三名の船員は起訴猶予で強制退去となった。
九月八日関の初公判、同二十二日クリコフの初公判と、いずれも旭川地裁でスピード裁判が開かれた。一方強制送還の三名は十月二日小樽出港の石炭積取船で、北樺太西柵円に送還、同五日ソ連側官憲に無事引渡された。
また十月十四、十五の両日にわたり、裁判権の有無についての公判準備手続が東京地裁で開かれ、四対一で裁判権が支持された。
関、クリコフの裁判は第二回から並行審理されていたが、二十八年二月十九日、両名とも懲役一年(執行猶予二年)、クリコフには船を返すとの判決があった。
ところが、判決から四日目の二十三日、クリコフ船長の杉之原弁護人が、札幌入管事務所を訪れ『船長を再収容してほしい、送還は広島、山口両県で修理中のソ連船でしてほしい』という申入れを行った。
再収容とはどうしてだろうか。この問に答えて元ソ連代表部では、三月四日次のような声明を発表した。
ソヴエト船のクリコフ船長は、二月二十三日代表部をおとずれ、アメリカ諜報部員と思われる二名のアメリカ人に数日間つきまとわれ、故国に帰るのを拒否して、アメリカへ行くようおどかされたと
のべた。クリコフ船長はアメリカ諜報部員の追求から守ってほしいと依頼した。彼はつぎのような声明を発表した。
本年二月十七日午後十一時、私が旭川市の「ニュー北海」ホテルの自室にいると、見知らぬ男が入ってきた。この男はあとでわかったのだが、アルバート・バーミンという名でホテルに投宿していたものだった。アルバート・バーミンの言によると、彼の両親はカリフオルニアに住んでおり、母は女教師で、彼は米軍の通訳をしているとのことだった。彼はうちとけた振舞をして、なるベく私を酔わせようとした。二月十八日の昼間は、このアメリカ人がつきっきりで私につきまとい、御馳走をして私の気嫌をとろうとした。この日の夕方、彼は「ニュー北海」ホテルの自室に私を招待したが、そこにはもう一人のアメリカ人がいた。宿帳にのっている彼の名前は、エドワード・マーチンであった。彼らはアメリカ当局に亡命を願いでて、直ちに飛行機でカリフォルニアへ行こうともちかけて来た。そのとき彼らはこういった。『日本人などくそくらえですよ。奴らはアジア人ですからね……中請書を書きさえすれば、私たちの手から五万ドル貰ってアメリカへ飛んで行けますよ』
二月十九日、バーミンはまたアメリカへ行こうと私にすすめた。彼は私を自室につれこんで、直ぐに鍵をかけ、予め用意した、ロシヤ語の不帰国申請書に署名させようとした。私はそれを断って、彼の強要をきっばりはねつけたあと、バーミンは図々しくなり、私の部屋に無断でちん入し、中請書に署名させようとして私につきまとうようになった……