立松和博」タグアーカイブ

事件記者と犯罪の間 p.152-153 私に与えられた名は〝悪徳記者〟

事件記者と犯罪の間 p.152-153 あの社旗のもとで、身体を張り職を賭して存分に働いた十五年であった。今、辞表を出して〝元記者〟となり、〝悪徳記者〟の名のもとに石もて追われようとも、私の心には、読売の赤い社旗がハタハタと鳴っていたのである。
事件記者と犯罪の間 p.152-153 あの社旗のもとで、身体を張り職を賭して存分に働いた十五年であった。今、辞表を出して〝元記者〟となり、〝悪徳記者〟の名のもとに石もて追われようとも、私の心には、読売の赤い社旗がハタハタと鳴っていたのである。

私は傍らの萩原記者を顧みて笑った。昭和二十三年から四年にかけて、この三人は司法記者クラブで一緒に、「朝連解散」の特オチをやった仲だった。そして、その頃の三人を検事として知っている中村信敏弁護士が、立松事件にひきつづいて、私にもついていて下さったので、私と萩原との笑いに合せて笑っておられた。

全く悪縁であった。立松記者が逮捕された時は、私の担当する検察庁だったので、私が先頭に立って検察の不当逮捕を鳴らし、検事諸公の反感をも大分買ったりしながらも、立松君の面倒を見たのだったが、今度は私が警視庁に逮捕されて、萩原君にすっかり面倒を見てもらう羽目となったのである。

だが、事情はすっかり違っていた。名誉毀損事件の不当逮捕は、立松君を〝英雄〟にしたのだが、横井殺人未遂事件の暴力団を逃がしたという犯人隠避事件で、すでに逮捕状の準備されている私に与えられた名は、〝悪徳記者〟!

こんな違いをハッキリと自覚しながらも、私の笑い声は明るかった。朝、家を出る時に妻にいい残した言葉は、「いいか、武士の向う傷だ。国法にふれたのだから、罪は罪だが、武運拙く敗れた賊軍なのだ。オレの留守中は、胸を張って歩け。新聞記者として恥ずべき何ものもないんだから」というものだ。

ハタハタと鳴る赤い読売の社旗が、気持良く眼にしみる。あの旗は、昭和十八年十月二日、入社二日目に初めてタダ一人で乗った自動車に、ひるがえっていた旗と同じ旗だ。あの時の、「オ

レは新聞記者になったンダ」という、身ぶるいのしそうな感激が、今、逮捕状の待つ警視庁へ向う瞬間にも襲ってきた。

あの社旗のもとで、身体を張り、職を賭して、存分に働いた十五年であった。今、辞表を出して〝元記者〟となり、〝悪徳記者〟の名のもとに、新聞記者なるが故の厳しい批判と、冷笑やレンビンの石もて追われようとも、警視庁の正面玄関を昇ってゆく私の心には、読売の赤い社旗がハタハタと鳴っていたのである。

昭和三十三年七月二十二日、私は犯人隠避容疑の逮捕状を、警視庁地下の調べ室で、捜査第二課員によって執行された。「関係者の取調べ未了」という理由で、刑訴法に定める通り、二十日間の拘留がついた。そして満期の八月十三日、私は「犯人隠避ならびに証拠湮滅」罪で起訴され、意外にも早い同十五日に保釈出所を許された。逮捕から拘禁を解かれるまで二十五日であった。

グレン隊と心中?

