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最後の事件記者 p.210-211 警視庁の山本公安三課長に紹介

最後の事件記者 p.210-211 この中佐が、実は中共のスパイで、パイコワンがこの中佐としばしば会っている。つまりパイコワンにも、スパイという疑いがかかっていたのだ
最後の事件記者 p.210-211 この中佐が、実は中共のスパイで、パイコワンがこの中佐としばしば会っている。つまりパイコワンにも、スパイという疑いがかかっていたのだ

『ねえ、私、日本人にはお友達がいないのよ。どうしたらいいか判らないのよ。相談に乗って

ね』

彼女はこんな風にいった。彼女はこのクラブに、共同出資で投資して、千三百万円ばかりを出しているという。しかし、警視庁の手が入ったのでコワくなり、金をとりもどして手を引こうとしていた。

『もうイヤ。早くこの問題を片付けて、また映画をとりたいわ。香港の張善根さんなどからも、誘いがきているのだけど、クラブでお金を帰してくれないもの、私、食べて行けないわ』

そこで、彼女は形ばかりでも警視庁へ訴え出ようというのと、読売の租界記者と親しいことを宣伝して、クラブへの投資をとり返そうとしていたのだ。私は一日彼女を伴って警視庁の山本公安三課長に紹介した。

『課長さんのお部屋、ずいぶん立派ですのねえ』

などと、お世辞をいわれて、さすがは課長である。即座に言い返した。

『いやあ、どうも、私の課には、あなたのことを、良く知っているものがいますよ』

と、やはりお世辞のつもりでやったところ、パイコワンの眉がピクッと動いた。課長はすぐ言い直した。

『つまり、あなたのファンです。呼びましょうか』

ファンという言葉で、はじめて彼女は「どうぞ」と明るく笑った。その時の微妙な変化は、私の語る伝説を聞き終った時にも似て、何か考えさせられるものがあった。

当局には、パイコワンに関する、こんな情報が入っていたのである。例の何応欽将軍が日本へきた時、随員の一人に中佐がいた。この中佐が、実は中共のスパイで、国府側にもぐりこんでいたのだが、パイコワンがこの中佐としばしば会っているというのだ。つまりパイコワンにも、スパイという疑いがかかっていたのだった。

フト、音楽がやんだ。バンドの交代時間らしい。パイコワンはいった。

『私、日本人で、一人だけ好きな方がいました』

——あの表情の変化は、自分の悲しい恋を想って心動いたのかしら、それとも、中共スパイという、心のカゲがのぞいたのかしら?

中国に、中国人として生れて、上海、香港のような植民都市を好み、米人の妻となり、日本の恋人の面影を求めて、新らしい植民都市東京に流れてきた彼女。そこには、スパイではないかと疑っている官憲が、その挙動をみつめている。

護国青年隊関連資料/『日本を哭く』推薦の言葉・三田和夫

関連資料 元護国団団長・石井一昌著『日本を哭く』推薦の言葉 正論新聞編集長 三田和夫
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石井一昌著「日本を哭く」をご紹介する

正論新聞 編集長 三田 和夫

昭和三十二年春ごろのこと。当時、読売新聞社会部記者だった私は、光文社発行の「三光」(注・支那派遣軍の暴虐ぶりをバクロした本)が、護国青年隊の抗議に、広告を中止し、絶版を約束させられた、という情報を得て調べはじめた。と、岸首相が自民党幹事長時代に、やはりオドされて、金を出したという話も出てきた。当時の中村長芳秘書が、警視庁捜査二課に事情をきかれた、という。

それらの取材を終えて、社会面の大きな記事になったその日から、社の読者相談室は、護国青年隊の抗議の波状攻撃を受けて、騒然とした空気に包まれていた。

「三田の奴メ! 同志のような顔をしやがって、裏切りやがったな。どうするかみていやが れ!」(拙著「最後の事件記者」より)

そんな彼らの言葉も、耳には入ってきていた——それから一年余を経て、私は、横井英樹殺害未遂事件にからむ、安藤組の犯人隠避事件の責任を取って、読売を退社する。

昭和四十二年元旦付号から、私は、独力で「正論新聞」を創刊する。読売退社から八年余、雑誌の寄稿家として生活するうち、出版社の都合で、私の原稿はカットされ、ボツにされることが多くなった。本当のことを書くとモメるのである。「三田の原稿はヤバイ」ということである。そのため、自分が発行人で、編集人で、執筆者でなければならない、という結論に至ったからだ。

