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迎えにきたジープ p.012-013 ジープが迎えにきた!

迎えにきたジープ p.012-013 The next morning, he left his will at the bedside, went to the garden shed with new sandals so as not to make any noise, and was hanging himself with careful preparation to turn off the used flashlight.
迎えにきたジープ p.012-013 The next morning, he left his will at the bedside, went to the garden shed with new sandals so as not to make any noise, and was hanging himself with careful preparation to turn off the used flashlight.

戦前は佐々木家をはじめ実家も経済的に恵まれておりましたが、青山の家を戦災で失ってからは生活も苦しく、佐々木は佃煮屋の下働き、印刷の外交などいろいろな仕事をいたし、私も父が国際連盟代表としての、二年間のパリ生活中に買い与えられました毛皮、宝石類をはじめ、家財道具を売払って口すぎしました。

幸い実家が大きいので三世帯に間貸しておりましたが、終いには私共一家も実家へ転がりこみ、家中で佃煮屋へ納めるキンピラごぼうを刻んだほどでした。終戦後ソ連の軍人が数回佐々木を訪ねてきましたが、いつも留守と称して会いませんでした。二十五年八月のことでしたが、唯一の趣味だった釣にでかけ一家中で夜食を待っておりました。(中略)

その夜一家中が不安のうちに明かしますと翌朝八時すぎ、佐々木は顔中を紫色にはらし醜く歪んだ顔で帰ってきました。恐ろしいほど殴られたようでした。佐々木は『密貿易のバイヤーと間違われたがすぐ分って帰された』といい、それ以上語ろうとしません。往復は目かくしされたので何処まで行ったのかも分らないとの事でした。早速中野署からMPへ届けられ、MPがジープにのせて連れさられた家をさがしたのですが、とうとう分らずそのまま一週間ほどは床についてしまいました。

 この事件以来すっかり神経衰弱になり、まだ夏だというのに日が暮れかかると雨戸を閉じしきりに恐がっていました。当時は私共がハレモノにさわるように気をつけていましたが、十一月十八日の夜、いつもに似ず子供達を誘って麻雀をして寝ました。翌朝あけ方枕元に遺書を残し、音のしないように新品の草履で庭の物置に行き、使用した懐中電燈まで消すという周到な用意で縊死しておりました。

麻雀も妻子への別れだったのでした。生活は苦しくとも家庭は円満でしたし、八月の事件以外、自殺の原因として思い当ることはありませんでした。外国人のために平和な家庭に加えられたこの暗いかげ、そのため佐々木は死をえらんだのでした。

子供たちの教育のため死因は脳溢血と発表いたしましたが、このように苦しみ悩んで死んでいった故人のことを想いますとき、何も彼も申し上げるべきだと存じました。スパイでしたらもう少し生活も楽だったでしょうに、また日常の生活にかげもありましたでしょうに、妻も子も、夫として、父としての佐々木を敬愛いたし潔白を信じております。

一体、彼を浚った怪外人たちは何者なのだろうか? この怪自動車は何処のものなのだろうか? 戦後、東西二つの世界に分れた人類の悲劇は、ブブブブゥという力強い爆音をたてる、この〝迎えにきたジープ〟によってその幕を開くのである。

迎えにきたジープ! これこそ、その人間の不幸な将来を暗示する言葉であり、悪魔の使者である。そしてまた、その〝迎えにきたジープ〟の爆音の恐怖を知っているのは、日本人を除いてはドイツ人だけであろう。

ジープが迎えにきた! ということは、米ソの秘密戦の宣戦布告のラッパである。

迎えにきたジープ p.170-171 「鹿地亘氏失踪事件の真相」

迎えにきたジープ p.170-171 On November 25, 1951, around 7 pm Wataru Kaji went out in light clothing. But he never came back. One month later, a letter written by Kaji arrived.
迎えにきたジープ p.170-171 On November 25, 1951, around 7 pm Wataru Kaji went out in light clothing. But he never came back. One month later, a letter written by Kaji arrived.

真相を知っているのは、米ソ両国だけである。幻兵団というナゾの話題は、どうして恐しい話題になったのだろうか。ここで再び序章にのべた〝国際スパイ戦の道具にされた日本人〟

佐々木大尉とキスレンコ中佐との間の、奇しき因縁の物語を想い起してみよう。

義父谷元中将の助命嘆願のため、ソ連人にコネをつけられた佐々木元大佐が、ついにシベリヤ帰りのスパイ三橋正雄氏のレポになる。表面平和な毎日が続いていたが、ある夜、佐々木氏は数人の外国人ギャングに襲われ、怪自動車で拉致されてしまう。顔面を醜くはらして翌朝帰宅した佐々木氏は、うつうつとしてたのしまず、ついに自殺してしまった。

この謎を解く事件が、ゆくりなくも二十六年十一月の二十五日、湘南は鵠沼海岸で再現され、一年後の二十七年十二月八日、「鹿地亘氏失踪事件の真相」として明るみに出て、天下のド肝を抜いたのであった。

その日(二十六年十一月二十五日)の午後七時頃、国立清瀬病院から退院後の体を、鵠沼の石田鈴雄氏方に転地療養していた鹿地亘氏は、セーターにズボンにハンチング、スプリングを抱えた軽いいでたちで、いつものようにぶらりと玄関を出て行った。付添看護婦の山崎君子さんは、『また御散歩かしら』とさして気にも止めなかった。が、鹿地氏は、それっきり帰って来なかったのである。

何の消息もないままに、一ヶ月が流れた十二月末のある日、石田方のポストに夫人宛の鹿地氏自筆の書簡が投げ込まれていた。

突然行方不明になって、あなた方に大変御心配をかけ、申訳ありませんでした。実は先月二十五日の夕食後の散歩の途中、自動車にはねられ、その車の持主の所に運んでいかれて、治療を受けていたのです。

事故を起して判ったことは、この人物が重慶で顔見知りの中国人だったことでした。彼は密入国して日本に来たのだそうで、そんな事情のため、目下私の住所もこの人の名前もお知らせすることができません。

私の負傷は然し大したことはありません。足をくじいたのはどうやら癒りました。ただここに来た夜、暗がりで水を飲もうとしてクレゾールを飲み、口腔とのどを焼き、全くへまをやってその手当を受けています。

幸い安静にしていたので、病状は次第に落ち着く模様です。まもなく動けるようになりますから、そしたら帰ります。何事も心配しないで待って下さい。君子さん(看護婦)にもそういって慰めて下さい。

歳末あわただしさの中で、あなた方も子供たちも、交通事故など起さないように注意して下さい。よいお正月を迎えて下さい。

十二月二十七日

鹿 地  亘

池 田 幸 子 様