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シベリア印象記(11) チャンス到来

シベリヤ印象記(11)『チャンス到来』 平成12年(2000)9月25日 画像は三田和夫66歳(最前列右から4人目 桐の会戦友会・伊香保観光ホテル1988.03.12)
シベリヤ印象記(11)『チャンス到来』 平成12年(2000)9月25日 画像は三田和夫66歳(最前列右から4人目 桐の会戦友会・伊香保観光ホテル1988.03.12)
画像は三田和夫66歳(最前列右から4人目 桐の会戦友会・伊香保観光ホテル1988.03.12)
画像は三田和夫66歳(最前列右から4人目 桐の会戦友会・伊香保観光ホテル1988.03.12)
画像は三田和夫66歳(中央 桐の会・伊香保温泉旅行1988.03.12)
画像は三田和夫66歳(中央 桐の会・伊香保温泉旅行1988.03.12)

シベリヤ印象記(11)『チャンス到来』 平成12年9月25日

私に舞い込んできた幸運は、このスパイ操縦者の政治部将校、ペトロフ少佐の突然の転出であった。少佐は約束のレポの3月8日を前にして、突然収容所から姿を消してしまったのである。

ソ連将校の誰彼に訪ねてみたが、返事は異口同音の「ヤ・ニズナイユ」(私は知らない)であった。もとより、ソ連では他人の人事問題に興味を持つことは、自分の墓穴を掘ることになるのである。それが当然のことであった。私は悩みつづけていた。

不安と恐怖と焦燥の3月8日の夜がきた。バターンと、バラッキの二重扉のあく音がするたびに、「ミータ」という、歩哨の声がするのではないかと、それこそ胸のつぶれる思いであった。時間が刻々とすぎ、深夜三番手の集合ラッパが鳴り、それから3、4時間もすると、二番手の作業隊が帰ってきた。静かなザワメキが起り、そして、一番手の集合ラッパが鳴った。

夜が明け始めたのだった。3月8日の夜が終わった。あの少尉も転出したのだろうか。重い気分の朝食と作業……9日も終わった。1週間たち、1カ月がすぎた。だが、スパイの連絡者は現れなかった。(つづく) 平成12年9月25日

◇◆◇◆執筆者略歴◆◇◆◇
三 田 和 夫 78歳
大正10年6月11日、盛岡市に生まれる。府立五中を経て、昭和18年日大芸術科を卒業。読売新聞社入社。同年11月から昭和22年11月まで兵役のため休職。その間、2年間に及ぶシベリアでの強制労働を体験。復員後、読売社会部に復職。法務省、国会、警視庁、通産・農林省の各記者クラブ詰めを経て最高裁司法記者クラブのキャップとなる。昭和33年、横井英樹殺害未遂事件を社会部司法記者クラブ詰め主任として取材しながら、大スクープの仕掛け人として失敗。犯人隠避容疑で逮捕され退社。昭和34年、マスコミ・コンサルタント業の「ミタコン」株式会社を設立するも2年あまりで倒産。以後、フリージャーナリスト生活を送る。昭和42年、元旦号をもって正論新聞を創刊。昭和44年、株式会社「正論新聞社」を設立。田中角栄、小佐野賢治、児玉誉士夫、河井検事など一連のキャンペーンを展開。正論新聞は700号を超え、縮刷版刊行を期するも果たせず。
◇◆◇◆著書◆◇◆◇
☆「迎えにきたジープ」
☆「赤い広場―霞ヶ関」
☆「最後の事件記者」(実業之日本社)
☆「黒幕・政商たち」(日本文華社)
☆「正力松太郎の死の後に来るもの」(創魂出版)
☆「読売梁山泊の記者たち」(紀尾井書房)
など多数。

メルマガ「シベリヤ印象記」は、「~(つづく)平成12年9月25日」とあるが、この(11)が最終回となった。「編集長ひとり語り」のほうは、1年以上後の、平成13年11月22日までつづくが、その間「シベリヤ印象記」の原稿を催促すると、三田和夫は「わかったよ。いろいろ考えてるから」と笑って答えたという。なにを考えていたのかわからないが、そのまま死んでしまった。

