使に会見を求めて、米大使館につめかけていた。大使が現れるのを待っている間に、朝日の外報部長だった秦正流(大阪編集局長)が突如として口を切った。

「どうだい、みんな。こんな問題はなかったことにしようじゃないか」

すぐ反対したのはNHKだった。もうニュースとして流してしまったという。この話を、当時同席していた十社ほどの外報記者の一人から聞かされて、これは一体何だろうかと考えてみた。そして、翌日の反ばく紙面が、朝日と毎日と大きく違っていることと併せ考えさせられたのであった。

毎日の外報部長大森実がハノイに入った時、秦も後を追うようにハノイに入った。二人が北ベ

トナムから出てくると、アメリカは二人をワシントンに招待した。ラスク国務長官に会わせるから、というのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.326-327 三流週刊誌のデッチあげの手口と同じ

正力松太郎の死の後にくるもの p.326-327 林理介の社長賞記事は、その後になってから、「ガセ(ニセモノ)だ」「写真は、中部ジャワの新聞に出たものを学生から買い取った」と、中傷の風説が流れはじめた。この〝中傷〟は当然である。
正力松太郎の死の後にくるもの p.326-327 林理介の社長賞記事は、その後になってから、「ガセ(ニセモノ)だ」「写真は、中部ジャワの新聞に出たものを学生から買い取った」と、中傷の風説が流れはじめた。この〝中傷〟は当然である。

毎日の外報部長大森実がハノイに入った時、秦も後を追うようにハノイに入った。二人が北ベ

トナムから出てくると、アメリカは二人をワシントンに招待した。ラスク国務長官に会わせるから、というのである。

その話を聞いた時、私はハハンとうなずいた。私が抑留されてシベリアにいた時、ソ連人の強制労働者たちに、意外にアメリカ・ファンが多いのである。不思議に思って聞いてみると、こうだ。

彼らは独ソ戦で捕虜となり、ドイツの収容所にいたのだが、やがて米軍がやってきて、彼らを接収した。向う側まできているソ連軍に引渡されるかと思うと、彼らは全員アメリカ本国へ〝連行〟されて、資本主義的〝洗脳〟を施されたのである。そして、祖国ソ連に凱旋した。するとドイツに捕虜となった罪状で、シベリアに〝矯正労働〟へと送られたという次第であった。

彼らは口を揃えていう。「カピタリズムはいい。食べ物も着るものも沢山ある。もし、アメリカと戦争になったら、投降してアメリカに行くんだ」と。

大森はアメリカの招待を断ったが、秦はよろこんで出かけ、ラスク長官との会見記をモノにした。アメリカの記者でさえ、ラスクにはなかなか会見できない時であったのに……。

一体、秦をこうさせるのは何だろうか。

昭和四十一年二月七日付の朝日は、林理介ジャカルタ特派員の大スクープを掲載した。九・三○クーデターの立役者、アイジットの自供書である。林は、この特ダネで、社長賞として金メダ

ルと金十万円也を獲得したという。全面を埋めたアイジット自供書には、さらにアイジットの最後の姿を伝える、三枚の写真がそえられていた。社長賞、結構である。写真も迫力があり、自供書も面白い。だが私は疑問をもった。林特派員は、その前文で「……本社は入手した。……」とのみしか書いていない。そこが一点ひっかかるのであった。

その前年、といっても二カ月ほど前の、四十年十一月二十日付の毎日新聞朝刊第一面は、前述の通り「ウントン中佐の自供書を入手」と、大森の署名入り大原稿で埋められていたのであった。これもまた、前文では「……私が(東京で)入手した自供書によれば……」とある。

林のスクープは、この毎日記事への対抗記事であることは明らかである。外報の場合、「何日何処発——」と、クレジットを付すのが常識である。このクレジットが読者にその記事の信ぴょう性を判断させるためのものであることは、新聞のイロハである。

さて、林の社長賞記事は、その後になってから、「ガセ(ニセモノ)だ」「写真は、中部ジャワの新聞に出たものを学生から買い取った」と、中傷の風説が流れはじめた。抜かれた社のイヤガラセだともいえるが、この〝中傷〟は当然である。写真についても、転載なら転載と書くべきだし、自供書も、ただ「本社は入手した」では困る。これは、三流週刊誌のデッチあげの手口と同じだからだ。

