ダモイ」タグアーカイブ

最後の事件記者 p.130-131 命令を与えられたスパイ

最後の事件記者 p.130-131 誓約書を書いたことは、果して正しいことだろうか。許されることだろうか。弱すぎはしなかっただろうか。
最後の事件記者 p.130-131 誓約書を書いたことは、果して正しいことだろうか。許されることだろうか。弱すぎはしなかっただろうか。

ソ連人たちは、エヌカーの何者であるかを良く知っている。兄弟が、友人が、何の断りもなく、自分の周囲から姿を消してしまう事実を、その眼で見、その耳で聞いている。私にも、エヌカーの、そしてソ連の恐しさは、十分すぎるほどに判っているのだ。

——これは同胞を売ることだ。不当にも捕虜になり、この生き地獄の中で、私は他人を犠牲にしても、生きのびねばならないのか!

——或は、私だけ先に日本へ帰れるかもしれない。だが、それもこの命令で認められればの話だ。

——次の命令を背負ってのダモイ(帰国)か。私の名前は、間違いなく復員名簿にのるだろうが、その代りに、永遠に名前ののらない人もできるのだ。

——私は末男で独身ではあるが、その人には妻や子があるのではあるまいか。

——誓約書を書いたことは、果して正しいことだろうか。許されることだろうか。弱すぎはしなかっただろうか。

——だが待て、しかし、一カ月の期限は、すでに命令されていることなのだ……。

——ハイと答えたのは当然のことなのだ。人間として、当然……。イヤ、人間として果して当然だろうか?

——大体からして、無条件降伏して、武装をといた軍隊を捕虜にしたのは国際法違反じゃないか。待て、そんなことより、死の恐怖と引替えに、スパイを命ずるなんて、人間に対する最大の侮辱だ。

——そんなことを今更、いってもはじまらない。現実のオレは命令を与えられたスパイじゃないか。

私はバラツキ(兵舎)に帰ってきて、例のオカイコ棚に身を横たえたが、もちろん寝つかれるはずもなかった。転々として思い悩んでいるうちに、ラッパが鳴っている。

『プープー、プープー』

哀愁を誘う、幽かなラッパの音が、遠くの方で深夜三番手作業の集合を知らせている。吹雪はやんだけれども、寒さのますますつのってくる夜だった。

赤い広場―霞ヶ関 p060-061 佐藤尚武大使がソ連との協力を指示?

赤い広場―霞ヶ関 p.60-61 佐藤尚武大使がソ連との協力を指示?
赤い広場ー霞ヶ関 p.060-061 Ambassador Sato Naotake directed cooperation with the Soviet Union?

このグループのイニシァチヴをとったのは渡辺記者であり、懐疑的だったのは大隅書記

生であり、大使との連絡係は日暮書記生であったといわれる。

ラストヴォロフはその手記で、『この五人を一人ずつ、他の者にわからないように、買収しにかかった』と述べているが、やはり当時の関係者の談話を綜合してみると、ラ氏手記は若干違うようである。

新日本会そのものの出発は、ラ氏手記にあるような目的だったらしい。ところが、結成後の会の運営は、「ソ連側に協力する」という方向へすすみつつあったので、これはイカンと云い出したのが大隅氏で、リーダー格の渡辺氏と論争ばかりしていた。これをマアマアと大隅氏をなだめて、「協力」の方向へ一致して進もうとすすめたのが、日暮氏だという。するとラ氏のいう『他の者に分らないよう』というのは少しズレている。少くともこの五人のメムバーはその任務について論じ合っているのだから。

ところが、さきほどの佐藤大使召喚の説である。これによると、大使はソ連側に呼ばれて、〝協力を要請〟された。平たくいえば、スパイになるか、或は部下からスパイ要員を出せということだ。

これに近い例は、シベリヤ捕虜でも、常に連隊長、大隊長などの最高責任者に要求し、応じなければ長以下全員を苦しめる。そこでその長が屈服して要求に応ずるということだ。第集

の幻兵団の、山田乙彦獣医大尉の大隊が悪条件の伐採に出され、山田乙彦大尉は部下のために誓約したのなどもその例である。

大使は困って、帰館してから腹心の日暮書記生を呼んで、因果を含めて「協力」させ、新日本会全部がその方向に向ったという説である。佐藤尚武氏は参院議長もやられた外交界の大長老であるから、失礼にならぬよう〝説〟と申上げるが、日暮、庄司両氏が逮捕されたときには佐藤大使の身辺危うしの説が流布されていたのは事実である。

そして、大隅氏が説得されて、新日本会の方向が「対ソ協力」と決定されてから、軟禁されていた日本人たちの行動の自由が恢復し、街へ買物にも行けるようになってきた。そこでスパイ誓約書の署名などという、ソ連式儀式が行われたかどうかは知らぬが、私がスパイになることを承知してダモイできたように、この外交宕たちも敗戦の犠牲となったのであった。 果して、帰国後、佐藤大使以下のモスクワ駐在日本人たちのうち、誰と誰とに合言葉のレポがあったかは、私には分らない。ともかく警視庁の捜査当局は、新日本会の会員(?)であった日暮、庄司両氏だけを逮捕したのであった。もちろん他の人々、公務員も民間人も、参考人として任意に出頭して、或は泣きながら、或はオドオドしながら、当時の事情を供述し、その止むを得ざりし環境を釈明したのであった。