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正力松太郎の死の後にくるもの p.158-159 〝黒い霧〟スターたちの群れ

正力松太郎の死の後にくるもの p.158-159 そもそも、村山夫人と河野一郎との出会いは? と探してみると、同書一九八頁だ。大阪における新アサヒ・ビルの建設問題をめぐって、当時の経済企画庁長官だった「河野一郎との意気投合が始まる」とある。
正力松太郎の死の後にくるもの p.158-159 そもそも、村山夫人と河野一郎との出会いは? と探してみると、同書一九八頁だ。大阪における新アサヒ・ビルの建設問題をめぐって、当時の経済企画庁長官だった「河野一郎との意気投合が始まる」とある。

めまぐるしい転売といえば、すぐ思い浮ぶのは、大阪の光明池事件である。これまた、田中角栄代議士の日本電建が、東洋棉花との間でキャッチ・ボール式の転売、とどのつまり、四倍の高値で住宅公団が買いこんだという例である。これはもう一つ、広布産業事件というのがからんできて、東京相互銀行から一億円をダマシとった佐々木環(注。のちほど、板橋署六人の刑事が登場する)、吹原事件の大橋富重、さらには、児玉誉士夫までが登場する、いうなれば、『カゲの政界』オールスター・キャストの事件であった。

さて、とう本の重役陣をみてみると、まずトップに村山藤子氏。いうまでもなく、朝日新聞の由緒ある社主夫人である。続いて、河合良成、岡部三郎の両代表取締役が並ぶのだから、村山夫人は「会長」であろうか。

それから、キラ星の如くつらなる重役陣をトクと眺めて頂きたい。丹沢善利、同利晃父子、福島敏行(もちろん日通である)、小佐野賢治、永田雅一、川崎千春(京成)、江戸英雄(アア、名門〝三井不動産〟)、河田重(日本鋼管)、佐野友二(不二サッシ)、清水富雄、功刀 和夫といったところである。菊池寛実、土屋久男は、死亡で消されている。

社名でハハン、この重役陣でハハーン、うなずかれる方が多いに違いない。だが、村山家の当主夫人が、たとえ、有名な事業家とは申しながら、アサヒ・ビルやフェスティバル・ホール、病院などの経営ならともかく、関西から千葉くんだりの田舎まで出張って、〝黒い霧〟スターたち

の群れに投じられようとは!

このナゾトキを求めて、取材してみると、ヒントがみつかった。「朝日新聞外史」(細川隆元)一九四頁である。昭和二十八年の八月、永田大映社長と村山夫人が、事業のことで会談した際、「常務の永井大三が、近ごろ事ごとに社長にタテついて困る」という話が出た。かの有名な「朝日騒動」のプロローグである。永田社長は、朝日出身の河野建設相に相談して永井常務を朝日から追い出すのなら、公団副総裁あたりのポストを用意して、引退の花道をつくってやるべきだという。そして、同書二〇〇頁には、村山夫妻と、河野、永田の四者会談が開かれるクダリがある。

そもそも、村山夫人と河野一郎との出会いは? と探してみると、同書一九八頁だ。大阪における新アサヒ・ビルの建設問題をめぐって、当時の経済企画庁長官だった「河野一郎との意気投合が始まる」とある。

京葉土地開発の発足は、昭和三十八年八月である。〝河野学校〟の優等生たちに、会長にとカツがれたのは、この「河野との意気投合」だけのエンではない。このグループの中の、巨頭に「朝日新聞に巣喰うアカたちの追出しをお手伝いしましょう」と、まンまと言い寄られたのだといわれる。

だが、この会社は、総額五百億ほどの事業計画だけは樹っているのだが、船橋付近の漁業補償がまとまらず、まだ何も仕事をはじめていなかった。事務所も、河合社長の小松製作所ビルに移