大森のウントン自供書は、彼の退社後に、公判廷でウントンが否認したと、「シンガポールで

きいたジャカルタ放送=UPI」の外電が伝えた。しかし、アイジットは死んでいるので、自供書は否定されなかった。死人に口なし、書けば書き得、であった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.328-329 秦の主観と他社記者の客観のズレ

正力松太郎の死の後にくるもの p.328-329 このようにまとめた原稿を、私が雑誌に掲載したのに対し、当の秦正流朝日大阪編集局長から、長文の手紙をうけとった。私の叙述に、誤解があるというのである。読者の判断に資するため、その手紙を併載しよう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.328-329 このようにまとめた原稿を、私が雑誌に掲載したのに対し、当の秦正流朝日大阪編集局長から、長文の手紙をうけとった。私の叙述に、誤解があるというのである。読者の判断に資するため、その手紙を併載しよう。

大森のウントン自供書は、彼の退社後に、公判廷でウントンが否認したと、「シンガポールで

きいたジャカルタ放送=UPI」の外電が伝えた。しかし、アイジットは死んでいるので、自供書は否定されなかった。死人に口なし、書けば書き得、であった。

ある外国特派員の家庭を訪れた人が、妙な表が壁にはってあるのを、その〝朝日記者夫人〟にたずねた。夫人はニッコリ笑って、原稿の送稿本数と掲載本数の表で〝打率〟何割何分と計算までしていたそうである。あまりのお話なので、この特派員の名前は伏せるが、これでは〝外報の朝日〟が、森恭三の退役で幕を閉じたというのもムベなるかなであろう。デビ夫人が権勢を振うジャカルタ、キム・ジョンビル議長下のソウル——発展途上国で、しかも、日本の賠償金が流れこむ街。そこで、権力者と商社とを結んでくれる格好の人物は、新聞特派員である。

しかも彼は、その社から単身赴任しているのだ。管理者の眼の届かない、自由の天地でもある。もちろん、現地には、日本の役人もいよう。だが、外務省の役人たちも、やがて日本に帰るのである。その時、大新聞をあえて、自分の〝敵〟とするよりも、すべてにみてみぬフリをするのが、当然であろう。

特派員夫人の〝打率〟計算は、果して、読者のための、記者としての報道態度だろうか?  自分のための出世第一主義で、社の幹部ばかりに顔を向けて、肝心の国際情勢に背をみせていないだろうか。

「朝毎アカ証言」で、反米的といわれ、ベトナム政策を批判するといわれ、さらに、紙面全体

が、左翼偏向していると、一部から攻撃されている、朝日新聞の外報部をめぐる、幾つかのエピソードを紹介してみた。何よりも、朝日の紙面をつくる人たちの、精神構造と社会構造とを、よく検討して頂きたい。この状態で、何百人ものコミュニストが棲めるのだろうか。送稿本数と掲載本数との〝打率表〟まで作って、特派員の亭主を叱咤する記者夫人の姿は、果して、コミュニストの家庭であろうか。

このようにまとめた原稿を、私が雑誌に掲載したのに対し、当の秦正流朝日大阪編集局長から、長文の手紙をうけとった。私の叙述に、誤解があるというのである。読者の判断に資するため、その手紙を併載しよう。前述したように、十名ばかりの外報記者の中でのできごとで、私としては、ソースとなった某社記者の判断にもとづいた表現なのだが、秦の主観と他社記者の客観との間に、ニュアンスのズレは認められる。

「(前略)一、ポール・マッカーサー事件について秦正流が突如として口を切った。『どうだい、みんな、こんな問題はなかったことにしようじゃないか』つまり、こんなニュースが入電したことをモミ消そうという意味の提案をしたようだ。(中略)真相は、全く違います。それを簡単に話しましょう。私は余りにも日本の新聞と新聞記者が情ないから、いつの日か私なりに当時のことを書くつもりでいましたから、鮮明に記憶しています。

