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最後の事件記者 p.452-453 不良外人のバッコを叩いた「東京租界」

最後の事件記者 p.452-453 「毛唐相手の記事だ。奴らはすぐ裁判に持ちこむだろう。名誉棄損の告訴状が何十本と出ようとも、ケツは部長のオレが拭く。お前たち取材記者は、告訴に負けないだけの事実をつかめ」
最後の事件記者 p.452-453 「毛唐相手の記事だ。奴らはすぐ裁判に持ちこむだろう。名誉棄損の告訴状が何十本と出ようとも、ケツは部長のオレが拭く。お前たち取材記者は、告訴に負けないだけの事実をつかめ」

当時の社会部長で、報知新聞社長時代に逝去された竹内四郎氏。昭和二十三年に、「日銀現送箱」事件というのをスクープした。日銀の新潟支店から、古紙幣回収のための現送箱に、米を詰めて本店に送った事件だ。私だけが事件を知って、取材している時に、日銀の輸送課長という人物に〝誘惑〟された。そのことを、冗談まじりに報告した時だった。

「いいか。新聞記者というのは、書くんだ。酒を呑まされ金を握らされても、書けばいいんだ。だが、金は受け取るナ。ハンパ銭だと、相手は、余計にしゃべり易い。それが、広まって記者生命を傷つける。もし、金を取るなら、記者をやめても悔いないだけの大金をフンだくれ。記者である限り、金を取ってはいけない。そして、知った事実は、どんなことがあっても書くんだ!」

もうひとり、竹内氏の次の社会部長の原四郎氏だ。昭和二十七年秋、独立後の日本での、不良外人のバッコぶりを叩いた、「東京租界」取材の時だった。この、わずか十回の連載ものが、原部長の企画、辻本次長のデスク、私と、牧野拓司記者(のちの社会部長。米留学帰りで、主として通訳を担当)が取材、というスタッフだった。読売社会部は、この「東京租界」で、第一回菊池寛賞(新聞部門)受賞の栄誉を担ったものだ。

「毛唐相手の記事だ。奴らはすぐ裁判に持ちこむだろう。名誉棄損の告訴状が、何十本と出ようとも、ケツは部長のオレが拭く。お前たち取材記者は、的確に事実だけを固めろ。告訴に負けないだけの事実をつかめ。原稿は事実だけだ、と、オレは信じてるゾ」

そしてもうひとり。記者としてよりは、曲がりなりにも、社長であってみれば、人を使う立場である私に、〈人の使い方〉を教えて下さったのが、読売の務台社長だ。

安藤組事件に連座して、警視庁は私を逮捕して調べる意向を明らかにした。私は、一日の猶予を申し入れ、明日正午に出頭することを約した。その日の午前中、持ちまわり役員会で、私の辞表は受理された。前日、電話で事件を報告した時、「キミ、金は受け取っていないンだろうナ!」

と、第一声を発した編集局長は、席に見えなかった。

重役に挨拶まわりして、務台総務局長のところに伺った。開口一番、「ウン、事件のことは聞いたよ。ナニ、新聞記者としての向こう疵だよ。早く全部済ませて、また、社に戻ってこいよ」……温情があふれていた。私の〝常識〟でも、復社できるとは思えないのだが、直接の上司の編集局長(故人)とは、人間的に格段の差があった。

そして、この時の言葉が、その場限りの、口から出まかせではないことが数年後に判明する。バッタリ出会った深見広告局長が、「三田、どうしているンだ? この間、築地の宴席が終わって、務台副社長と同じ車に乗ったら、フト、『三田は、消息を聞かないがどうしている?」と、いわれたゾ…」と、いつまでも、気にかけておられることを教えて下さった。私は感激した。爾来、私は〝務台教の信者〟社外第一号を自任している。

私の、「社会正義への目覚め」の素地は、府立五中時代の、五年間の恩師である吉木利光先生だ。(正論新聞第二六七号=50・4・30付=「教育とはなにか」所載)

そして、新聞記者という仕事への、直接の示唆は、日大芸術科時代の三浦逸雄教授であった。そしてまた、私の「新聞記者開眼」を裏打ちして下さったのは、母の従兄でもある小野清一郎先生であった。先生は、私の事件の弁護人を引き受けて下さったが、その時にこういわれた。

「文芸春秋の記事を読みましたよ。あのなかに、『オレも果たしてあのような記事を書いたのだろうか」という、反省のクダリがありましたネ。あの一行で、あの文章が全部、生きているので

す」——このように、私は、良き師、良き先輩、そして、ここに名を挙げるいとまもない多くの友だちたちに、恵まれて、今日があるのだ、と思う。

赤い広場ー霞ヶ関 p.200-201 この女は逃さないぞ!

赤い広場ー霞ヶ関 p.200-201 An elegant woman about 27 or 8 years old visited me at the Metropolitan Police Department's kisha club. She wants me to provide information about an American.
赤い広場ー霞ヶ関 p.200-201 An elegant woman about 27 or 8 years old visited me at the Metropolitan Police Department’s kisha club. She wants me to provide information about an American.

この女性は、読売本社に電話して、それならば警視庁クラブの三田記者に聞けと教えられ、今、こうして私

を呼び出したのであった。

落着いた、慎しみ深いその話振りから、年配は二十七、八才と察しられた。そして、極めて礼儀正しい口調なのであるが、電話を切り終ってから気付いたことは、彼女は電話の礼儀である自分の名を名乗っていないということであった。

Q氏という(まだしばらくの間、仮名で呼んでおこう)米国人のことを、もっと詳細に知りたいという話なので『電話ではナンですから、クラブに訪ねていらっしゃい』といって、その電話を終った。

約一時間後、私はせまくるしいクラブの応接室で、彼女と相対していた。

『初めまして……。先ほどお伺いいたしましたこと、如何でございましょう』

私のカンはたがわず、ほっそりとした、二十七、八才の女性だった。慎重な、落着いた口の利きかた、礼儀正しい動作、いかにも教養のありそうな、理智美があふれていた。

化粧、服装、所持品、素早く一べつをくれた私は『初めまして……』の次に、自ら姓名を名乗らない彼女が、如何なる女性であろうかと、考えていた。

『わざわざお出を頂いて、私、三田です』

私は、反応をみるため、逆に改めて名乗った。彼女はモジモジとした。

『私、名前も申上げませんで……。甚だ勝手ですが、チョット事情がございまして……』

偽名を準備してこない点が気に入った。

——これは意外に面白くなりそうだ!

私は快活に笑った。

『イエ、構いません。その中、御都合が良ければ伺いましょう。で、Q氏のことですが、あれからすぐ社の資料部へ問合せまして、Q氏に関する新聞記事の切抜きを、集めておいてもらうよう、頼んでおきました。もうおっつけ返事が来るでしょうから、しばらくお待ち下さい』

——この女は逃さないぞ!

私はそう考えながら、彼女の正体をカギだす雑談をするため、時間を稼ごうと思って、ウソをついたのだった。

雑談の合間に私の質問が自然に織りこまれていた。こうして、約三、四十分。大丈夫もう一度逢ってくれるという、自信を得た私は『チョット、失礼』と席を外して、電話をかける振りをして、再びもどってくる。

『資料部に聞いてみましたら、その切抜きが倉庫に入ってるそうで、明日まで待ってくれとのことですが、宜しいですか?』