事件というのは、改めていうまでもない。さる六月十一日、銀座の社長室を襲って、ひん死の重傷を負わせた横井事件で、殺人未遂容疑の指名手配犯人となった、渋谷のグレン隊安藤組幹部小笠原郁夫(二六)を、北海道旭川市に逃がしてやったということである。これが、私の〝悪徳〟ぶりの中身であった。

出所して自宅へ帰った私は、まず二人の息子たちを抱き上げてやった。ことに、逮捕と同時に

行われた家宅捜索から、早くも敏感に異変をさとり、泣き出してしまったという、三年生の長男には、折角の夏休みの大半を留守にしたことを謝ったが、新聞雑誌に取上げられた私の報道をみて、私が「グレン隊の一味」に成り果ててしまったことを知って、いささか過去十五年の新聞記者生活に懐疑を抱きはじめたのであった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.052-053 大誤報のニュース・ソースが河井検事

正力松太郎の死の後にくるもの p.052-053 現職の法務省刑事課長である河井検事を、国家公務員法違反、ひいては、名誉棄損の共犯として逮捕し、馬場派検事を一挙に潰滅させよう、という、岸本派の狙いがあったのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.052-053 現職の法務省刑事課長である河井検事を、国家公務員法違反、ひいては、名誉棄損の共犯として逮捕し、馬場派検事を一挙に潰滅させよう、という、岸本派の狙いがあったのである。

小島のクビが危うかったことは、その前にもう一度ある。昭和三十二年秋の、例の「立松事件」の時である。売春汚職にからんで、社会部立松和博記者(故人)が、「宇都宮徳馬・福田篤

泰両代議士召喚必至」という、大誤報を放った時である。

原が、社会部長から編集局次長兼整理部長に栄転したあと、原の僚友景山与志雄が社会部長となった。古い社会部記者のタイプの、温情派であった景山は、原の後任としては、社会部長の椅子が重かったようである。おりからの売春汚職にさいして、やはり、〝ここらで一発!〟の気が動いたらしく、療養生活から出社してきたばかりの、司法記者のヴェテラン立松を起用した。

立松はいうまでもなく、昭電事件のスクープで「事件の読売」の評価を高めるに、大功のあったスター記者であった。彼は、米軍占領下で大量追放の憂き目にあった、思想検事閥に代って、GHQに迎合した経済検事閥(注。いわゆる〝馬場派〟のこと)の先達、木内曾益次長検事に可愛がられて、馬場——河井ラインに密着していたので、他社を呆然とさせる連続スクープを放つという、輝かしい経歴を作っていた。

景山には、立松のスクープ可能の〝限界〟が、十分に理解できていなかった。当時、立松のネタモトである河井信太郎検事は、現場を離れて、法務省刑事課長であったのだ。立松を部長直轄として、司法クラブのキャップであった私の、隷下には属させなかったのも、景山のアセリを示し、指揮統率上からも、誤報を生む原因となった。

なぜならば、立松は、長い療養生活から戦線復帰をしてきた直後であり、売春汚職と政界のつながりなどの、十分な基礎知識を勉強する体力も気力もなく、昭電事件当時のように、直接、逮

捕状まで見せてくれた河井検事のような、現場の検事がいなかった。(注。昭電事件における読売の派手なスクープは、事件そのものが、GHQ内部の対立からきた謀略でもあったから、逮捕状を事前に見せるだけの〝意義〟があったのである。そして、この事件に加担した経済検事閥は、この時から国家権力を私する〝よろこび〟を覚えて、検察を堕落させるのである)

立松は、私に良く、部長に対し負荷の任に耐えないことをコボしていた。もし、彼が私の指揮下にあったなら、私はあの原稿の出稿を認めなかったであろう。というのは、私の部下であった滝沢、寿里両記者とも、その内容が、当時〝怪文書〟として流れていた、マルスミ・メモ(注。代議士の氏名の上に、済の字を丸で囲った印のついた名簿)と、あまりに符合していたからである。

そして、立松記者の取材の最後のツメは、私と滝沢とが立会って、河井検事の自宅への電話取材ということになった。私が、あの大誤報のニュース・ソースが、河井検事であると公言できるのは、この事実と、立松が正式に部長、デスクに対し、「河井からの取材」と報告している事実とからである。

