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黒幕・政商たち p.028-029 松本機関と呼ばれるトップ屋

黒幕・政商たち p.028-029 それよりも、私は、堂場記者の話の中で「松本清張氏の助手の大竹宗美氏」と、さらに「東京新聞の香原記者」という、二人の人物が明らかにされたことに、より興味を覚えていた。
黒幕・政商たち p.028-029 それよりも、私は、堂場記者の話の中で「松本清張氏の助手の大竹宗美氏」と、さらに「東京新聞の香原記者」という、二人の人物が明らかにされたことに、より興味を覚えていた。

千葉代議士は、「堂場は三矢事件にも関係したアカだ。そんな奴に、各官庁の機密資料を出したら、それこそ、みんなツツ抜けぢゃないか」と、各役所の事務当局に、自ら電話をかけてきたという。(堂場氏の話)

そして、堂場氏自身の言葉によると、千葉代議士のこのような積極的反対を受ける〝身の覚え〟は全くなく、もし、千葉氏のウラミを受けるとすると、警職法国会の当時、自衛隊を東京に集めて、院外デモに対抗せよと自民党の一部の声があったが、「自衛隊を自民党の私兵視するのは間違っている」旨の記事を書き、その記事の中に、千葉氏らの名前をあげたこと位だという。

堂場記者がアカというのは、もちろん、秘密党員だとかいうことではない。治安当局の「日共秘密党員名簿」にも、その名はない。千葉代議士クラスになると、自民党を批判するものはすべて〝アカ〟という大ざっぱな考え方であろう。

それよりも、私は、堂場記者の話の中で「松本清張氏の助手の大竹宗美氏」と、さらに「東京新聞の香原記者」という、二人の人物が明らかにされたことに、より興味を覚えていた。

治安当局の調べによると、松本氏の助手で、いわゆる〝松本機関〟と呼ばれる何人かのトップ屋がいて、これらが、松本氏のもとで取材執筆に当っていること。その中にはアカハタ日曜版などに執筆している、共産党員もいるということである。

私の調べでは、大竹氏は週刊文春に連載している、松本清張名儀の「昭和史発掘」をも担当している。出張校正(〆切間際には印刷会社にいって校正する)などでは、大竹氏が自由に加筆訂正したり、削除したりしているというので、これは大竹氏の著作ではないかと考えられる。「防衛官僚論」もまた、堂場氏は大竹氏にしかインタビュウされておらず、果して松本氏が筆を取っているかどうか、疑わしいということがいえる。つまり、松本清張という個人の著述ではなく〝松本清張工場〟の製品ということである。

香原記者は、〝陸士五十八期生〟と一般に伝えられ、そのため、自衛隊の制服組に同期生がいて、喰いこんでいるというのであるが、陸士卒ということはあり得ず、また、兵籍名簿にも該当はない。従って〝自称〟もしくは、誤伝である。が、事実、防衛記者としては、取材力のある記者である。

堂場氏の抗議に、香原氏が便乗(?)したという点から考えると、香原氏も、文春の謝礼支払伝票に名前があった人物と推測されるのであるが、同氏の話をきく時間的余裕が得られなかったので、真相は不明である。

一方、千葉代議士の情報参謀には、元東京新聞編集局次長であった、浅野一郎氏がいるのである。浅野氏は東京新聞の社会部に入り、政治部、論説委員を経て編集局次長で退社し、昭和三十八年の衆院選に、茨城から出馬したが落選した人物。千葉代議士の情報参謀は、東京新聞記者時代からだったとみられるが、香原記者の先輩である。

黒幕・政商たち p.030-031 朝雲新聞に内紛があった

黒幕・政商たち p.030-031 この「朝雲新聞」に社長と編集長との間の内紛があった。経営の乱脈といい、情報をもらすという、双方の主張はさておき、この編集長は、「朝雲」を去って、自衛隊の機関紙といわれる「隊友新聞」に投じた。
黒幕・政商たち p.030-031 この「朝雲新聞」に社長と編集長との間の内紛があった。経営の乱脈といい、情報をもらすという、双方の主張はさておき、この編集長は、「朝雲」を去って、自衛隊の機関紙といわれる「隊友新聞」に投じた。

「三矢事件」が意味するもの

ここで、私の推理を述べると、堂場氏と香原氏とは、堂場氏が理論的で内局(内務官僚系)に強いのに対し、香原氏は行動的で制服(部隊系)に喰いこんでいた、共にA級の防衛記者であったということである。いうなれば、〝筆敵〟の間柄というのであろうか。それが共に、「三矢事件」の流出ルートとして、捜査当局の対象になった。そしておたがいが疑心暗鬼にかられ〝堂場はアカだ〟という情報が、香原—浅野—千葉の線に流れたのではあるまいか、ということである。

さらにまた、「安保調査会」の事業内容には、月刊研究誌「国防」の刊行がある。この辺にもまた、問題がひそんでいそうである。この雑誌は、同会によると「発刊以来すでに八年、わが国の防衛問題に関する、唯一の専門誌として、その存在を高く評価されていますが、今後はその編集を安保調査会が行い」とある。

つまり、防衛庁の共済組合の機関紙と見られていた「朝雲新聞」というのがあるが「国防」は同紙で編集し刊行していた。この「朝雲新聞」に社長と編集長との間の内紛があった。経営の乱脈といい、情報をもらすという、双方の主張はさておき、この編集長は、「朝雲」を去って、自衛隊の機関紙といわれる「隊友新聞」に投じた。「隊友新聞」は、制服の佐官が編集にタッチするほどのものであるから、発行部数も「朝雲」より多く、これこそ〝隊員の機関紙〟という。「朝雲」と「隊友」とは、その経営スタッフ、発生ともに、対照的であるだけに、対抗意識もあることは、十分察せられる。

堂場氏の意見は、「隊友」の紙面に対して、過激であるとして批判的である。そして、安保調査会の研究スタッフの一人に、堂場氏と並んで、「朝雲新聞」発行の下士官向け月刊誌「朝雲」の大倉編集長も加わっているのだから、「朝雲新聞」の社長対編集長の争いとからんで、やはり対立意識は抜けそうもない。その「朝雲新聞」が、経営難から(隊友新聞側の話)、月刊誌「国防」を刊行できなくなり、安保調査会へゆずったのだという。

このような、幾つもの事件と、トラブルとの経過の積み重ねとのあとで、そして、このような人と人とのつながりの上で、「安全保障調査会」はスタートした。ニュー・オータニのパーティ会場には、適量のアルコールが人々の談笑を誘って和やかではあった。

どんなメンバーが集まったか、また、どうして十一名の発起人が集まったか、財界の一流人が六名も名を列ねたか、の詳しい〝内幕〟には、ここで触れる必要はあるまい。

ただ各治安当局は、自衛隊の中央調査隊も含めて、ジッとこの「調査会」をみつめている。もちろん、筆者もかつて同僚だった堂場氏が、秘密党員であるとか、〝アカ〟だという意見には反対であるし、否定もする。