「シベリヤ印象記」は、じつはメルマガを含めると、3回も書かれている。

第1回目の「シベリア印象記」は、三田和夫が、昭和22年11月、シベリア抑留から帰還、読売新聞に復職して最初に書いた記事だった。その状況と記事内容は、『最後の事件記者』(p.076~p.087)に書かれている。

読売新聞 昭和22年(1947年)11月24日 第2面 抑留二年 シベリア印象記 本社員 三田和夫 日本軍服引張り凧 パンに貧富の差 ソ連帰還兵は米国礼賛
読売新聞 昭和22年(1947年)11月24日 第2面 抑留二年 シベリア印象記 本社員 三田和夫 日本軍服引張り凧 パンに貧富の差 ソ連帰還兵は米国礼賛
読売新聞 昭和22年(1947年)11月24日 第2面 抑留二年 シベリア印象記 本社員 三田和夫 日本軍服引張り凧 パンに貧富の差 ソ連帰還兵は米国礼賛
読売新聞 昭和22年(1947年)11月24日 第2面 抑留二年 シベリア印象記 本社員 三田和夫 日本軍服引張り凧 パンに貧富の差 ソ連帰還兵は米国礼賛

第2回目の「シベリア印象記」は、平成2年8月、ソ連旅行で45年振りにシベリアを訪れた紀行文を、『正論新聞』第587号から連載している。

正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク

つまり、読売新聞「シベリア印象記」、正論新聞「シベリア印象記」、そしてメルマガ「シベリヤ印象記」と、3回も書いているのだ。そんなこともあってか、メルマガ「シベリヤ印象記」の(6)~(11)は、『最後の事件記者』(p.116~p.133)の焼き直しになっていて新味がない。

メルマガの「シベリヤ印象記のはじめに①~⑤」は、78歳になった三田和夫の書き下ろしだが、若いころに書いた『赤い広場—霞ヶ関』『迎えにきたジープ』に比べると、論調がだいぶマイルドになっている感がある。

たとえば、「シベリア抑留60万人・死者6万人」と書いているが、それは、ソ連側・日本政府の公式発表の数字に過ぎない。また、最初の冬に推計800名(2割)が死んだと書いているが、以前はよく「零下50度、最初の冬に約半数が死んだ」と言っていた。『迎えにきたジープ』でも、「春がきて約3割、1200名減った」と数字はもっと大きい。戦後、『キング』に書いた「シベリア抑留実記」では2割だが、ソ連当局は実態を把握させないように、名簿を作らなかったり、収容所間で人員を動かしたりして、証拠湮滅を図っていたのだから真実のところはわからない。

10年前に戦後45年目の平和な時代のシベリア旅行を経験したことや、戦友会で戦友たちのいろいろな話を聞いているうちに、意見が変わった部分もあるのかもしれない。

『迎えにきたジープ』(p.096~p.110)には、証拠の有無は別として、細菌戦や収容所内部の状況、死亡者の扱いについて、三田和夫の体験・疑似体験が書かれている。

できれば、メルマガ「シベリヤ印象記」(つづく)で、『迎えにきたジープ』の続編を書いてもらいたかったものだ…。

編集長ひとり語り第16回 「マリコ」再放送と国際結婚

編集長ひとり語り第16回 「マリコ」再放送と国際結婚 平成11年(1999)6月20日 画像は三田和夫52歳(中央 正論新聞・社内宴会1973)
編集長ひとり語り第16回 「マリコ」再放送と国際結婚 平成11年(1999)6月20日 画像は三田和夫52歳(中央 正論新聞・社内宴会1973)

■□■「マリコ」再放送と国際結婚■□■第16回■□■ 平成11年(1999)6月20日

1981年というから、今から18年前の昭和56年、8月15日にNHKが放送した「マリコ」が、19日の土曜日の夜に再放送された。日米開戦時にワシントンの日本大使館勤務だった外交官、寺崎英成とその妻のアメリカ人グエン。二人の間の娘マリコの回想録の形で、この一家に戦争のもたらした運命を描いたドラマである。18年前の感動を、いままた、流れる涙を拭きながら、見つめ直していた。初放送時には、NHKの電話交換台がパンクするほどに電話がかかってきたという。

