戦前は佐々木家をはじめ実家も経済的に恵まれておりましたが、青山の家を戦災で失ってからは生活も苦しく、佐々木は佃煮屋の下働き、印刷の外交などいろいろな仕事をいたし、私も父が国際連盟代表としての、二年間のパリ生活中に買い与えられました毛皮、宝石類をはじめ、家財道具を売払って口すぎしました。
幸い実家が大きいので三世帯に間貸しておりましたが、終いには私共一家も実家へ転がりこみ、家中で佃煮屋へ納めるキンピラごぼうを刻んだほどでした。終戦後ソ連の軍人が数回佐々木を訪ねてきましたが、いつも留守と称して会いませんでした。二十五年八月のことでしたが、唯一の趣味だった釣にでかけ一家中で夜食を待っておりました。(中略)
その夜一家中が不安のうちに明かしますと翌朝八時すぎ、佐々木は顔中を紫色にはらし醜く歪んだ顔で帰ってきました。恐ろしいほど殴られたようでした。佐々木は『密貿易のバイヤーと間違われたがすぐ分って帰された』といい、それ以上語ろうとしません。往復は目かくしされたので何処まで行ったのかも分らないとの事でした。早速中野署からMPへ届けられ、MPがジープにのせて連れさられた家をさがしたのですが、とうとう分らずそのまま一週間ほどは床についてしまいました。
この事件以来すっかり神経衰弱になり、まだ夏だというのに日が暮れかかると雨戸を閉じしきりに恐がっていました。当時は私共がハレモノにさわるように気をつけていましたが、十一月十八日の夜、いつもに似ず子供達を誘って麻雀をして寝ました。翌朝あけ方枕元に遺書を残し、音のしないように新品の草履で庭の物置に行き、使用した懐中電燈まで消すという周到な用意で縊死しておりました。
麻雀も妻子への別れだったのでした。生活は苦しくとも家庭は円満でしたし、八月の事件以外、自殺の原因として思い当ることはありませんでした。外国人のために平和な家庭に加えられたこの暗いかげ、そのため佐々木は死をえらんだのでした。
子供たちの教育のため死因は脳溢血と発表いたしましたが、このように苦しみ悩んで死んでいった故人のことを想いますとき、何も彼も申し上げるべきだと存じました。スパイでしたらもう少し生活も楽だったでしょうに、また日常の生活にかげもありましたでしょうに、妻も子も、夫として、父としての佐々木を敬愛いたし潔白を信じております。
一体、彼を浚った怪外人たちは何者なのだろうか? この怪自動車は何処のものなのだろうか? 戦後、東西二つの世界に分れた人類の悲劇は、ブブブブゥという力強い爆音をたてる、この〝迎えにきたジープ〟によってその幕を開くのである。
迎えにきたジープ! これこそ、その人間の不幸な将来を暗示する言葉であり、悪魔の使者である。そしてまた、その〝迎えにきたジープ〟の爆音の恐怖を知っているのは、日本人を除いてはドイツ人だけであろう。
ジープが迎えにきた! ということは、米ソの秘密戦の宣戦布告のラッパである。