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最後の事件記者 p.284-285 それならば検事の名前を明らかに

最後の事件記者 p.284-285 何しろネタモトは、検事という、日本の最高級のランクにある人種で、しかも役所、しかも中央官庁の課長で、過去には立派な仕事ばかりしてきた人である。ナントカ疑獄とかカントカ疑獄とか
最後の事件記者 p.284-285 何しろネタモトは、検事という、日本の最高級のランクにある人種で、しかも役所、しかも中央官庁の課長で、過去には立派な仕事ばかりしてきた人である。ナントカ疑獄とかカントカ疑獄とか

相手は、検事の肩書を持つ課長である。立松はそれを信じて原稿を書いた。その結果が現役記者の逮捕である。

立松記者の上司もまた、その課長に会って確かめたはずである。社会部のピエロたちは、たと

え立松記者を有罪としようとも、懲役に送ろうとも、ニュース・ソースは明かすまいと決心した。本人もそのつもりであったに違いない。社会部のピエロたちの意見は、それが、本当の新聞としての責任と正義とを貫ぬく道だと信じた。

記事は取消すまい、そのため懲役へ行くのも止むを得ない——ヤクザの仁義と似ているッて? そうだとも、ピエロだもの。

何しろネタモトは、検事という、日本の最高級のランクにある人種で、しかも役所、しかも中央官庁の課長で、過去には立派な仕事ばかりしてきた人である。ナントカ疑獄とかカントカ疑獄とか、この人のいうことを信じない記者がいたら、おめにかかりたいものである。

司法記者クラブのキャップとして、その反対側の立場の検事のいう言葉を信用して、立松を出頭させてしまい、ヒッカケ逮捕という最悪の事態を招いてしまった私も、大いに責任を感じていた。もとより、私もネタモトを信じたから、記事を取消すべきではないという意見だった。

だから私は、上司にも相談せず、独断でマルスミ・メモといわれる、済の字を丸でかこった印のついた代議士の名簿を、知合いの代議士たちに見せたのである。かつて国会を担当していたから、知合いは沢山いた。するとそれは委員会へ持出されてしまった。

その結果出てきたものは、最初の掲載記事と同じ場所へ、同じ体裁で、同じ長さの記事を出して、前の記事を訂正するという、前代未聞の出来事であった。私が書いた記事に対しても、同じような要求をうけたことは、一再ならずあった。だが、それらはすべて、一笑のもとにケトばされた。

私は絶対不服であった。それならば、あの検事の名前を明らかにして、その間違った経過を、読者の前に公表すべきである。相手をぶん殴って、すぐ済みませんとだけ謝れば、それで済むはずのものでない。このように間違えたのですから、御立腹でしょうが、お許し下さいと、謝まるのが常識であり、礼儀であり、読者への責任である。

この態度に、卒直で良い、大新聞の襟度である、これからもそうすべきだ、と、オベンチャラをいう評論家や、他の新聞があった。そんなバカなことがあるものか。

一等部長である社会部長は、三等部長のつまらないポストへトバされてしまった。立松記者は、「懲戒休職一週間」という、処分をうけた。私は、その時にはお構いなしであったが、早晩トバさるべき運命なりと、覚悟していた。私が立松記者なら、あの時に退社しただろうが、いずれにせよ、横井事件などがなくとも、辞めるべき客観状勢であったのである。

最後の事件記者 p.286-287 メシが食えるかい? 大丈夫かね

最後の事件記者 p.286-287 人間、落目になって、はじめて人の情を知るというが、私は今度もそう感じた。本人はあまり落目とも思わないが、客観的には落目であることは確かだ。
最後の事件記者 p.286-287 人間、落目になって、はじめて人の情を知るというが、私は今度もそう感じた。本人はあまり落目とも思わないが、客観的には落目であることは確かだ。

私は、その時にはお構いなしであったが、早晩トバさるべき運命なりと、覚悟していた。私が立松記者なら、あの時に退社しただろうが、いずれにせよ、横井事件などがなくとも、辞めるべき客観状勢であったのである。

なぜかといえば、この事件の取消し方の、スジが通ってないのでも判る通り、社会部のピエロは、すべて整理されることになった。あんまりフザけた、道化芝居はやめて、商売らしい商売をするために、サラリーマンだけを雇用することになったようであった。

はじめて知る人の情

『最高裁の局長連中との会で、君の噂が出てね。みんな局長たちの意見は、起訴からして無理だから無罪だ、といってたよ。悪いニュースじゃないから知らせるよ』

ある記者が電話でそういってきた。

『メシが食えるかい? 大丈夫かね、相談に乗るよ』『ある会社のエライ人が、手記を書いたのだけど、文章がダメなんだ。印刷できるよう、まとめる仕事をやらないか』『ナニ、新聞ばかりが社会じゃないよ』

人間、落目になって、はじめて人の情を知るというが、私は今度もそう感じた。本人はあまり落目とも思わないが、客観的には落目であることは確かだ。

電話の一本、ハガキの一枚に、私はどんなに慰められ、元気づけられたことか。そして、広い

世間には、いろいろの考え方のあることを知った。

『あの文章を読んでその通りだと思うものは、新聞記者に一生を打ちこんだものだけしか解らぬでしょう。特に官僚の権力エゴイズムと、最近の××の月経の上った宮廷婦の集合の如き動脈硬化ぶりに対する、言外の痛恨の情など……』

『この馬鹿みたようなという実感は、警察と検事とを除いた、すべての日本人、否地球上のすべての人の吐息ではありますまいか。大体、権力を握った人間はヒューマンという意味では人間ではないでしょう。普通の場合でも検事たちの手にかかると、刑法的インネンを吹かけられて、惨めな人生になることが一般的でしょう』

私が、司法記者クラブにいた一年間の大事件は、売春、立松、千葉銀の三つであったが、それらの事件を通して感じられるのは、この二つの手紙と共通するものであった。一人は新聞記者の老先輩であり、一人は老実業人であった。新聞記者、それも読売の未知の地方支局員からももらった。

『読んでみると、全く社の悪口はなく、取材意欲と愛社心にもえるものだった。読者には読売にはいい記者がいたものだと感心させ、社の幹部も反省することがあるだろう。私たちも第一線地

方記者として、読売に誇りを感じた。折あれば早くまた帰社して頂き……』