さて、今回の再放送が、どのように視聴者に受け入れられたであろうか。日本国の内外情勢も、この20年ほどで大きく変わってきているのだが、改めて、民族と戦争という不変のテーマをつきつけることになっただろうと思う。というのは、日本の国際化はどんどんと進み、国際結婚も多くなり、日常生活のすぐそこに、外国人が住み、働いている現実だ。外国人の登録人口は約150万人。日本国籍人の1%を越えている。日本に帰化する外国人も多くなり、そこで“日本国籍人”という表現をせざるを得ないのだ。

私の知人の中国人夫婦も帰化した。その長男の男の子は、「日本の高校の教育程度が低すぎる」と、上海の高校へ戻った。だが、今度は日本国籍の日本名前だから、いうなれば留学である。アジア諸国からの日本への留学生はどんどん減って、来世紀には、日本の若者たちが、中国や韓国に留学する時代になるだろう。日本の学校教育はダメになった…。

「マリコ」の父、寺崎は8月15日の天皇放送を聴き、妻にいう。「私の国は敗けた。あなたの国が勝った」と。妻グエンが夫に向かって叫ぶ。「どちらが勝った、敗けたじゃない。平和が戻ってしあわせが帰ってきたのよ」と。いうなれば、国際結婚の先駆者であり、日本外交官が交換船で帰国する時、米国に残れという夫に反対して日本に渡り、戦時中の食糧不足、買い出しまでやったアメリカ人グエンの毅然たる人間愛のほとばしりだ。

私は国際結婚推進派である。戦争をなくすためには、外国人同士の結婚と、混血児をふやしていくのが一番だと思う。1945年ごろは、まだまだ偏見がまかり通っていた。だからマリコは、戦時下の日本で、アメリカ人とイジメられる。「半分は日本人よ!」と悪童たちにマリコは立ち向かう。

父の国と母の国(あるいは民族)が戦争する悲劇は、まだ世界各地で起きている。「民族浄化」などという、慄然とするような日本語訳が、平気でマスコミに用いられている無神経さは、マスコミもまた病んでいる証拠である。政治と政治家はもとより、教育、学力がともに低下し、マスコミが病む。その日本女性は、不婚、不産の傾向にあるのだから少子化社会と高齢化社会が同時進行して、21世紀の日本の衰退は必至である。

だからこそ、国際結婚のすすめである。マリコは、アメリカで弁護士と結婚し、州の事務所で働いている。そして、ドラマの最後を、次のようにしめくくる。「私は上海で生まれ、第二次大戦、朝鮮動乱、ベトナム戦争と、戦争の中で育ち、戦争を目撃してきたから、平和の尊さを実感した」と。

NHKは、この再放送の反響を、ぜひ数字とともに公表して欲しい。そこには、18年前と違う、意見と数字があるハズだ。国際結婚と混血児、戦争についての、視聴者の気持ちを知りたい。ことに“アメリカの属国としての戦争接近”に無神経な小渕内閣と国会議員たちが成立させた、ガイドライン法が戦争法である事を、ドラマ・マリコの視聴者が感じているかどうかを、知りたい! 平成11年(1999)6月20日

編集長ひとり語り第17回 クリントンの隣りに立つ首脳は?

編集長ひとり語り第17回 クリントンの隣りに立つ首脳は? 平成11年(1999)6月26日 画像は三田和夫70歳(中央 古希の誕生日パーティ1991.06.11)
編集長ひとり語り第17回 クリントンの隣りに立つ首脳は? 平成11年(1999)6月26日 画像は三田和夫70歳(中央 古希の誕生日パーティ1991.06.11)

■□■クリントンの隣りに立つ首脳は?■□■第17回■□■ 平成11年(1999)6月26日

G8の各国首脳の記念写真が、新聞に掲載された。やはり、いつも中心にいるのは、アメリカのクリントン大統領である。我がオブチ君は、パフォーマンスのチャンスなのに、左から二人目。ノッポにはさまれて、見劣りがするのである。エリツィンは、最後の七時間だけ出席して、モテモテだったみたいだがカメラが動いて各国首脳の表情をみせる。クリントンは仏頂面していて、あまりゴキゲンではない。オブチ君は、クリントンの表情を気にしているような感じだった。

