「雑誌『キング』」タグアーカイブ
雑誌『キング』p.22下段 シベリア抑留実記 収容所生活
て一週間分くらいで、どんなに倹約しても二週間しか保たず、給與される茶や石鹸、土中に埋めておいた被服類を地方人にやったり、自分のパンをやって喫わないものからもらったりしていた。
炊事は一般と病棟側と二つあり、ソ側の主計からこちらの主計が糧秣を受領調理したが、主食はほとんど高粱か粟で燕麦や豆だけのこともあり米をくれたこともあった。これを軟らかい粥に炊き食べるのだが、徹底的な偏食で高粱なら高粱ばかりであり、三食が朝は魚の炊きこみ、昼は魚、夜はスープと判で押したようにいつも同じであった。
穀類はほとんど満洲から持ってきたものであり、魚はおおむね樺太から運んだものだったが、中には昭和二年製の肥料鰊まであった。この他に黒パンが一日三百グラム前後、炭鉱作業者は七百グラム前後あり、去年の十一月以来は、毎日、甘くない甜菜糖ではあっ
雑誌『キング』p.22 イラスト(収容所の一隅)
雑誌『キング』p.22中段 シベリア抑留実記 収容所生活
布切れに着目された。ほとんどのものが褌をつける習慣を忘れ、襦袢は袖なしで裾も切りとられてヘソが出る。上衣の裏地まではがされ完全に押しつまって、もはや使用ずみのやつを洗濯するより他に手がないという時、ダイナマイトを多量に使う露天炭坑の新作業場ができ、火薬袋が手に入って解決された。
食事はもちろんのこと、煙草、茶、石鹸まで、すべて定量があって、わずかではあったが支給されたが、それらの定量は表に終わってしまい、係のソ連人が横流しをするため手に入るのはまったく少ない。この傾向は中央を離れるにしたがい猛烈となり、辺ぴな土地や森林伐採などは、そのために衰弱もし、栄養失調になっている。私達のところは鉄道沿線の大きな炭坑町なだけにその被害は少なかったが、それでも幾度か糧秣係が逃亡した。煙草は一月分が普通に喫っ
雑誌『キング』p.22上段 シベリア抑留実記 収容所生活
をたくので室内は冬でもあたたかいが、炭坑で働きながら成績不良のため石炭の持ちかえりを止められ、寒さで眠れぬこともしばしばあった。気候、風土、作業になれ、畠など作ったり、碁、将棋、麻雀などの娯楽をたのしめる人間らしい生活に入ったのは、今年の春からであった。
衣類は日本軍のもので、満洲から運んできたものを貸与してくれた。終戦当時、関東軍の貯めこんでいた被服は莫大な量で約三十年分あったというが、多くの部隊は満人の掠奪やソ軍の占領前に必要量を確保したので、私達は持てるだけの新しい衣類を抱えて入ソした。被服類の全くないシベリアのことで、ソ連兵や将校までが機会あるごとに掠めとったし、一般人は隙をみては掻っ払うか物交をせがんだので、どうせとられるならという気持で、警戒兵の監視をくぐって売却したりパンや煙草と交換し、ついには着たきり雀になった。やがて薄い作業服などソ連の被服が支給され、フハイカという綿入れ服、編上靴などまで渡ったが、これもすべて炭坑だからもらえたので、労働が激しく品が悪いのですぐボロになったが、他の一般作業に比べるとまだまともな身なりをしていた。
紙につまったのには困った。便所の紙だけは必要かくべからざるものだったから、入ソ当時たくさんあった書籍類がたちまち影をひそめ、
雑誌『キング』p.22 シベリア抑留実記 収容所生活
雑誌『キング』p.21 執筆者紹介 三田和夫
執筆者紹介
三田和夫氏は讀賣新聞社社会部記者。元陸軍少尉、昭和十八年度現役入隊、弘兵團に属し華北にあったが、終戦直前満洲に移駐し、公主嶺にて武装解除。昭和二十年十月入ソし、イルクーツク州チェレムホーボにて二年間炭坑労働に従事、最近復員された人。
雑誌『キング』p.21下段 シベリア抑留実記 収容所生活
が一つあるいは二三集まって収容所をつくり、軍隊の組織そのままだった。兵舎は木造の半土窟建築で、窓から下は土中にあり、地上には盛土をして寒さを凌ぐものだ。入ソ当時はまだまったく何の設備もなく、不便きわまりないものだったが、定められた作業が終わってから整備に努力したので、私達の収容所はこの地区で一番大きな立派な収容所になった。
なによりも誇るのは完備した病棟で、観察、内科、外科と分かれ、それぞれ専門の軍医がおり、衛生下士官兵が勤務して、ソ側軍医の無智と頑迷と彼等の間の政治的影響とに迷惑はしたが、地区司令官の少佐すら盲腸になった時、ソ側病院に入らず日本軍医の執刀を求めて入院してくるなど、私達に大きな安心を与えてくれた。入浴場もできたが、ソ連式の行水風呂で、風呂桶のやや大きめなものに一杯か二杯の湯をもらって体を流すもので、体は温まらず、冬の寒い時などガタガタふるえながらどんなにか浴槽を懐かしく思っただろうか。
