東京に帰りついた翌日、私は出社した。二年間の捕虜生活も、新聞記者にもどったよろこびで、身体は元気一ぱい、何の疲れもなかった。竹内部長はきさくに片手をあげて、編集の入口でマゴついている私を呼んだ。森村次長が早速いった。
『何か書くかい? 書けるかい?』
『エー、もちろん、書かせて下さい』
森村次長は、捕虜から帰ったばかりの私が、使いものになるかどうかみようと思ったらしい。私はその日帰宅すると、徹夜でシベリヤ抑留記を書いて持っていった。
『ウン、つまらんね』
軽くイナされてしまった。私は実のところ、何を書いていいか判らなかったのだ。森村次長は、ただ「書くかい?」といっただけ、私は心中腹を立てて、その原稿を取りもどすと、またその夜も徹夜した。今度は、新聞記者のみた、シベリヤ印象記を書いた。
『ウン、これなら使える。御苦労さん。しばらく、挨拶廻りもあるだろう。休んでいいよ』 やっと、ネギライの言葉がもらえた。
数日後、私は郷里の盛岡で、驚きと感激に胸をつまらせながら、読売新聞をみつめていた。一
枚ペラ(新聞一頁)の新聞だというのに、裏の社会面の三分の二を埋めて、私のはじめての、署名原稿が、デカデカと出ているではないか。その記事を読みながら、私は涙をポトポトと、紙面に落した。
——生きていてよかった。兵隊も捕虜も、この日のための苦労だったのだ。
しみじみとした実感だった。あの玉音放送の時の、躍り上らんばかりのよろこび、「またペンが握れる」が、咋日のように、胸に迫ってきた。
署名入り処女作
昭和二十二年十一月二十四日(月)
抑留二年、シベリア印象記
本社記者 三田和夫
ナゾの国ソ連と呼ばれた通り、この国で見たもの聞いたものには、ついにナゾのままで終ったことが多かったが、うかがい得た限りでは、いろいろと興味あることばかりであった。入ソした われわれは、いたるところで大歓迎をうけた。というのは、列車が停るたびごとに、食料品や煙草を抱えた人々が押しよせてきて、物交をせがんだのだった。