「私はかつて読売記者時代、『護国青年隊』の恐喝事件を取材して、総隊長・石井一昌に会った。昭和三十二年四月十九日である。その時の印象は、まさに粗暴な〝飢えた狼〟であった。彼は、読売記事を読んで激怒し、私を憎んだ。連日のように、読売本社に押しかけ、私を痛罵したものだった。

そして、本紙(注・正論新聞)がさる四十五年暮れに、『右翼暴力団・護国団』を取りあげるや、当時潜行中の彼は機関誌の『護国』に地下寄稿して、またもや、私を非難攻撃した。

しかし、因果はめぐる小車…で、私は、彼の自首説得に、小さな力をかすことになる。保釈になった彼は、その尊敬する先輩の事務所で、正論新聞の綴じこみを見て、質問したのだった。その先輩は、『真の右翼浪人たらんとするなら、正論新聞もまた読むべし』と訓えられたという。…こうして、私と彼とは満十五年目のさる昭和四十七年四月二十九日に、再び相会って握手をした」(正論新聞47・10・15付、連載『恐喝の論理…〝無法石〟の半生記』続きもののはじめに、より)

こうして、私と彼との交際がはじまり、すでに二十三年になる。さる平成六年四月二十九日、「護国団創立四十周年記念会」の席上、私は指名されて、あいさつを述べた。

「…実は、石井さんは、当時隊員たちに指令して、〝いのちを取っちゃえ〟という目標の人物を十五名リストアップしていた。その最後の第十六位にランクされたのが、私だったのです…」と。

いのちを〝取る〟側は、国の将来を憂えてその邪魔者を排除する信念。〝取られる〟側は、真実を書き貫こうとする信念。その死生観には、共通するものがあって、対立する立場を乗り越えて、結ばれた友人である。これをいうならば、〝怪〟友といわんか。それは 快友であり、戒友であり、魁友でもある。

平成三年十一月「正論新聞創刊二十五年を祝う会」で、私は、この話を披露した。「この席には〝捕える側〟も〝捕えられる側〟も参会されている…」と。

読売の警視庁記者時代に親しくした、土田国保、富田朝彦、山本鎮彦の昭和十八年採用の元長官たちと、石井さんはじめ、稲川会や住吉会の幹部たちのことを話したのだった。

昭和三十二年、売春汚職事件にからんだ立松記者誤報事件で、対立関係にあった当時の岡原昌男・東京高検次席検事(故人。元最高裁長官)も、「…正論新聞の論調は〝おおむね〟正論である。どうして、おおむねをつけたかといえば、ある時には、三田編集長の個人的見解が、色濃く出されているからです…」と祝辞を下さった——対立のあとにくる友情とは、こういうものであろうか。

「右翼といいながら、ゴルフ三昧の奴や、クラブを経営しているのもいるんだ」——このパーティーのあとで、石井さんは、痛憤の情を吐露した。

「ウン。むかしの『恐喝の論理』の続編でもやろうか。日ごろ、感じていることを、メモに書き留めておきなさいよ」と私。それからまた歳月が流れる。「石井一昌の憂国の書を出版したいんだ。もう年だから、総括をしておきたい。だれか、書き手を紹介してよ」と頼まれて、まる五年——とうとう、このほど「日本を哭く—祖国の建直し、魁より始めよ」が立派な本になった。

「この本のため、石井のいのちを取っちゃえというのが、現れるかもしれない。だが、自分の信念のために斃れるなンて、カッコいいじゃないですか」と、石井さんは笑う。かつて私は、彼の第一印象を、「粗暴な〝飢えた狼〟」と評した。が、いまも、顔は笑いながらも、眼は、決して笑っていなかった。

この著の、戦後秘史としての価値が大きいことを、ご紹介の第一の理由とする。

(平成七年十二月一日記)

赤い広場―霞ヶ関 p044-045 庄司・日暮の逮捕と山本調書。

赤い広場―霞ヶ関 p.44-45 庄司・日暮の逮捕と山本調書。
赤い広場ー霞ヶ関 p.044-045 Arrest of Shoji and Higure. And Yamamoto report.

