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赤い広場―霞ヶ関 p034-035 米人パーミンがクリコフにつきまとう。

赤い広場―霞ヶ関 p.34-35 米人パーミンがクリコフにつきまとう。
赤い広場ー霞ヶ関 p.034-035 An American, Parmin, was dogging Krikov.

クリコフは以上のことをソ同盟政府に報吿すると共に、その帰国を促進させるため、できるだけの措置をとるよう依頼した。一力月以上前、代表部員ラストヴォロフが忽然と失踪したこと、及びクリコフの声明にのべられたような事実は、在日アメリカ諜報員が犯罪的な目的をもって、ソ同盟市民に対しほしいままに、挑発行動をとっていることを示している。代表部は、在日ソヴエト市民に対するアメリカ諜報部の挑発行動を取締るため、日本当局が適当な措置をとる義務があると考える。

早くもCIAと覚しき米国秘密機関の手が伸びていたのであった。この事件については私自身は直接関係していないので、週刊読売二十八年三月二十一日号をみてみる。

二月二十四日、元ソ連代表部ルーノフ参事官は、札幌入管事務所を訪れ、植田所長に『クリコフを仮放免のまま旭川におくのは、引致されるおそれもあるから、札幌に身柄を移し、強制収容のうえ保護を与えてほしい』と申入れた。

これらのただならぬ言葉がほのめかしている事実、それが判決前後クリコフ船長の周辺に突然現われた二人の怪米人の存在なのである。

二月十六日午後八時頃。クリコフは宿舎旭川ニュー北海ホテルのロビーで休んでいた。と、そこへ派手な緑のダブル背広を着込んだ三十五、六、中肉中背、面長のアメリカ人らしい一外人が現われ、 クリコフの肩を叩き乍らロシヤ語で挨拶をかわし、談笑していたが、そのまま自室三十五号室にクリコフを連れ込んだ。

夜おそくまで二人が替る替る酔った声でロシヤ民謡を歌うのが、ドアの外に聞えていた。そして飲み明した十七日午前四時には連れ立ってハイヤーに乗り、市内某特飲店から女二人を連れホテルに引揚げた。突然現われたこの怪米人の行動を怪んだ、クリコフ付添いの日共党員が、ホテルの宿帳を調ベてみると、アルバート・パ—ミン(ALBERT PARMIN)宿所連絡先AFO500=電話57・8507 勤務先U・S・ARMYと書かれてあった。

この日からこのパーミン氏はずっとクリコフに付きまとい、更に同日夜にはエドワード・マーチンと称する米人が現れてクリコフと酒食を共にした。

クリコフ付添いの日共上川地区委員会山口清さんはこれについて『数回にわたって「ソ連代表部は君を見放している。ソ連からさえ見捨てられて一体どうする気だ。アメリカに行く気があるなら飛行機で連れて行ってやる。家は準備してある」と持ちかけ、誓約書への署名を迫った。そして金に窮しているクリコフに規金一万二千円を与え、酒、女、金でクリコフを亡命させ、反ソ宣伝工作を行わせるつもりだったのだ』と語っている。

国警や札幌入管など治安当局も、最初は単なる観光客を日共が神経質に騒いでいるものと、見ていたらしいが、やがて、パーミン氏が日露英三国語をいずれも巧みに話すことや、 57・8507という電話の所在地が東京都千代田区霞ヶ関三ノ二、キャンプ東京であるなどの点に疑問をもち、それとなくクリコフの身辺に注意を向けるようになっていた。

赤い広場―霞ヶ関 p036-037 パーミンは米国の諜報機関員。

赤い広場―霞ヶ関 p.36-37 パーミンは米国の諜報機関員。
赤い広場ー霞ヶ関 p.036-037 Parmin is a U.S. intelligence agent.

二十二日記者団と会見したパーミン氏は『クリコフと話したのは母が亡命したロシヤ人なので、ロシヤ語やソ連人が懐しかっただけだ』と語り、伝えられていた噂を否足した。

その一日おいて二十四日午前十時頃、杉之原氏がルーノフ参事官と札幌グランドホテルで話をしている時、パーミン氏が米航空将校の服装で同ホテルから出ていった。

さらにもう一人のマーチン氏らしい人物が杉之原氏らの周囲をうろうろしていたが、やがて日航のバスに乗って姿を消したともいわれている。

いずれにせよ、これらの事実から国警や札幌入管では、マーチン氏はともかく、パーミン氏が米諜報機関関係者で、クリコフに何らかの工作をしようとしたのは確実だと見ているようだ。

ルーノフ参事官や杉之原氏が、数回にわたって札幌入管を訪れ「強制収容」を依頼した際その態度があまりに強硬、執拗であったことが、この見方を生んだものだ。

事実、札幌入管が東京の本庁から『強制収容の必要なし』と指示があったため、申人れを拒否すると、ル参事官は、『非常に不愉快な印象を受けた。この不愉快な印象はそのまま本国に報告されるだろう。そして三月初めの戦犯引揚げに影響を与えるかも知れない』と語ったと言われ、是が非でもクリコフの身柄を収容させたいようだった。また、ル参事官は旭川でクリコフと会った後、記者団にパーミン氏のことを告げられると『その話ははじめて聞いた』と手帳を出してメモをとったが、これはクリコフがなぜかパーミン氏との交際を、ル参事官に報告しなかった事実を物語るもので、ここにもクリコフがパーミン氏の工作によって動揺していた一つの証拠を見出せるわけだ。

日本に抑留中、生れてはじめてトルストイ、ドストエフスキーなど、ロシヤ古典を読む機会を持ったと語り、白くなった手をなでながら『こんなインテリの手になったのははじめてだ』と笑っていたクリコフが、酒、女、多額の金、将来の生活保障など、パーミン氏が持ちかけただろう条件に、心を動かしたかも知れないことは、容易に想像できる。

しかし、もしここでクリコフの米国亡命という事態が起ったとしたら、そして日本領海に入ったのは、スパイを送り込むのが目的だった、などと放送でもしたら、これほど日本国民にソ連諜報機関を知らせる宣伝材料はないだけに、ル参事官もクリコフが強制収容されることに懸命だったのだろう。

公判廷で密入国の意図を初めから否定していたクリコフが、札幌入管の「密入国」との認定には簡単に服したのも、ル参事官、杉之原氏らが、名はどうでも、できるだけ早く帰国させようと考えたためだろうと見られている。

相手は例の人浚いギャング団である。尾道へ無事送り届けるまでは、何時、何処で襲われるかも知れないというので、入管局では懸命の警戒をしいていたが、すでに占領は終っているので、そう手荒なこともできないと諦らめたらしく、クリコフ船長は二月二十八日、尾道市日立 向島工場内の、ソ連船セプザプレス号に無事乗船した。