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最後の事件記者 p.196-197 私の名演技〝番頭〟が酒の肴に

最後の事件記者 p.196-197 パラリとほどけた結び目から、キチッと帯封された十万円の札束が六つ。つづいて、バッグの底から、ズシリと出てきたのが、大型の十四年式拳銃。今度は記者や女中たちの息をのむ番だった。
最後の事件記者 p.196-197 パラリとほどけた結び目から、キチッと帯封された十万円の札束が六つ。つづいて、バッグの底から、ズシリと出てきたのが、大型の十四年式拳銃。今度は記者や女中たちの息をのむ番だった。

女中が廊下から呼ぶ、刑事がきた!

『アノ、誠に恐れ入りますが、別のお部屋で、お客様にチョット間違いがございましたので、警

察の方が……』

サツと聞いて、ガバとはね起きた小島は、床の間へ手をのばしたが、もう、その時には二人の刑事がズイと入ってきていた。

職務質問だ。バックの中味が取出される。白いハンケチ包みが出る。

「アア、カメラね』

これがお芝居とは気づかぬ女たちは、社長令息を信じきって、かえってハシャギながら叫んだ。

パラリとほどけた結び目から、キチッと帯封された十万円の札束が六つ。女たちもさすがにハッと息をのむ。男二人は、机にうつ伏して、肩で息をしている。もはや、立派に覚悟の態だった。

つづいて、バッグの底から、ズシリと出てきたのが、大型の十四年式拳銃。今度は記者や女中たちの息をのむ番だった。

その夜も、そして、その次の夜も、ことに「ハンニンタイホニ、ゴキョウリョクヲシャス」という、仙台北署長からのウナ電のきた次の夜などは、社の付近の呑み屋で、私の名演技〝番頭〟が酒の肴になっていた。私は、警察の捜査の〝協力者〟であった。

「東京租界」

新聞記者入るべからず

二十七年四月二十八日、日本は独立した。この年の二月の末から、社会部では、辻本次長が担当して、「生きかえる参謀本部」という続きものをはじめ、私もその取材記者として参加した。これは、講和を目前に迎えて、日本の再軍備問題を批判した企画であった。

この早春のある朝、私は辻政信元大佐を訪れた。仮寓へいってみると、入口には、「警察官と新聞記者、入るべからず」と、墨書した木札が出ている。これにはハタと困って、しばらくその門前で考えこんでしまった。

だが、そのまま引返すほどなら、記者はつとまらない。私は門をあけ、玄関に立った。日本風の玄関はあけ放たれて、キレイに掃除してある。「御免下さい」と案内を乞うと、すぐ次の間で 声がした。

最後の事件記者 p.202-203 仕事で来いと、張り切っていた

最後の事件記者 p.202-203 私一人でやらせて下さい。ただ、英語が必要だから、牧野君を、協力者として下さい。それにもう一つ、時間と金を、タップリ下さい。
最後の事件記者 p.202-203 私一人でやらせて下さい。ただ、英語が必要だから、牧野君を、協力者として下さい。それにもう一つ、時間と金を、タップリ下さい。

参謀は、そういいながら、彼の書きかけの原稿をみせてくれた。読んでみると、反米的な内容だが、実に面白く、私たちの漠然と感じていることを、実に明快に、しかもハッキリといい切っ

ている。

私はその原稿を借りて帰った。原部長に見せると、「実に面白い」と感心された。私は良く知らないが、原部長は、まだ占領期間中であるのに、その原稿を読売の紙面に発表して、問題を投げかけ、読者に活発な論争をさせようと企画したらしい。

「あのような激しい、占領政策批判の記事を?」と、私は内心、部長の企画に眼を丸くして驚いた。しかし、この原稿は社の幹部に反対されたらしく、部長もついに諦めたらしかった。

夜の蝶たち

こんな部長の企画が、独立後半年も続いていた占領国人の特権猶予に対して、敢然と批判を加える、新しい企画になって、続きもの「東京租界」が実を結んだ。

その年の初夏から、警視庁の記者クラブへ行っていた私は、この企画のため、辻本次長に呼び返された。といっても、もちろん、クラブ在籍のままである。その年の春、チョットした婦人問題を起して、クサリ切っていた私を、気分一新のため警視庁クラブへ出し、そして、初仕事ともいえるのが、この「東京租界」であったのである。

当時その問題のため、三田株は暴落して、彼は再び立ち上れないだろうとまで、仲間たちからいわれていた。そうなると、人情紙風船である。私に尾を振っていた連中も、サッと見切りをつけて、素早く馬をのりかえるのであった。菊村到の送別会が開かれなかったということでも、新聞社の空気というものが、うなずかれるであろう。

私は辻本次長に、私を起用してくれたことを感謝しながらも、条件をつけたのである。

『多勢の記者とやるのなら、イヤです。私一人でやらせて下さい。ただ、英語が必要だから、牧野君(文部省留学生で、一年間オハイオ大学に留学していた)を、協力者として下さい。それにもう一つ、時間と金を、タップリ下さい。必らずいい仕事をして、思い切り働らいてみせます』

私の願いは叶えられて、九月に入ると間もなく、私は自由勤務となった。私は、私が再起できないという、部内の流言に対して、仕事で来いと、張り切っていたのであった。

十月二十八日、日本独立の日から六カ月の後、ついに在留外国人たちの、一切の特権は否認された。猶予期間が終ったのである。

それまでは、連合国人と第三国人とにとって、日本は地上の楽園だったのである。一番大きな特権は〝三無原則〟と呼ばれた、無税金、無統制、無取締の、経済的絶対優位であった。