1959」タグアーカイブ

編集長ひとり語り第26回 アメパンという言葉について

編集長ひとり語り第26回 アメパンという言葉について 平成11年(1999)8月25日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 1959)
編集長ひとり語り第26回 アメパンという言葉について 平成11年(1999)8月25日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 1959)

■□■アメパンという言葉について■□■第26回■□■ 平成11年(1999)8月25日

フト、50年も前のことを思い出した。いまの読者には、想像もつかない時代と現象は、やはり、興味のあることではないだろうか。

50年前といえば、昭和24年——昭和22年10月に、2年にわたるシベリア捕虜から生還、その年の11月には、読売新聞社社会部記者に、復職していた。23年早春には、サツ廻り(警察署担当)として、上野署、浅草署を受け持っていた。上野署が中心だった。

というのも、そのころは上野駅とその地下道の時代だったからである。家出少年と家なき児たち。子供ばかりか、女も、大人の男も、上野を目差して集まってくる。上野に行けば、なんとか食べ物にありつけるのだ。そして同時に犯罪の温床でもあった。

まだ“女郎屋”とも呼ばれた売春業者の「遊廓」が、公然と営業していた。日本で売春防止法が成立して、施行されたのは、昭和33年からである。それまでは、売春は公然たる女性の職業だったのだ。警察が地図に赤線で囲ったのが「赤線」で、ここでは週1回“検梅(けんばい)”という、性病検査があった。伝統的な遊廓地帯を赤線と呼んでいた。それに対して青線で示したのが「青線」で、ここは非公然売春地帯だったから、検梅はなかった。

赤線、青線ともに業者がいて、前貸金で女性を束縛していたから、当然の結果として、自主売春の女性たちも現れた。これらを総称して「パンパン」といった。この語源には諸説があるが、占領軍である米兵たちが、性行為の音声的表現として、両手でパンパンと音を発して、セックスを求めたからというのが妥当であろう。

このパンパンたちも3種に分類されていた。日本人専門と米兵専門、さらにどちらでもOKというもの。米兵専門では、白人専門と黒人専門、さらにどちらでも、というものがあった。上野駅周辺は、このパンパンたちのメッカであったから、サツ廻り記者としてはそれらのボス(もちろん女性)たちとは、毎日顔を合わせて、情報源とするのだった。上野駅からスタートしたパンパンたちは、やがて有楽町駅のガード下から新橋へと、ひろがっていった。ことにアメパン(米兵専門パンパン)は、そちらへ移っていったが、発祥地は上野である。オカマ(ゲイを含む)も上野だ。

赤線、青線は管理売春だから、店の経営者が責任を持つ。遊廓らしい伝統的なしきたりが、彼女たちを縛りつけていたから、衣類や財布の盗難紛失などの不安はなかった。だが、パンパンは街頭での出会いだけだから、旅館やホテルで泊まるとなると、心は安まらないのだ。従ってチョンノマという時間売春が中心になってくる。

ある夜、私は顔見知りのパンパンに、「お茶ッ引き(客なし)で困っている」と頼まれて、同宿するハメになった。浴衣に着替えてから、服や所持品が不安だったので、まとめて宿の帳場に預けに行った。すると裏階段から降りてきた私の相手のパン嬢も、バッグから服のすべてを預けにきて、帳場でバッタリと顔を合わせ、大笑いしてしまったこともある。寝ている間に持ち逃げされる不安が、双方にあったということだ。

アメパンのひとりと話をしていた時、彼女が「ターザン」(同名の米映画があった)という。映画の話かと思ったら、「ツー・サウザンド」(2千円)という売春代金の話だった。日本人専門のパンパンとは言葉も通じるし、日本人同士の習慣も共有できるが、アメパンとなると第一に言葉が通じないし、客の争奪戦もすさまじい。だから、アメパン同士の罵り合いの物凄さは筆舌に尽し難いほどだ。

ある女性が、少年野球の子供たちに対して浴びせかける罵声の物凄さは、その年齢の普通の女性たちが、口にできないような言葉の連発である。私は、その場面のテレビを見ていて、50年も昔の思い出を呼び醒まされたのだった。 平成11年(1999)8月25日