って、時到らばと、村山夫人の利用を待っている。

正力松太郎の死の後にくるもの p.168-169 「朝日文化人」(酒井寅吉)の推せん文

正力松太郎の死の後にくるもの p.168-169 いまだに朝日新聞客員という待遇を得ている、自民党代議士橋本登美三郎ともなれば、「今日、朝日を憂えることは、日本を憂えることに通じる。その意味で、この本はまさに憂国の書」と、エキサイトしてくるのも当然であろう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.168-169 いまだに朝日新聞客員という待遇を得ている、自民党代議士橋本登美三郎ともなれば、「今日、朝日を憂えることは、日本を憂えることに通じる。その意味で、この本はまさに憂国の書」と、エキサイトしてくるのも当然であろう。

昭和三十五年以降の銀行資料によると、朝日の株主持株比率は、村山、上野両家で六割を占め、その間、全く変動がないのである。ところが、読売では、大株主の正力厚生会や、正力松太郎個人の、持株比率が毎年のように動いているのである。これは、読売社内に反正力派がいないことを物語る。正力一族の経営参加で、如何様にも持株を操作できるのだ。朝日では、「反村山派」

がいるので、そのようなサジ加減ができない。だから、村山家四名、上野家二名の持株は、微動だにしない。

こうして、全社員九千四百三十三名(昭和四十二年十一月名簿)に及ぶ、大集団の人間関係は、極めて複雑なものとなってくるのである。何故、複雑怪奇になってくるかといえば、東京閥、大阪閥(これは毎日とて同じである。西から東にきた新聞の持つ宿命である。発祥の地と、政治経済の中心との対立である)、それに加えて、硬派新聞(政経中心)の、硬派、軟派閥の対立があり、さらに加えて、反村山派という〝民族問題〟があるのだった。

単一民族の単一国家である日本には、米国のような民族問題の悩みがない。読売がそれである。正力一本である。毎日は、東西の対立こそあれ、朝日のように、反村山という、根源的な対立拮抗の要因がないので、権力の推移が明快単純で、暗さがない。

かつて、読売が立正佼成会に対して、糾弾のキャンペーンを、展開したことがあった。昭和三十一年のことである。このキャンペーンは、見るべき成果をあげることなく、長沼妙佼教祖の過去が、宿場町の娼婦であったということで、お茶を濁して転進せざるを得なかったのである。

この時の教訓は、宗教団体というのは、外部からの圧力には、内部問題はタナあげにして団結し、徹底して組織自体を守るということであった。歴史にまつまでもなく、宗教団体は、内部崩壊以外では倒れない。つまり、読売のキャンペーンが、偶発的にスタートしたもので、十分な内

偵と準備とをしていなかったから、内部に腐敗がありながら、いわば佼成会に〝団結の勝利〟を謳わせる結果となったのであった。

朝日の強さもここにある。長い社の歴史の間に培われた、「大朝日」意識は、もはや信仰に近い形で、全朝日新聞社員の中に、根を下ろし切っているのである。伝統である。

それだから、いまだに朝日新聞客員という待遇を得ている、自民党代議士橋本登美三郎ともなれば、「朝日文化人」(酒井寅吉)という本の推せん文を書くに当って、「今日、朝日を憂えることは、日本を憂えることに通じる。その意味で、この本はまさに憂国の書」と、エキサイトしてくるのも当然であろう。

一体、この信仰に近い形にまで高められ、定着した「大朝日」意識とは何であろうか。やはり、昨日、今日の成り上りとは違った、伝統と実績の然らしむるところであろう。細川隆元(注。大正十二年入社、政治部長、ニューヨーク支局長を経て、終戦時の東京編集局長、昭和二十二年、編集局参与で立候補のため退社。現社友)によれば、大正十二年四月入社組が、日本の新聞の最初の試験入社組で、約二百五十人の受験者から十五人が採用されたという。そして、こののち試験入社組は、「練習生」と呼ばれて、朝日の人脈の中心となるのだ。「月給は普通採用の者より十円も多く(注。七十五円)、社内でもあまりコキ使ってはならぬといわれている。君たちが朝日の幹部になるんだからネといわれた」という。(「朝日新聞外史」)