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新宿慕情 p.042-043 往年の名画は武蔵野館と昭和館で

新宿慕情 p.042-043 府立五中の制服が背広姿だったこともあって、いっぱしのオトナを気取って新宿の街を歩いていた。
新宿慕情 p.042-043 府立五中の制服が背広姿だったこともあって、いっぱしのオトナを気取って新宿の街を歩いていた。

ついでながら、昭和二十年代には、〝サカサ・クラゲ〟であり、〝連れこみ〟であったのが、三十年代には〝アベック・ホテル〟となり、四十年代には〝ラブ・ホテル〟と変わった。
かつては、女性が、男性に連れこまれ(拒否的フンイキがある)た旅館だったのが、ついでアベ

ック(ためらいの感じ)となり、いまでは、享楽的な語感を持つラブになった——女権の伸長というべきだろうか。

そのコマ劇場ウラのネオン街。五階建てのビルに、コンチネンタルというクラブがある。いやあった、というべきだ。

風林会館から、明治通り寄りにあるマキシムが、多分、〝元祖〟なのだろうが、ホステスによるショー・チームがあった。学芸会さながらの稚拙さと、踊りが終わると、客のもとに帰ってきて、ホステスになるというシステムとが受けたらしい。

この分派が、ムッシュ・ボンドという店に移って、ここでもホステスの四人チームが、客席の間でカンカンを踊る、といった趣向が受けていた。

もちろん、トップレスだ。でも、ストリップ・ティーズではない。

ところが、さきのコンチネンタルでは、プロの踊り子チーム五人が、意欲的なショーをやっていた。若い、演出家兼振付師が、半月変わりで大胆な試みをやる。〝大胆な〟といっても、〝際どい〟という意味と間違えてもらっては困る。

私は、このチームのファンになった。そのなかの、まだ、二十歳そこそこの踊り子のムチに、夢中であった。

ムチのソロ場面になると、席から立ち上がって、拍手のしつづけなのだ。カケ声をかける。

同行の友人たちは、苦笑して私のことを〈若い〉という。

だが、これは〈若い〉のではなくて、〈老い〉が忍びよってきていることだ、と、私は心秘かに、自問自答している……。

武蔵野館は三階席

そう、想い起こせば、と、書くあたりにも、それが、うかがえるではないか——昭和十四、五年ごろのこと。私はまだ、中学生だったが、府立五中の制服が、当時では珍しい背広姿だったこともあって、いっぱしのオトナを気取って、新宿の街を歩いていた。

新宿駅の中央口通り。洋画の封切館の武蔵野館が、〝知性派の町〟のシンボルのひとつでもあった。

安い三階席からは、スクリーンは、はるかの谷底にあったが、クローデッド・コルベール主演の『ある夜の出来事』の、スカートまくって、ガーターをズリ上げて、車を停めるシーンに眼をコラしていたのも、ついさきごろのことのような気がするのだ。

マリー・ベルの『舞踏会の手帖』、コリンヌ・リュシェールの『格子なき牢獄』といった、往年の名画の数々は、みな、武蔵野館の三階席の思い出とともに、まだ私の心の中に生きている。

そして、三階席での感激を、もう一度味わうためには、セカンド・ランの昭和館があった。ここは、堂々と一階席で見ることができた。その武蔵野館も、いまは、ビルに変わり、昔日のおもかげはない。それでも、名前だけが残されているのは、うれしいことだ。

新宿慕情 p.046-047 八等身の美女がズラリと居並び

新宿慕情 p.046-047 美人喫茶のハシリは日比谷交差点の「美松」。戦後は、銀座のプリンスが先か新宿のエルザが先なのか。
新宿慕情 p.046-047 美人喫茶のハシリは日比谷交差点の「美松」。戦後は、銀座のプリンスが先か新宿のエルザが先なのか。

しかし、私は、少年の日に、戦前だから、唇を合わせることはもとより、手ひとつ握ることさえなく、ただただ〈我が胸の底の、ここには……〉と、思慕のみを抱いて、死を意味していた

〝醜の御盾〟として出て征って、帰ったのだが、ひとりは劇作家夫人、もうひとりは演出家夫人に納まった、と知って、我が《女性鑑識眼》の確かさに、ひとり悦に入ったものである。

……サテ、本題のムチに戻らなければならない。

こんなふうに、かつての演劇青年だけに、コンチネンタル・ショーの、〝文化度〟を判断する能力はあったのである。

それだからこそ、このクラブの経営者に、もっと客の入りを考えるように忠告し、演出家兼振付師の水口クンには、然るべく、アドバイスをしたりしていたのだが、やがて、クラブは経営不振でクローズし、ムチのチームも、新宿から去っていってしまった。

だれか、私のムチを知らないか……と、私は、〈郷愁〉の幻影を追い求めて、また、夜の新宿を、ハシゴする——。

要町通りかいわい

美人喫茶は戦前に

古き良き時代——というのは必ずしも〈戦前〉だけ、とは限らない。

〈戦後〉の新宿にだって、〝古く良き〟店が多かった。その代表的なものに、「美人喫茶」がある。

美人喫茶、というのは、そのハシリは、日比谷交差点にある朝日生命館の一階に、「美松」という店があった。

エ? と、反問しないでもらいたい。戦前のことなのだ。

あの一階の、広いフロアいっぱいに、八等身の美女がズラリと居並び、中二階のレコード係がこれまた、美女中の美女。

スケート場といえば、芝浦と溜池の山王ホテルだけ。ダンスホールは新橋のフロリダ、喫茶店は美松、といった時代だ。文字通り、〝きょうは帝劇、あすは三越〟しか、社交場がなかったころなのだ。

この「美人喫茶」思想は、だんだん食糧事情が良くなって、量よりも質の時代になってきた、多分、昭和二十七年の日本の独立以後、芽生えてきたと思う。

果たして、銀座のプリンスが先なのか、新宿のエルザが先なのか。あるいは、新宿でも、エルザよりも早い店が、あったのかも知れない。そのへんの正確さは欠けるけれども、新宿の美人喫茶といえば、私にとってはエルザ——私のエルザ、なのである。

エルザという喫茶店は、寄席の末広亭前の通りを、靖国通りのほうへ行った右角。いま、老朽化した二階建てを、これまたビルに改築中である。キット、あの木造のギシギシいった風情が、

まったく、なくなってしまうだろう。