理髪室、縫製工場(仕立屋と靴屋)もあり、それぞれ職人が勤務していた。大工が兵舎を修繕し、左官が壁を塗り、一切の設備ができ上り、人間が生活し得る環境になったのが二十一年の秋であった。寝台といえば聞こえがよいが、お蚕棚式の二段装置に毛布一枚かぶるだけ、ペーチカ
雑誌『キング』p.21中段 シベリア抑留実記 収容所生活
れていった。虱による発疹チブスが発生した。四千名の収容所の九割が罹病した。脳症を起こした患者は四十度以上の高熱のまま「内地行の汽車が出る出る」と叫んで吹雪の戸外へ飛び出した。罹病しないものは二メートルも凍りついた土をコチンコチンと突いて戦友の墓穴を掘っていた。毎日毎日の死亡者に屍室は収容しきれなくなった。昨日墓穴を掘ったものが、今日はその穴に埋められた。高熱は水を求め、水は下痢を起こし、内地の夢をみて逝った。ただ下痢を併発しないもののみが残った。
水道が引かれ、電燈がつき、肉が入り、脂肪が廻って、日ソ軍医を先頭に全員必死の防疫に厳寒期をすごした三月になってようやく下火となり、約二割の尊い犠牲をだして最初の冬の試練は過ぎさったのだった。
収容所生活
終戦時多くの部隊はおおむね部隊ごとにまとまっており、武装を解除してから、一本の列車が千五百名キッチリとして送られた。そのため各所とも建制の部隊
雑誌『キング』p.21上段 シベリア抑留実記 最初の冬
働は鉄のように守られた。しかも炭坑は二十四時間三交替で決して休まなかった。私達には働くどころではなかった。寒さと闘うのが精一杯だった。朝夕の点呼は一時間以上も屋外に立ち、働きが悪くて二時間三時間もの残業をやり、業間作業に使われ、八時間労働と聞こえはよいが、八時間の睡眠すらとれない有様だった。隙間風のもれるバラックの中で貨車の車軸からとってきた油を灯し、玉蜀黍粉の湯がいたものをすすった。水くみは隊列を作り、警戒兵が付いて一キロ以上も往復した。たまの休みには朝暗い中から起き、六キロも歩いて入浴にゆき、夜遅く飯抜きで帰ってくる。その入浴も桶に湯をもらって行水するのだった。
眼に見えて体力が消耗した。痩せて真黒な顔をして虱をたくさんつけていた。感冒が発病する、下痢は止まらない、凍傷ができる、なれない作業から負傷する。衣食住のあらゆる悪条件の結果は、感冒は肺炎に、下痢は栄養失調に、凍傷は凍冱(全身凍傷)にと進行し、バタバタと倒
雑誌『キング』p.21 シベリア抑留実記 三田和夫紹介
雑誌『キング』p.20下段 シベリア抑留実記 最初の冬
れに風が吹き加わって体感温度は六十度にも七十度にも達しただろう。
防寒帽の垂れをしっかとおろし、鼻覆いをかけ、わずかに眼と口だけをのぞかせている。はく息は風をさけて細めた眼のまつ毛の一本一本を氷結させて見開くこともできない。覆いを外したらスーッと真白になって、夢中でこする鼻。厚い防寒大手套の中で握ったりひろげたりし、ちょっとでも曝したらもう温まってこない手。毛皮の防寒靴に二枚もフェルトを敷いても、足指を伸縮させながらの足踏みを止められない足。毛皮と真綿の外套にしみこみ、膝元からはい上る寒さは、ちょうど無数の針のように形のあるものではないかと思えた。
零下三十度を越えると屋外作業は中止という原則だったが、門を出かける時の寒暖計の示す三十度で、一度出たら何度に下がろうが八時間労
雑誌『キング』p.20中段 シベリア抑留実記 最初の冬
ろうか、私がみたままの抑留二年の生活をお伝えし、小さな力でも結集して一日も早く皆が懐かしい故国に還れるようにと願っている。
おことわりしておきたいことは、地区により、労働も待遇も違い、さらに悲惨なところや、遥かに楽な方面もあったらしいし、私のいたのはシベリアの一炭坑町で、これがソ連のすべてではないということである。
最初の冬 —寒さ—
私達の経験した最初の冬の想い出は、誇張でなく正に地獄のようだったといえる。今思いだしてもゾッとするようなあの寒さは、もちろん行動のすべてが拘束され労働を強制されている環境のため倍加されているのだが、私達の寒さという感じを遥かに通り越してしまっていた。
最低は寒暖計に零下五十二度を記録したが、そ
雑誌『キング』p.20上段 シベリア抑留実記 まえおき
シベリア抑留実記
まえおき
船はいつか停まっていた。「内地だ」「日本だ」と呼び叫ぶ声に私も甲板に駆け上っていった。美しい国日本! 樹々の茂った山、青々とした野菜畑、赤い実に飾られた柿の木、藁ぶきの田舎家の白壁。上陸以来の行きとどいた扱いと、沿線いたるところの温かいもてなしとに、ありがたい国日本! とまたまた目頭を熱くしたのだった。それにつけてもなお六十万という残留同胞達は、酷寒期を迎えてどうしているだ