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編集長ひとり語り第20回 野村沙知代に引導を渡す!

編集長ひとり語り第20回 野村沙知代に引導を渡す! 平成11年(1999)7月17日 画像は三田和夫51歳(中央二人の右側 1972)
編集長ひとり語り第20回 野村沙知代に引導を渡す! 平成11年(1999)7月17日 画像は三田和夫51歳(中央二人の右側 1972)

■□■野村沙知代に引導を渡す!■□■第20回■□■ 平成11年(1999)7月17日

私は、7月16日午後、塩谷安男弁護士をわずらわして、東京地検に、野村沙知代を公職選挙法違反(虚偽事実公表罪)で告発した。その告発状を紹介しよう。

「一、告発事実 被告発人は、平成8年10月20日施行の衆議院議員選挙において、東京都第5区から立候補したものであるが、自己の当選を得る目的をもって、右選挙の告示後である同年10月初旬ごろ、同選挙に際して東京都選挙管理委員会が、衆議院(小選挙区選出)議員選挙公報(東京都第5区)を作成するにあたり、情を知らない同委員会事務局担当者らをして、真実は、昭和51年5月17日に、米国人アルビイン・ジョージ・エングルと離婚し、同53年4月19日に野村克也と婚姻しているのにかかわらず、『1972年野村克也氏(現ヤクルト監督)と結婚』との虚偽の経歴を、右公報に掲載させて、東京都第5区である東京都目黒区及び世田谷区において頒布させ、もって自己の経歴に関し、虚偽の事実を公にしたものである」

このあと、「二、告発理由等」「三、証拠」「四、添付書類」とつづく。これらの文章は、法曹人特有の、寸分のスキもない、理詰めの文章なので、馴れない人には読みにくいし、ピンとこないかも知れない。一言でいうならば、「72年野村と結婚」とあるが、その時には米国人と結婚していて、ウソだ、ということである。このウソは、不倫と不倫の子の出産をゴマ化して、「当選を得る目的」だったのではないか、ということである。

第三項の「証拠」の項は、「第一号証 衆議院議員選挙公報(東京都第5区)」「第二号証 戸籍謄本」「第三号証 除籍謄本(荒川区長発行)」「第四号証 除籍謄本(目黒区長発行)」「第五号証 除籍謄本(京都市西京区長発行)」と、伊東芳枝の出生から、野村沙知代に“変身”するまでのすべてが明らかにされている。日本は法治国家なのだ。

それにしても、今どきのレポーターだとか取材記者だとかは、調査取材の能力が欠落しているとしか、私には思えない。ナゼ、学歴詐称にばかりこだわるのか。結婚のウソは、早くから、コメントなどでは取り上げているが、公選法違反をいうならば、学歴は公報に出ていないのだから、それをいうのは、私をしていわしめれば、テレビのスタッフも、芸能人なみの頭の程度、いうなればテイノー人のたぐいだと思う。

住民票(本籍地が記載されている)をとり戸籍謄本をとるのは、弁護士にしか許されていないから、弁護士に任せざるを得ない。そんなことは判り切っていること。タレントが持ち出してきた、ビラの名刺は法定外の印刷物だから、コロンビア大学が記載されていようがいまいが、関係はない。外国人記者クラブ会見の発言も、法定外である。それで「公選法違反」とは、ナニを考えているのか。浅香女史の行動にだって、テレビ局の関係者がアドバイスぐらいしたらどうか。

ナゼ、結婚問題に、誰も触れようとしないのか。だから、ワイドショー関係者は、ただただ、視聴率稼ぎだ、といわれるのだ。もうこれで“騒動”はおわりである。地検が、不受理などというワケはないからだ。 平成11年(1999)7月17日

編集長ひとり語り第56回 アメリカ同時テロのこと…

編集長ひとり語り第56回 アメリカ同時テロのこと… 平成13年(2001)9月29日 画像は三田和夫51歳(中央 1972.12.18)
編集長ひとり語り第56回 アメリカ同時テロのこと… 平成13年(2001)9月29日 画像は三田和夫51歳(中央 1972.12.18)

■□■アメリカ同時テロのこと…■□■第56回■□■ 平成13年9月29日

あの“惨劇の日”から3日過ぎた14日。ワシントンに集まった20万人の人達が祈りの日を持った。それからもう2週間も経ち、全米各地でそれぞれに祈りの日が持たれた。だが、私には、14日のワシントンほど強烈な印象を与えられた情景はない。

というのは、14日のテレビには、「NO WAR」と大書されたビラが映し出されていたからである。そしてビラはこの1枚だけであった。カメラは横にパンしていたが、私の記憶が正しければ、この1枚だけで、それだけに強烈な印象を与えられたのだった。

私達の英語常識からいえば、NOは否定のNOであり、WARは名詞の戦争であり、それ以上でもそれ以下でもない。

なぜ、こんなことをまわりくどく書くのかといえば、それほど、このテロの後の祈りの場で、このビラの与える訴える力は、はかりしれないほどの、人々の心への影響が強大なものだったに違いないと思われるからである。

現在までの米側の反応を見れば、当然“いわゆる戦争”になることが予想される。それを人間の知恵が、どう避けて通れるのだろうか。14日の段階で、すでにそう予測されるから、あのビラが出たのだし、あれを掲げることを、カメラも、その他主催者も認めたのだろう。

しかし、報復が報復を呼ばない、どんな“妙手”があるのだろうか…。誰もが思いつかないのだから、この「NO WAR」が効いてくる…。

これがもし、日米があらゆる立場を交代して、日本での追悼集会の場であったらどうだったろうか。想像するだけでも不快感がコミあげてきて、寒気がするほどである。

「ノー・ウォー」このわずかツーシラブルの簡明で粗野な言葉が持つ、深い大きい意義について、次回は語ろう。 平成13年9月29日