超大国の両雄だった米ソも、ソ連解体、ロシア不況とあって、アメリカだけが、全世界に口をはさみ、手を出している。ロシアは、コソボに勝手に小部隊を進駐させたり、小手先のパフォーマンスしかやれない実情にあることはいうまでもない。となると、中国はどうしたか、とあたりを見廻さざるを得ない。G9になって、中国が加われば、江沢民は堂々と、クリントンの隣りに並んで、記念写真に納まるだろう。それでもオブチ君は、キット左端か右端かに立つことになるだろう。決して、クリントンの両側を、江沢民と並んで占める、ということはあり得ない。

北朝鮮がミサイルの照準を合わせている都市のひとつに、熊本市があるというジョークがある。加藤清正が朝鮮出兵時に多数の朝鮮人捕虜を連れ帰ったウラミだというのだ。そこで、私はこんな幻想を描く。

周辺事態もガイドライン法もどうでもいいんだ。コソボ空襲を終えたアメリカが、余勢を駈って北朝鮮を空爆する。湾岸戦争でフセインをヤれなかった失敗から、今度は、金正日を狙い撃ちだ。たちまち、日本は北朝鮮のミサイルを浴び、人が死に、火事で焼け、大損害を受けるが、アメリカのやることだからオブチ君は「北爆を支持する」とコメントを出す。1、2カ月後、北朝鮮は消滅し、朝鮮半島は統一されてしまう。

サテ、そこでである。ロシアと中国はどう動くかである。ロシアは金がないし、軍の士気も低く、ポーズだけは、コソボと同じように、アメリカ批判をくり返すだろうが、実力行使はできない。第一、核がどうなっているかも、明らかではない。

北朝鮮の発射したミサイルは、韓国と日本に対してだけである。あるだけブッ放して、あとは焦土作戦。金王朝の滅亡である。そして中国は、どう出るか。コソボの中国大使館誤爆事件も、誤爆じゃない、狙ってやったのだろう、と、釈然とはしていないほどだから、ピョンヤンでまた大使館をやられ、死者も出たとなると、中国世論はおおいに盛り上がって…。もちろん、中国とアメリカが直接戦火を交えるということはあり得ないが、ロシアに代わって、中国がアメリカと対峙する超大国の立場を占めることになるだろう。二十一世紀は、まず米中対峙という形で展開してゆくだろう。

その時、ニッポンはどうなる。どうするのか? 平成11年(1999)6月26日

追記:来たる10月1日は中国の国慶節ですので、軍事パレードも行われるだろうとみられています。この前後の1週間ほど北京、上海と取材旅行に行く予定です。もし私の旅に同行されたい方がおられたら、メールにてご連絡ください。

編集長ひとり語り第46回 犯人の方(かた)が…とは!

編集長ひとり語り第46回 犯人の方(かた)が…とは! 平成12年(2000)7月29日 画像は三田和夫52歳(中央 松㐂鮨1974.05.04)
編集長ひとり語り第46回 犯人の方(かた)が…とは! 平成12年(2000)7月29日 画像は三田和夫52歳(中央 松㐂鮨1974.05.04)

■□■犯人の方(かた)が…とは!■□■第46回■□■ 平成12年7月29日

先頃の、17歳少年のバスジャック事件の時である。最初に一時停車したパーキングエリアの売店のおばさんがいった。「犯人の方(かた)が何か要求されたんじゃないですか」と。そして、7月12日のNHK昼時に出てきた料理研究家なる、これもオバさんが、マナ板の上で暴れる魚をみていった。「生命力の強い方(かた)なんですね」と。

殺人容疑者に「方」という敬語を使うのはまだしも、魚に対して「方」というにいたっては、もう何をかいわんやである。

それもこれも、すべて、テレビの報道番組のせいである。美しく正しい日本語をひろめるべきテレビが、どうしてか、日本語を破壊しているのである。客観性を重視すべき報道で、テレビはこういう。「警察官のカタが駆けつけてきました」「駅員のカタたちが…」

いったい、テレビはどういうつもりで、この「カタ」をつけるのか。「警察官が駆けつけて」「駅員たちが」が正しい日本語である。と思っていたところへ、2人の人がそれぞれ一文を草していた。

週刊文春7月13日号「何様なのか、テレビ局(5)」野坂昭如

「ワイドショーのレポーターは…『ご冥福をお祈りしたいと思います』と、とってつけたようにいう。あの『思います』っていいかたはいったい何なのか。思っているだけじゃなくて、ちゃんと冥福を祈れ! ついでにいえば、『いやあ、あちらに行ってみたいと思います』『食べてみたいと思います』というテレビ特有の物言いも、とても耳障りです。何で『いってみましょう』『食べてみましょう』と、ストレートに言わないのか」