宇都宮、福田両代議士の、即日の告訴から、立松の現職逮捕となって、事件は大きくひろがった。検察内部の派閥対立から、告訴を受けた 岸本義広東京高検検事長の指揮の下に、「立松記者のニュース・ソースは河井検事に違いない」というので、現職の法務省刑事課長である河井検事を、国家公務員法違反、ひいては、名誉棄損の共犯として逮捕し、馬場派検事を一挙に潰滅させ

よう、という、岸本派の狙いがあったのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.054-055 〝研究させてみましょう〟と一言

正力松太郎の死の後にくるもの p.054-055 小野弁護士の謝礼が問題であった。本人に「ぶしつけながら……」と伺ったところが、小野弁護士曰ク。「私が、日本で一流の弁護士であるということをお忘れなければ、幾らでも結構です」と。
正力松太郎の死の後にくるもの p.054-055 小野弁護士の謝礼が問題であった。本人に伺ったところが、小野弁護士曰ク。「私が、日本で一流の弁護士であるということをお忘れなければ、幾らでも結構です」と。

検察内部の派閥対立から、告訴を受けた 岸本義広東京高検検事長の指揮の下に、「立松記者のニュース・ソースは河井検事に違いない」というので、現職の法務省刑事課長である河井検事を、国家公務員法違反、ひいては、名誉棄損の共犯として逮捕し、馬場派検事を一挙に潰滅させ

よう、という、岸本派の狙いがあったのである。

この時、マスコミは団結して、立松記者の不当逮捕の非を鳴らし言論の自由のための闘い、を展開した。立松は拘留がつかずに、三日目に釈放された。そこで、宇都宮、福田両代議士は、事件を国会に移し、小島編集局長を証人として喚問し、宣誓証言を求めようとしたのである。もちろん、「ニュース・ソースは河井検事」ということは、局長にも報告されていた。立松、河井の関係の過去があるだけに、〝河井のネタ〟ということで信頼されて、あの大誤報がトップになったものだ。

小島は、国会の証人喚問と聞いて、蒼くなってフルエた。証言拒否権がないのは明らかで ある。「どうしたらいいんだ」という小島の言に、私と、前任の司法クラブのキャップの萩原福三記者とで相談して、小野清一郎、名川保男、竹内誠の三弁護士を招いた。

これにもまた、エピソードがある。三弁護士に局長、部長、萩原と私の会議が開かれ、国会の証人喚問に対する、読売編集局長としてのとるべき態度が相談された。相談といっても、萩原と私とが、経過說明を行なっただけである。本社会議室で約一時間、事情を聞き終った小野弁護士はタダ一言、「難しい問題ですナ。ウチの助教授(注。小野は東大名誉教授)たちに研究させてみましょう」

会議はそれでお開きとなり、近くのレストランで夕食を差しあげて、三弁護士を車でお宅まで

お送りしたのであった。事件はその後、正力の出馬となり、同一スペース、同一活字の訂正記事で、両代議士の名誉回復を図って落着したが、さて、小野弁護士の謝礼が問題であった。

萩原と私が、アチコチ当ってみたが、このようなケースの謝金の額の前例がない。万策つきて、本人に「ぶしつけながら……」と伺ったところが、小野弁護士曰ク。「私が、日本で一流の弁護士であるということをお忘れなければ、幾らでも結構です」と。

一流の新聞社が、一流の弁護士への謝金となると、これは〝問題〟である。下手をすると、どちらかの〝一流〟にキズがつく。

小島は、萩原と私が相談した結果の、数字を記入した出金伝票を見て、目を丸くして叫んだ。

「小野先生は、〝研究させてみましょう〟と一言しゃべっただけだ! それなのに、こんなに!」

結局は説得されて局長印を押したけれども、小島は、あの時の〝蒼い顔〟を忘れて不服そうであった。彼には、人間の知的労働についての、正当な認識がなかったようである。

立松は、懲戒停職一週間、景山は一等部長である社会部長から、三等部長の少年新聞部長へと左遷されて、事件はすべて片付いた。景山の後任は、〝危険な〟社会部出身をさけて、経済部出身の金久保通雄であった。