正力松太郎の死の後にくるもの p.330-331 私はむしろケイベツ的な気持をもった

正力松太郎の死の後にくるもの p.330-331 〝モミ消し〟などとはおよそ次元も心境も違う。それを、あなたに話した人のように聞く人がいたとすれば、それはその人の、この問題にたいする考え方が、私と根本的に違っていた からでしょう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.330-331 〝モミ消し〟などとはおよそ次元も心境も違う。それを、あなたに話した人のように聞く人がいたとすれば、それはその人の、この問題にたいする考え方が、私と根本的に違っていた からでしょう。

その日は日曜だった。ボクは自宅にいた。午後三時ごろ電話があった。毎日の大森君だった。カクカクのことで、各社外報部長が米大使館に集るから五時までに来てほしいという。だから私はみんなより一番遅れて出かけていった。途中本社によったら『共同からの連絡もあり、各社いちおう夕刊で抑えてある(当時は夕刊があった)』とのデスクの報告。

バカな余計なことを、と私は思った。なぜそんなに騒ぐんだ。なにをそんなに恐れるんだ。アメリカの議会で国務省の次官や次官補が苦しまぎれにでたらめいったことが、どうして日本でそれほど権威をもつんだ。馬鹿々々しい、というのが私の当時のにがにがしい卒直な感想だった。米大使館へ行ったら、みんながサモ一大事であるかの如く集っている。外報部長たちがである。どんな扱いで報道するか、どう抗議するかとか(朝日、毎日に同情するかの如き、あるいは逆の感情をも含めて)の議論があった。だから私は『笑止千万のことだ。せいいっぱいベタ記事であり、無視してしまったってよいくらいのもんだ』というような発言をしたはずである。

〝モミ消し〟などとはおよそ次元も心境も違う。それを、あなたに話した人のように聞く人がいたとすれば、それはその人の、この問題にたいする考え方が、私と根本的に違っていた からでしょう。まさに私が逆の見解をとっていたからです。だから、毎日の幹部が急拠会合し、大々的な反論を試みることになっているという大森君の話にも、私はむしろケイベツ的な気持をもっただけで、朝日は別の扱いでいこうと考えました。

朝日の扱いは、あれでも私は少し大きすぎたのではないかと思っています。朝日は、『米国の議会でもベトナム戦争についての日本の世論がよくないことが問題になり、国務省の情報が甘すぎるということで、責任追及された役人たちが一知半解の知識をもちだしていいのがれをはかった。その際、こんな無責任な発言をやった』という解釈です。

だから扱いとしては『ベトナムに関する日本の世論が米国で政治問題化している』ことをニュースとする。次にその際、無責任にもせよ、わが国の新聞、とくに朝日、毎日について信用を落とさせるような発言があったことを、その反論とともに載せる。(どこかの国のだれかが、デタラメな中傷を加えるごとに、それをニュースとし、反論しなければならないかどうか。そういうと『かりにもアメリカの議会だぜ』『アメリカ国務省の次官であり、次官補であるんだよ』などいう人が周辺に余りにも多いんで、私は情なく思っているものの一人です)

二、大森君と私がベトナムから出てくると『アメリカは二人をワシントンに招待した。ラスク国務長官に会わせるから、というのである』『大森はアメリカの招待を断ったが、秦はよろこんで出かけ』

これは誰から聞かれたか明らかでないので、あなた自身の断定と思われますが、全く事実に反しています。大森君が招待されたかどうか、また招待を断ったかどうかを私は知りませんから(私は逆のように聞いていますが)私に関する限り誤りだと訂正しておきます。

正力松太郎の死の後にくるもの p.332-333 『無視する』『なかったことにする』

正力松太郎の死の後にくるもの p.332-333 『なかったことにする』という文句があることです。『無視する』というのは評価、取捨選択の問題ですが、あるものを『なかったことにする』というのは、およそ事実に立脚することを信条としている新聞記者の基本姿勢にふれる問題だからです。
正力松太郎の死の後にくるもの p.332-333 『なかったことにする』という文句があることです。『無視する』というのは評価、取捨選択の問題ですが、あるものを『なかったことにする』というのは、およそ事実に立脚することを信条としている新聞記者の基本姿勢にふれる問題だからです。