そして、もうひとつは7月27日付け東京紙ラテ版、廣淵升彦・湘南短大教授

〈文化を破壊するアナ〉「…最近アナウンサーたちの発音で気になることがある。『一トン』を『イチトン』といい、『八点目』を『ハチテンメ』というアナが多いことだ。…音便というのは文化の成熟度を示すものである。…世界共通語となった『レゾンデートル』を、一語一句区切って『レゾン・ド・エートル』などといえば、笑い者になるだろう」

実際、浅草のカンノンさまを、カンオンさまというバカがいるか!

これらの元凶は、NHKである。NHKのアナ教育はどうなっているのか。税金で賄われているNHKが、日本文化の破壊の先頭に立っているのではないか。ともかく、つける必要のない「カタ」と「思います」を消すことから始めてもらいたい。冒頭の売店や料理研究家も、その年頃から見て、NHKを一番良くみていると思われる。

かく申す私は、昭和18年の夏、日大卒業を控えて、NHKのアナ試験を受け合格。同時に合格した読売をえらんだのである。理由は戦時中だから、ノドはひとつ、ウデは2本あるので、アナより記者をえらんだ。だから、ひとより発音にウルサイのである。

NHKテレビを見ていて感ずるのは、報道のアナやレポーター、記者たちは、自分の話した部分のビデオを見て、再点検しているのかどうか。都知事選で落ちて、パリの日本館だかの館長になった大物が、「お歴お歴」と話した。再放送でもそのまま。若いアナが、「遊興費」を「ユーコーヒ」と発音した。遊興もしたことがないのだから、ヤムなしか。

それにしても、NHKの海老沢会長なる男は、あまりにも画面に登場しすぎる。会長が部下に任せられないようでは、NHKの改革など、夢のまた夢。小淵さんが大相撲の総理杯に出てきたように、あの海坊主風の男も、脳コーソクに倒れるかもよ…。 平成12年7月29日

編集長ひとり語り第56回 アメリカ同時テロのこと…

編集長ひとり語り第56回 アメリカ同時テロのこと… 平成13年(2001)9月29日 画像は三田和夫51歳(中央 1972.12.18)
編集長ひとり語り第56回 アメリカ同時テロのこと… 平成13年(2001)9月29日 画像は三田和夫51歳(中央 1972.12.18)

■□■アメリカ同時テロのこと…■□■第56回■□■ 平成13年9月29日

あの“惨劇の日”から3日過ぎた14日。ワシントンに集まった20万人の人達が祈りの日を持った。それからもう2週間も経ち、全米各地でそれぞれに祈りの日が持たれた。だが、私には、14日のワシントンほど強烈な印象を与えられた情景はない。

というのは、14日のテレビには、「NO WAR」と大書されたビラが映し出されていたからである。そしてビラはこの1枚だけであった。カメラは横にパンしていたが、私の記憶が正しければ、この1枚だけで、それだけに強烈な印象を与えられたのだった。

私達の英語常識からいえば、NOは否定のNOであり、WARは名詞の戦争であり、それ以上でもそれ以下でもない。

なぜ、こんなことをまわりくどく書くのかといえば、それほど、このテロの後の祈りの場で、このビラの与える訴える力は、はかりしれないほどの、人々の心への影響が強大なものだったに違いないと思われるからである。

現在までの米側の反応を見れば、当然“いわゆる戦争”になることが予想される。それを人間の知恵が、どう避けて通れるのだろうか。14日の段階で、すでにそう予測されるから、あのビラが出たのだし、あれを掲げることを、カメラも、その他主催者も認めたのだろう。

しかし、報復が報復を呼ばない、どんな“妙手”があるのだろうか…。誰もが思いつかないのだから、この「NO WAR」が効いてくる…。

これがもし、日米があらゆる立場を交代して、日本での追悼集会の場であったらどうだったろうか。想像するだけでも不快感がコミあげてきて、寒気がするほどである。

「ノー・ウォー」このわずかツーシラブルの簡明で粗野な言葉が持つ、深い大きい意義について、次回は語ろう。 平成13年9月29日