ソ連のスメルシ(スパイに
死を!)機関の名の通りであり、「スパイは殺される」という不文律の厳しさを想って暗然とせざるを得なかった。
取材の対象は「何故自殺せざるを得なかったか――その真相」である。有罪でも最高たかが一年の刑である。日暮氏が逮捕された時、氏をよく知る(という意味は、氏の性格とか人となりばかりではなく、日暮氏が逮捕されるにいたった理由や経過を含めて)某氏から、私は忠吿を受けていた。彼は予言者のように、確信にみちてこうささやいた。
『日暮は……死にますよ』
私は息をつめて彼の顔を見返した。
『エ! やりますか?』
『やりますとも! 〝スパイは殺される〟ですよ。釈放になったら、すぐその時に会っておかねば馱目です』
流石の某氏も留置中にやるとは思えなかったらしい。しかし、死ぬべく運命づけられていた、ということでは、この某氏の判断が正しかったのであった。
自殺直後、調べ官の東京地検公安部長谷副部長検事は新聞記者たちに『自殺の原因については思いあたるフシもあるが、供述の内容にふれるので今はいえない。供述はある程度経った後
だった』と語っている。つまり、自殺の動機や真相のカギは、この長谷検事の調書にあるわけであるが、この「長谷調書」も「山本調書」と同じように筐底深く蔵されて、極く少数の関係係官以外には読んだ人とていない。
自殺の真相をたずねるため、ここでラストヴォロフと警視庁との間の、一つのエピソードを語ろう。ラ氏がヮシントンで山本課長にいった別れの言葉、『もう一度東京で暮らしたい。……だけど,その時には、もう貴下の部下も私を尾行しないでしょうね』という言葉にまつわる話である。
ラ氏はその手記でも述べているように、アメリカ人工作も任務としていた。そのためには麻布の東京ローンテニスクラブの会員になって、ジョージという通称で、米人たちと友人として 親しくつきあっていたのであった。
彼の手記にでてくる「ブラウニング夫人」なる米婦人についての情報は、日本側当局にはない。ただソ連代表部に出入りした米婦人についてはあるので、或はその婦人がブラウニング夫人なのかも知れない。米軍人については数名のデータがある。
たとえば、聖路加病院の軍医ラリー大尉である。当局筋の観察ではこのラリー大尉などが、ラ氏の〝西欧びいき〟を決定的にするのに、大きな影響を持った人だったのではないかという。