私はいちどもアメリカから招待されたことはありません。あの訪米は、一九六五年七月から、私が開始した一連の企画(南北ベトナム、インドネシア、北京、ソ連、英、仏、カイロ、ユーゴ訪問)のなかに含まれていて、早くからアメリカに接衝していたものです。アメリカは私が出発する直前にも、会見を保証してくれなかったし、ワシントンに到着しても、国務長官との会見を保証してはくれなかった。私は何日でも待つつもりで、ワシントンに頑張って、結果としてラスクやハンフリーに会えたのです。だから〝よろこんで〟出かけるなどということはあり得ないことでしょう。

ただ、当時、日本の世論を非常に気づかっていたアメリカが、日本の代表的な新聞の一つに異例の会見という形をとって、アメリカの公式見解を詳しく報道してもらいたいと思っていただろうと思います。私たち新聞人は、ソ連の首脳であれ、ハノイの指導者であれ、われわれの関心と かれらの関心との一致するところをねらって、インタービューを申入れるのが常識です。その常識にしたがったまでです、残念ながら北京もモスクワも、カイロもパリ、ロンドンも会見を許してくれませんでした。それだけのことです。

以上、直接私に関係する部分の誤りです。私に問い合せていただきさえすれば、間違わなかったのにと、残念に思います。とくに残念なのは、最初の方の引用形の文のなかに『なかったことにする』という文句があることです。『無視する』というのは評価、取捨選択の問題ですが、あ

るものを『なかったことにする』というのは、およそ事実に立脚することを信条としている新聞記者の基本姿勢にふれる問題だからです。『モミ消す』ということばと同様、全くやり切れない思いです。(中略)

長々と書きました。御無礼なことばもあったかと思います。だが、私の真意は、あなたが現代新聞論を志しておられる。一人でやられるには余りにも大仕事だから、なかには誤った情報による判断なり、記述も避けられないかと思います。それを指摘して、できるだけ、あなたの労作を正確なものにしてもらうことは、読者であり、同時に同僚でもある私たちのつとめだと思ったものですから、あえて一文した次第です。朝日新聞の同僚たちは、あなたの取材を拒否しないはずですから、どうぞ、できる限り直接取材して下さい」(後略)

「外報の〝朝・毎〟」は、このような経過で、すでに両社とも、それを看板にはできない状態になってしまったようだし、私は〝朝毎はアカの巣窟〟という、アメリカ流の見解の皮相さを、十分に解説し得たと思う。

とにもかくにも、上田常隆は、毎日社長であると同時に、日本新聞協会長として、「販売制度の改革」に取り組んでいた。その情熱を、私にももらしていたほどであったが、ついに志をのべないまま、現役を退いて、毎日顧問となった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.334-335 「真実の報道」がすでに空念仏となり

正力松太郎の死の後にくるもの p.334-335 「真実の報道」と「不義不正への挑戦」という、紙面の大黒柱が形骸だけをとどめていて、実は何もなくなっているという現実 7章トビラ 7 ポスト・ショーリキ
正力松太郎の死の後にくるもの p.334-335 「真実の報道」と「不義不正への挑戦」という、紙面の大黒柱が形骸だけをとどめていて、実は何もなくなっているという現実 7章トビラ 7 ポスト・ショーリキ

あの毎日の〝惨〟たる数字をみる時、上田ならずとも、販売制度の改革を考えざるを得まい。

これらの事実を見る時、「真実の報道」がすでに空念仏となり、「新聞」とは巨大なるマスコミ産業に変質していったことが、納得されるであろう。

今までの「新聞論」の多くのものが、新聞を襲った、大きな地すべり——「真実の報道」と「不義不正への挑戦」という、紙面の大黒柱が形骸だけをとどめていて、実は何もなくなっているという現実に眼をおおって、過去の「新聞」とは全く異質のものと認めようとしなかったきらいがある。

正力松太郎の死の後にくるもの

7 ポスト・ショーリキ