年があけてから、立松がキャップの指揮下になかったので、直接の処分こそ受けなかったが、私には、「大阪読売の社会部次長はどうか」という、打診がきた。もちろん断った。すると、し ばらくして、「週刊読売の次長はどうだ」という。私は一笑に付した。

正力松太郎の死の後にくるもの p.056-057 気前良く何枚も女どもに呉れてやる

正力松太郎の死の後にくるもの p.056-057 私は唇を噛んで、この〝社会部と社会部記者を知らない〟新任部長の所業をみつめていた。その時だけはテーブルを引ッ繰り返して、部長と女どもを引っぱたいてやりたかった。巨人軍の試合の招待券!
正力松太郎の死の後にくるもの p.056-057 私は唇を噛んで、この〝社会部と社会部記者を知らない〟新任部長の所業をみつめていた。その時だけはテーブルを引ッ繰り返して、部長と女どもを引っぱたいてやりたかった。巨人軍の試合の招待券!

年があけてから、立松がキャップの指揮下になかったので、直接の処分こそ受けなかったが、私には、「大阪読売の社会部次長はどうか」という、打診がきた。もちろん断った。すると、し

ばらくして、「週刊読売の次長はどうだ」という。私は一笑に付した。けれども、この次には、もっと悪いポストで、私は社会部から追放されるナと、感じたのであった。

なにしろ、金久保が部長になるや、千葉銀事件、鮎川金次郎事件といったような、〝危険な事件モノ〟は、全くボツになって、無難な企画モノだけで、社会面がつくられるという状態であった。金久保は社会部育ちの古参次長たちを、逐次、部外へ出していった。小島の特命をうけたらしい、〝角をためる〟部長であった。

彼は、直ちに社会部内の現況を握るため〝管内巡視〟をはじめた。当時、司法記者クラブのキャップであった私の、御進講を受けた部長は、勉強を終って銀座のバーへと流れることとなった。

余談ではあるが、やはり、書きしるしておかねばならないことがある。馴染みのバーで馴染みの女の子たちに、社会部長就任を祝われた部長は、すっかり〝その気〟になってしまって、私の眼前で、巨人軍の試合の招待券を、気前良く何枚も女どもに呉れてやるのであった。

私は唇を噛んで、この〝社会部と社会部記者を知らない〟新任部長の所業をみつめていた。女どもの嬉々としてよろこぶ有様をみていて、酒好きと女好きでは人後に落ちない私ではあったが、その時だけはテーブルを引ッ繰り返して、部長と女どもを引っぱたいてやりたかった。巨人軍の試合の招待券! ジャイアンツ・ファンのデカや検察事務官にとって、これほどの贈り物があるだろうか。

警視庁や検察庁のクラブ記者が、夜討ち朝駈けの際に、この一枚の切符をポケットに忍ばせておれば、どんなにか心強いことか! この時の私の部長不信の念が、やがて、半年余を経て、私の横井英樹殺人未遂事件への連座となり、引責退社となるのである。そして、小島常務・編集局長は、三十一年に事業本部嘱託として入社してきた正力亨を戴いて、専務、副社長を目指しているための、〝安全運転〟であると噂されていた。

五人の犯人〝生け捕り計画〟

社会部中心の記述が続いているが、読者の御寛恕を乞いたい。が何しろ、〝事件の読売〟といわれて、三面(注。四頁時代の社会面)記事でノシてきた大衆紙である。ことに、原の社会部黄金時代のあとだけに、もうしばらく、筆を進めさせて頂くこととする。

前述したような小島の〝安全運転〟ぶりや、部長やデスクの〝事件記事圧殺〟によって、当時の読売社会部は、最近の大学のように荒廃してきた。私は、心中ひそかに決意しはじめていた。何かの事件を機会に、「社会部は事件」という実物教育をやってやろう、ということである。い