編集長ひとり語り第42回 野中のボキャブラリー

編集長ひとり語り第42回 野中のボキャブラリー 平成12年(2000)6月27日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 溜池のオフィスか1959)
編集長ひとり語り第42回 野中のボキャブラリー 平成12年(2000)6月27日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 溜池のオフィスか1959)

■□■野中のボキャブラリー■□■第42回■□■ 平成12年6月27日

総選挙が終わった——自公保が約40議席を減らしたことは、まだ物足りないが、マアマアとしようか。ただ、残念としかいえないのが、野中幹事長の命運をかけた「自民229」のラインを、わずかだが超えたことである。

野中はいった。「自民229を割ったら、幹事長として責任を取る。退路を断ったのだ」と。投票日の25日の新聞に出ている。さらに26日の朝刊。公明、保守に対する選挙協力が機能しなかったことで、また、いった。「万死に値する」と。

退路を断った。万死に値する。この2つの言葉の使い方は、まことにオカシイ。自民が229議席を取れなかったら、「退路を断って」幹事長としての責任を取る——幹事長として責任を取ることが、どうして退路を断つことになるのか。数日前の新聞に、幹事長をやめて、行革本部長をやりたいと、“放言”したことが報じられていた。229取れなかったら政治家をやめます、というのなら、退路を断つことにもなろうが、衆院議員のままで役職を変わることは、退路を断つにはならない。

この言葉、先の都知事選で、柿沢とかいうオポチュニストが、議員をやめる時に使った言葉だ。その柿沢は、チャッカリと今回出馬して、当選してしまった。呆れた奴であるし、それに投票した奴の顔が見てみたい。

もうひとつの「万死に値する」は、岩瀬達哉の力作「ドキュメント・竹下登 われ万死に値す(政治家・竹下登の『深き闇の世界』)」が、99年9月に発刊されたのだが、さきごろ、本人が亡くなったので、新聞報道でこの本が取り上げられ、題名が記載された。

つまり、野中のボキャブラリーは、新聞の見出しを失敬する程度で、彼の知性のほどが分かろうというもの。私が開票速報をハラハラしながら見つづけて、徹夜してしまったのは、自民が229を割った時の、野中の出処進退(出=官職につくこと。処=民間にいること。)を見たかったからである。

かつて、小沢一郎を悪魔とののしりながら自自公の時には「土下座して」と、豹変する野中の政治姿勢の、新しいサンプルが見られる期待があったのだ。言葉の貧しさといえば森首相もまた、野中に負けず劣らずである。さる6月12日、森は記者クラブの会見で、「(みなさんに)お訴えして…」といった。「訴える」という動詞の趣旨からして、「お」という美称や敬称がつけられる必然は、まったくないのである。

私の中学時代、「おニュー」という言葉があった。運動靴や服、シャツなどの新品を身につけると、英語のニューに、羨望や、揶揄をこめて、美称の「お」をつけて、「おニュー」といって、はやし立てたものである。英語のニューに、日本語の“お”をつけることは、デタラメもいいところで、軽蔑感を端的に表現したものである。なにしろ、旧制高校のダンディズム「弊衣破帽」が横行していた時代だから、新品を身につけることは、「おニュー」として、揶揄されるのである。

森の一連の失言はここにあげつらうこともなかろうが、自分の存念に理解を求めることを「訴える」のに、「お」をつければ、理解してもらうのにプラスだと考えたのか? リーダーの不可欠要件である「教養」が、まったく感じられないこの2人である。

今の自民党を牛耳っているのは、鈴木宗男党総務局長⇒野中幹事長⇒亀井政調会長のラインと、古賀国対委員長、村上参院議員会長、青木官房長官らのグループである。これらの連中の顔、面構えをトクとご覧あれ! 「教養」とは無縁の顔だ。

7月上旬には、新内閣がスタートする。その時にどんな人事になるか、見ものである! 平成12年6月27日