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赤い広場ー霞ヶ関 p.182-183 「仔豚は育ってきた!」

赤い広場ー霞ヶ関 p.182-183 Saito National Police Agency Commissioner said, “There are more than 60 Japanese Soviet spies under Rastvorov.”
赤い広場ー霞ヶ関 p.182-183 Saito National Police Agency Commissioner said, “There are more than 60 Japanese Soviet spies under Rastvorov.”

ソ連の手口である。ラ氏の失綜は形式的には、アメリカの拉致である。だが、真相は謀略的亡命である。わざと拉致されたのだ。そして敵の手中に入ってから、味方の意図するような自

供をする。ひったくりという、アメリカの手口に、つけこんだのである。

諜報謀略の原則は、七割与えて十割取る、肉を切らせて骨を切る、と同じである。「宗谷岬に漂うソ連兵の死体」で述べた、死体謀略の逆手ともいうべき、〝生体謀略〟である。つまり死体の携行書類の代りに、生きて口でシャベるのである。しかも、十年もたってから、ラ氏が米国内で自由の身となれば、敵中に一拠点を設けられるということだ。

『ウーム、それならば一切の疑問が解決する』

アナリストは、この著想に思わず唸りながら、急いで日ソ双方の全権団名簿を取出してみつめた。

交渉地ロンドンの、駐英ソ連大使を兼ねるソ連全権はマリク氏である。マリク氏は終戦時の駐日大使で、スターリン調停を依頼して煮湯を飲ませた男である。当時の外相は重光現外相、当時の外務次官は松本全権。

ソ連随員のゲオルギー・パブリチェフ氏は、終戦時のハルビン総領事で、その謀略性には流石の関東軍特務機関も、手をあげさせられた男である。しかも、戦後は代表部員でずっと日本にいた。ソ連随員で通訳のアデルハエフ氏は、政治上級中尉で、戦前から二十二年まで代表部に勤務し、二十九年と三十年の二度にわたって、エカフェ代表として日本を訪れている。

そしてまた、日本随員の都倉氏は、パブリチェフ氏と同じように、終戦まではハルビン勤務、しかも、戦後は同じ東京にいた。

――何という、奇縁に連らなる人々ばかりだろうか!

――そして、そこへ、清川特派員がモスクワからロンドンへ来ていたとしたら……?

『仔豚は育ってきた!』

こればかりは氏名を明かにできないのだが、この〝当局のアナリスト〟は、こう叫んで立上っていた。

斎藤警察庁長官が、小坂質問に答えて『ラ事件の関係日本人は、六十数名いる』といった。また二十九年八月二十日付の毎日新聞によると、当時の小原法相は『近く第二次発表を行い、関係民間人二十数名の氏名を明らかにする』と、記者会見で語っているが、何故かこの発表は行われなかった。

もちろん、そのかげにはいろいろな政治的理由があろうが、小原法相のいう「二十数名」は丸十ヶ月後には斎藤長官のいう「六十数名」と、三倍にハネ上っている。依然として捜査が続けられていた証拠である。

そして、今にいたるも、この六十数名は明らかにされていない。そして、六十数名というの が「山本調書」の全貌なのである。私が、今までに明らかになし得たのは、その一部にすぎないが、その重要な部分であることには間違いない。

赤い広場ー霞ヶ関 p.188-189 交渉地は第三国ロンドンに

赤い広場ー霞ヶ関 p.188-189 Japan proposed New York as a candidate site for the Japan-Soviet conference, but the Soviet Union refused. Because the information goes through the US Department of State.
赤い広場ー霞ヶ関 p.188-189 Japan proposed New York as a candidate site for the Japan-Soviet conference, but the Soviet Union refused. Because the information goes through the US Department of State.

二月十六日   ドムニッキー代表、第二回音羽訪問「日本側の最適地」という好意回答、沢田大使へニューヨーク交渉の接衝指令

二月十七日   モスクワ放送、交渉経過を発表

二月二十三日  沢田大使「ニューヨークに同意を確認」の口上書を手交

三月三十日   沢田大使、ソ連の回答督促

四月四日    ソボレフ大使「回答はドムニッキー首席を通ずる」旨通告

四月六日    鳩山首相は記者会見で「四日に松本俊一氏がドムニッキー氏から回答を受取った。交渉地は再びモスクワか東京を提案している」旨を語る。重光外相は衆院外務委で「モスクワ又は東京に同意したことはない」旨説明、外務省として「ソ連の真意了解に苦しむ」と発表

四月七日    モスクワ放送は、ソ連外務省声明を発表、重光外相を非難

四月八日    沢田大使「重ねてニューヨークを希望」の口上書を手交

四月十八日   ソボレフ大使「交渉地に第三国、ロンドン又はジュネーヴ」の回答を沢田大使へ手交

四月二十日   英外務省「ロンドン交渉は自由である」と発表

四月二十三日  十八日のソ連提案に対し沢田大使より「ロンドンを撰択」と回答

四月二十五日  ソボレフ大使より回答、ロンドンに日ソの合意成立、交渉開始は六月はじめを提案

この経過をみても分る通り、交渉開始のキッカケは、元ソ連代表部首席のドムニッキー氏の異常なまでの積極的工作で始められている。久原氏もまた、会長就任以米、極めて積極的で、『日中、日ソ関係なくして、日本の繁栄なく、鳩山にできねばオレがやる』と語った、といわれるほどの熱の入れようであった。

経過をみると、二月十七日のモスクワ放送以来、四月四日の回答まで、約一ヶ月半もの間、ソ連側は動いていない。しかも、四日の回答は、再びモスクワ又は東京で、七日にはモスクワ放送で、二月七日の鳩山九州談話をとりあげて、重光外相を非難している。

ところが、その非難から十一日目の十八日には、第三国案を提示してきている。この間の動きが大切なところである。四月八日付東京新聞によると、坂井共同特派員はタス通信のワシントン主任ボルシャコフ記者に対し『何故ニューヨークをきらうか』とたずねたところ『米国務省に筒抜けだから』と答えている。

国際会議こそ、大きな諜報と謀略の場である。ニューヨークで〝アメリカへ筒抜け〟ということは、ソ側が充分に働けないということである。モスクワ又は東京であるなら、ソ側は充分に働けるのである。モスクワはもちろんであるが、東京もまた、それだけの自信があったのであろう。つまりモスクワ又は東京で、アメリカの援助なしに、日本独自でやるならば、日本全権団などはハダカ同然だというのである。