うなれば、社会部記者としてのクーデターである。

読売梁山泊の記者たち p.008-009 目次

読売梁山泊の記者たち p.008-009 目次01
読売梁山泊の記者たち p.008-009 目次01

序に代えて 務臺没後の読売

九頭竜ダム疑惑に関わった氏家、渡辺
大下英治の描く、ナベ恒の謀略
覇道を突き進む読売・渡辺社長 

第一章 エンピツやくざを統率する竹内四郎

戦地から復員、記者として再出発
「梁山泊」さながらの竹内社会部
記者・カメラ・自動車の個性豊かな面々
帝銀事件、半陰陽、そして白亜の恋
争議に関連して読売を去った徳間康快 

第二章 新・社会部記者像を描く原四郎

いい仕事、いい紙面だけが勝負
カラ出張とねやの中の新聞社論
遠藤美佐雄と日テレ創設秘話
「社会部の読売」時代の武勇伝
あまりにも人情家だった景山部長 

第三章 米ソ冷戦の谷間で〈幻兵団〉の恐怖

シベリア引揚者の中にソ連のスパイ
スパイ誓約書に署名させられた実体験
幻兵団を実証する事件がつぎつぎと
米ソのスパイ合戦「鹿地・三橋事件」
近代諜報戦が変えたスパイの概念

第四章 シカゴ、マニラ、上海のギャングたち

不良外人が闊歩する「東京租界」
国際ギャングによる日本のナワ張り争い
戦後史の闇に生きつづけた上海の王
警視庁タイアップの華麗なスクープ

第五章 異説・不当逮捕、立松事件のウラ側

大誤報で地に堕ちた悲劇のスター記者
三十年後に明かされた事件の真相

読売梁山泊の記者たち p.010-011 目次(つづき) 章扉

読売梁山泊の記者たち p.010-011 目次02 序に代えて 務臺没後の読売(扉)
読売梁山泊の記者たち p.010-011 目次02 序に代えて 務臺没後の読売(扉)

第五章 異説・不当逮捕、立松事件のウラ側

大誤報で地に堕ちた悲劇のスター記者
三十年後に明かされた事件の真相

政治的思惑で立松を利用した河井検事
もしデマのネタモトを暴露していたら…
事件の後始末、スター記者時代の終わり

第六章 安藤組事件・最後の事件記者

ころがり込んできた指名手配犯人
犯人を旭川へ、サイは投げられた
発覚、そして辞職、逮捕、裁判へ…
いま「新聞記者のド根性」はいずこへ

あとがき

序に代えて 務臺没後の読売

読売梁山泊の記者たち p.048-049 こういうのを「号外落ち」という

読売梁山泊の記者たち p.048-049 「バカヤローッ!」と、二、三十メートルも離れた社会部長席から、竹内の大音声がとどろいた。編集局中が、一瞬、何事が起きたのかと、静まったほどの大喝であった。
読売梁山泊の記者たち p.048-049 「バカヤローッ!」と、二、三十メートルも離れた社会部長席から、竹内の大音声がとどろいた。編集局中が、一瞬、何事が起きたのかと、静まったほどの大喝であった。

記者・カメラ・自動車の個性豊かな面々

竹内四郎社会部長の、「バカヤローッ!」という大喝を浴びた記憶が、私にも生々しく残っている。

昭和二十四年四月四日、政府は、団体等規制令を、公布、即日施行とした。そして、九月八日、この団規令によって、在日本朝鮮人連盟(朝連)など、朝鮮人関係四団体の解散を指定したのであった。

前年の二十三年秋から、司法記者クラブに移っていた私は、もっぱら、帝銀事件の平沢貞通の公判を担当していた。

政治部の法務記者クラブでは、法務庁そのものの担当で、三品鼎がいた。社会部は、裁判所と検察庁を受け持ち、司法記者クラブといった。

竹内の子分をもって任じていた、警察記者のボス、はんにゃこと稲垣武雄がキャップ。その下に、井浦浩一、立松和博、萩原福三と私がいた。井浦は、社歴が一、二年古いのでバイス・キャップと自称して、私たち三人との折り合いが悪かった。

