彼は、各社の記者に抱きつき、「オレ、オ前が好きなンだア」と、ホオをペロペロなめる。素面の泊り番は、カオをしかめて逃げまどう。やがて、放声高吟のあげく、彼はズボンのチャック
を下げて、クラブ中に〝放水〟を開始する。
そんなある時、数人がかりで彼を押えつけて、ホースの先端にインクを塗りつけたことがあった(注。記者のデスクには、原稿の加筆訂正用に、青、赤のインク壷と筆が備えられている)。数日後、彼は蒼白な顔色で、私に相談してきた。
「オイ。大丈夫だろうか。先の方からボロボロと、皮が剥げ落ちてくるンだ。……まさか、インクで崩れやしまいナ?」
立松記者の、あれほど真剣で、思いつめた表情は、仕事の時でも見られなかったほどである。——こんな想い出も、すでに幽明境を異にして、四十歳の若さで逝った立松記者を偲ぶよすがの一つである。
付記すれば、克城、良城の遺児両君は、靖子夫人の薫育のもとに、健やかに成長して早くも大学生になっている。
このように、立松記者に対して、読売記者はもちろんのこと、他社の記者諸君も、極めて〝寛容〟であった。
それは何故か?
新聞記者に対する評価は、すべて「紙面」で決ったからである。「紙面」とは、仕事の実績であり、才能の舞台であった。彼の昭電事件における、輝やかしい経歴と、現実のスクープ。極め
て的確、かつ大胆な予告記事、見通し記事と、その記事通りの事件の展開とが、立松記者に対して、人々を寛容にさせ、また、畏敬せしめたのだ。
だが、彼の仕事が、検察庁筋のみに限られていたことが、私の指摘する、〝変則取材〟ということであり、かつ、後年の悲劇の芽を胚胎させていたのであった。
昭和二十四年以来、あしかけ七年間も社会部長の職にあって、〝名社会部長〟の名をほしいままにした原四郎が、昭和三十年春に、編集総務に栄転し、後任に、原のサツ廻り仲間といわれる、景山が社会部長となった。
そして、私は、丸三年にも及んだ警視庁記者クラブを卒業させて頂いて、通産、農林両省クラブ詰(兼務)となった。だが、このクラブ勤務は、ほぼ一年で外される。
理由は特落ちである。多久島という農林省の役人が、何千万円という公金を使いこんで、当局に告発されるのである。その日の夕方五時ごろ、安田農林経済局長が、農政記者クラブに現れて、「只今告発いたして参りました」と発表した。
農政クラブへは、読売は、政治、経済、社会、地方の各部から記者が派遣されており、ニュースの種類によって、各部ごとに分担する。この時、地方部の記者が発表を聞いて、私を探したが見当らないので、直接社会部のデスクに、「こういう発表がありました」と、連絡した。
私は、その日、その時、ずっと通産省の虎の門記者クラブに在室していた。残念ながら、仕事
ではなかった。通産省のクラブには、経済部を主力に、やはり、政治、社会部から記者が詰めている。私は他社の社会部記者たちと、マージャンをしていたのである。