と、そこに、朝連解散である。翌九日付の記事の書き出しが、「政府は八日午前十一時…」とある。多分、十一時半ごろには、記者クラブで発表された、だろう。読売だけは記者がだれも出ていない。

夕刊がなくとも、号外はある。街々に、号外の鈴の音が響き渡るころ、萩原あたりが、あわてて、原稿を社に送る。朝日、毎日の号外が、有楽町界隈に貼り出されている、というのに、読売だけは、いま、送稿中だ。

こういうのを、「号外落ち」という。発表モノでなくとも、大きな事件などで、一社だけ、記事が出ていないのは、「特落ち」である。新聞社は、できて当たり前、できねばボロクソの、優勝劣敗、適者生存の原則に厳しい。

原稿を送り終わって間もなく、手まわし直通電話が、チリチリリと鳴って、「稲公! すぐ社に上がってこい!」と、竹内部長の怒鳴り声が響いた。

ユーウツな数時間が過ぎて、夕方ともなれば、どうしても、社に上がらざるを得ない。私たち三人は、屠所にひかれる羊のように、先を譲り合いながら、編集局の入り口に立った時だった。

「バカヤローッ!」と、二、三十メートルも離れた社会部長席から、竹内の大音声がとどろいた。編集局中が、一瞬、何事が起きたのかと、静まったほどの大喝であった。

三人とも、顔色を失って、この大音声に引き寄せられるように、部長席の傍らに、首うなだれて、立ち並んだ。竹内は、ジロリ、ジロリと、三人の顔をニラミつけただけで、一声も発しないのだ。

長い、長い沈黙がつづいた。あとで気がつくと五、六分間ぐらいだったが、それこそ小一時間にも感じた〝時間〟だった。

「オイ、もう、いいぞ。こっちへ来い」

般若の稲ちゃんの顔が、菩薩さまに見えた感じがした——竹内は、もはや、小言のひとつもいわなかった。三人は、稲ちゃんに連れられて、付近の喫茶店に入って、我に返ったのだった。

最後の事件記者 p.282-283 家へやってきたらどうしよう

最後の事件記者 p.282-283 バリバリッと、音を立てて、ひろげる。サッと眼を射る大きな横見出し。「自称右翼〝護国青年隊〟の内幕」、肩に太い二本見出し「恐かつ専門の暴力団、分け前は前科で決る」。何ともいえない芳香を放つインク
最後の事件記者 p.282-283 バリバリッと、音を立てて、ひろげる。サッと眼を射る大きな横見出し。「自称右翼〝護国青年隊〟の内幕」、肩に太い二本見出し「恐かつ専門の暴力団、分け前は前科で決る」。何ともいえない芳香を放つインク

『暴力団が子供を誘拐したらどうしようかしら』

そういって、学校へ通う長男にかんで含めるように教えた。長男もオビエた顔で、母の注意を

聞いていた。

『パパの留守に、家へやってきたらどうしよう。私はともかくとして、この子に手を出したりしたら……』

幼い次男を抱きしめて、彼女は真剣に考えた。そしていった。

『浅草あたりでは、一万五、六千円でピストルが買えるというじゃないの。社で前借して買ってきて下さいよ。家へ押し入ってきたら、撃ってやるんだ』

そして、しばらくしてまたいった。

『……ね、パパ、お願いだから死なないでよ。……もう、危険なお仕事はやめて!』

これが、〝ピエロ〟の妻である。ああ! 母は強く、女は弱い!

それなのに、ピエロは、踊るのをやめない。バリバリッと、音を立てて、ひろげる。サッと眼を射る大きな横見出し。「自称右翼〝護国青年隊〟の内幕」、肩に太い二本見出し「恐かつ専門の暴力団、分け前は前科で決る」。何ともいえない芳香を放つインク、何十万、何百万枚と刷ってゆく輪転機のごう音。

——この感覚のエクスタシーが、新聞というマンモスなのか。

※※護国青年隊関連資料/『日本を哭く』推薦の言葉・三田和夫※※

ピエロはとばされる

新聞記者の功名心という、誰にも説明できないピエロの衣裳は、麻薬のように本人だけのエクスタシーなのであろう。

何も光文社ばかりではない。新聞の世界にも、ガラ空きの客席を前に、一人踊り呆けるピエロの自覚が訪れてきている。去年の秋の売春汚職にからむ立松事件が、その最初のステップである。

立松記者は、デタラメやウソを書いたのではない。福田篤泰、宇都宮徳馬両代議士が、売春汚職にからんでいると、しかも、五人の代議士のうち、この二人だけは名前を出しても絶対大丈夫だ、と、ハッキリ聞いたのである。彼は私たちの前で、相手に電話した。立松もピエロだから、何もそんな芝居は必要としない男である。

相手は、検事の肩書を持つ課長である。立松はそれを信じて原稿を書いた。その結果が現役記者の逮捕である。

立松記者の上司もまた、その課長に会って確かめたはずである。社会部のピエロたちは、たと え立松記者を有罪としようとも、懲役に送ろうとも、ニュース・ソースは明かすまいと決心した。本人もそのつもりであったに違いない。

最後の事件記者 p.284-285 それならば検事の名前を明らかに

最後の事件記者 p.284-285 何しろネタモトは、検事という、日本の最高級のランクにある人種で、しかも役所、しかも中央官庁の課長で、過去には立派な仕事ばかりしてきた人である。ナントカ疑獄とかカントカ疑獄とか
最後の事件記者 p.284-285 何しろネタモトは、検事という、日本の最高級のランクにある人種で、しかも役所、しかも中央官庁の課長で、過去には立派な仕事ばかりしてきた人である。ナントカ疑獄とかカントカ疑獄とか

相手は、検事の肩書を持つ課長である。立松はそれを信じて原稿を書いた。その結果が現役記者の逮捕である。

立松記者の上司もまた、その課長に会って確かめたはずである。社会部のピエロたちは、たと

え立松記者を有罪としようとも、懲役に送ろうとも、ニュース・ソースは明かすまいと決心した。本人もそのつもりであったに違いない。社会部のピエロたちの意見は、それが、本当の新聞としての責任と正義とを貫ぬく道だと信じた。

記事は取消すまい、そのため懲役へ行くのも止むを得ない——ヤクザの仁義と似ているッて? そうだとも、ピエロだもの。

何しろネタモトは、検事という、日本の最高級のランクにある人種で、しかも役所、しかも中央官庁の課長で、過去には立派な仕事ばかりしてきた人である。ナントカ疑獄とかカントカ疑獄とか、この人のいうことを信じない記者がいたら、おめにかかりたいものである。

司法記者クラブのキャップとして、その反対側の立場の検事のいう言葉を信用して、立松を出頭させてしまい、ヒッカケ逮捕という最悪の事態を招いてしまった私も、大いに責任を感じていた。もとより、私もネタモトを信じたから、記事を取消すべきではないという意見だった。

だから私は、上司にも相談せず、独断でマルスミ・メモといわれる、済の字を丸でかこった印のついた代議士の名簿を、知合いの代議士たちに見せたのである。かつて国会を担当していたから、知合いは沢山いた。するとそれは委員会へ持出されてしまった。

その結果出てきたものは、最初の掲載記事と同じ場所へ、同じ体裁で、同じ長さの記事を出して、前の記事を訂正するという、前代未聞の出来事であった。私が書いた記事に対しても、同じような要求をうけたことは、一再ならずあった。だが、それらはすべて、一笑のもとにケトばされた。

私は絶対不服であった。それならば、あの検事の名前を明らかにして、その間違った経過を、読者の前に公表すべきである。相手をぶん殴って、すぐ済みませんとだけ謝れば、それで済むはずのものでない。このように間違えたのですから、御立腹でしょうが、お許し下さいと、謝まるのが常識であり、礼儀であり、読者への責任である。

この態度に、卒直で良い、大新聞の襟度である、これからもそうすべきだ、と、オベンチャラをいう評論家や、他の新聞があった。そんなバカなことがあるものか。

一等部長である社会部長は、三等部長のつまらないポストへトバされてしまった。立松記者は、「懲戒休職一週間」という、処分をうけた。私は、その時にはお構いなしであったが、早晩トバさるべき運命なりと、覚悟していた。私が立松記者なら、あの時に退社しただろうが、いずれにせよ、横井事件などがなくとも、辞めるべき客観状勢であったのである。

最後の事件記者 p.294-奥付 あとがき(つづき)~奥付

最後の事件記者 p.294-奥付 昭和33年12月30日発行 著者・三田和夫 発行者・増田義彦 発行所・株式会社実業之日本社 東京都中央区銀座西1の3 印刷・佐藤印刷所
最後の事件記者 p.294-奥付 昭和33年12月30日発行 著者・三田和夫 発行者・増田義彦 発行所・株式会社実業之日本社 東京都中央区銀座西1の3 印刷・佐藤印刷所

もっとも興味をひかれているのは、昭電疑獄以来の、大きな汚職事件の真相を、えぐってみたい、ということだ。政治生命を奪われた政治家や、財界人の立場から、事件をみると、また興味津々だろうと思う。ことに、私が司法記者クラブで、直接タッチした、売春、立松、千葉銀の三大事件で、権力エゴイズムをひきだしてみたいと思う。売春汚職のため落選した元代

議士の一人は、早くも一審で無罪が確定してしまったではないか。立松事件だって、政党、検察、新聞という三つの力が、マンジトモエに入り乱れるところが、何ともいえない面白さだ。

と、こんな工合で、どうやらメシだけは、今のところは食べていられる。それでも、月のうち半分は徹夜して、安い原稿料にも、感謝の念を忘れず、せっせと働らかねば、子供たちを学校へやることもできない。ただもう眠たい時などは、つくづくサラリーマンがうらやましい。御心配を頂いた皆さんに、この場をかりて、厚く御礼申上げる次第である。

同時に、ここまで、私を成長させて下さったのは、読売新聞社をはじめとして、各新聞社の諸先輩方、同僚諸君のおかげであると、深く感謝いたさねばならない。今後ともの、御指導を併せてお願い申上げる。

この本で、今、気になるのは、文中お名前を拝借した方々の、敬称の不統一である。書きあげるそばから、工場へ行ってしまったので、手落ちがあると思

い、お詫び申しあげておかねばならない。

いわば、特ダネを追って十五年、とでもいったような内容なので、文中、大そう口はばったいところもあるが、大体がアクの強い男なので御寬恕を乞いたい。もちろん、私一人が事件記者だなどと思い上っておらず、読売をはじめ、各社にも、優秀で、敵ながら天晴れと、秘かに尊敬している記者が多いことは事実である。記者諸兄、お怒りなきように。

当然、最後の項に、横井事件を入れるべきであったのだが、文春に詳しく書いたので割愛した。なお、文春所載の「事件記者と犯罪の間」は、臼井吉見氏編の「現代教養全集、第五巻、マス・コミの世界」(筑摩書房)に収録されたので、御参考までにお知らせしておく。まだまだ、いろいろな事件についての面白い話があったのだが、時間と紙数の関係で、これも割愛せざるを得なかった。稿を改めて書きたいと思っている。

昭和三十三年十二月十五日

著 者

最後の事件記者
定価220円
昭和33年12月30日発行
著 者 三田和夫
発行者 増田義彦
発行所 株式会社 実業之日本社 東京都中央区銀座西1の3
電話京橋(56)5121~5
振替口座 東京326
© 実業之日本社 1958年 印刷 株式会社 佐藤印刷所