多くの人が任意出頭という形式で呼ばれて調べられたり、訪ねてきた刑事に訊かれたりし

た。尾行や張り込みも行われた。

そして八月十四日の朝、庄司、日暮両氏の逮捕後、あの日米共同発表となったのである。

だが、九月三日になって、いつの間にか山本課長は調書もとらず、米側の作った英文供述書をもらっただけ(同日付朝日新聞)ということになり、さらに東京地検の長谷、桃沢両検事が、ラ氏の供述調書をとるために米国に派遣されるということになった。

これは一体どういうことなのか。表面の理由は「もともとこの種の事件は証拠が乏しいうえに、端緒となったラ氏はアメリカに保護されており、柏村、山本両氏の持帰った供述書もかなりぼんやりした、いわば〝手記〟のようなもので、警察官調書でも検察官調書でもなく、刑訴法上の証拠としては疑問があり、公判となった場合、問題となることは当然予想され た」(同上朝日)というのである。

この「証拠力が弱い」という理由は確かに事実ではあるが、そのすベてではない。山本調書はラ氏の署名もある立派な「司法警察員の調書」である。確かに証拠力が弱いという点はあるが、それよりも重大なのは、この調書が証拠として公判廷へ提出されれば、被告の弁護人は自由に閲覽し得るということである。この時にはすでに、庄司氏に自由法曹団の共産党弁護士がつき、庄司氏自身が黙否と否認で徹底的に法廷闘争する能度をみせており、事実、拘留理由開示法廷では『逮捕に政治的なにおいがある』と激昂するほどだったのである。

そこへこの調書を出すことは、当局側の手の内を、すべて見せることになる。山本調書には、庄司、日暮両氏関係以外の、ソ連スパイ網のことが記録されているのである。当局は遂に大蔵省に接衝して、予備費から百四十万円を支出させ、再び二人の検事を派米して、両氏関係だけの調書をとることになったのだ。そして、山本調書は警視庁のスチール・ボックスの奥深く隠され、残存ソ連スパイ網への捜査が続けられている。その意味では、〝ラストヴォロフはまだ日本にいる〟のである。これが「山本調書」の正体である。

さて、このラストヴォロフ騷動が、一まず静まった九月二十七日付の「アカハタ」紙は、

アメリカ諜報機関は、これまで三鷹、下山、松川事件のような謀略虐殺事件から、鹿地、三橋、関、ラストヴォロフ書記官事件にいたるまで、スパイ、挑発事件を数限りなく起して、日本人を苦しめてきた。舞鶴におけるCICの帰還者に対する調査は、これら一連の事件と無関係ではない。

として、「アメリカ諜報機関、帰国者をスパイ、舞鶴へ旧日本軍特務を派遣」なる記事を大 きく掲載した。

これは「シべリヤ横断軍事スパイ福島大将」を父に持つ「戦時中は北京、済南などで特務機関幹部として、侵略特務工作をやり、無数の中国人民を犠牲にした」「元陸軍少将男爵福島四

郎(六七)を中心とする謀略機関」が「CICの指導で引揚者の思想調査と謀略に従事」している、という内容である。

赤い広場―霞ヶ関 p052-053 日暮飛び降り自殺。その真相。

赤い広場―霞ヶ関 p.52-53 日暮飛び降り自殺。その真相。
赤い広場ー霞ヶ関 p.052-053 The truth of Higure jumping and committing suicide.

ソ連のスメルシ(スパイに

死を!)機関の名の通りであり、「スパイは殺される」という不文律の厳しさを想って暗然とせざるを得なかった。

取材の対象は「何故自殺せざるを得なかったか――その真相」である。有罪でも最高たかが一年の刑である。日暮氏が逮捕された時、氏をよく知る(という意味は、氏の性格とか人となりばかりではなく、日暮氏が逮捕されるにいたった理由や経過を含めて)某氏から、私は忠吿を受けていた。彼は予言者のように、確信にみちてこうささやいた。

『日暮は……死にますよ』

私は息をつめて彼の顔を見返した。

『エ! やりますか?』

『やりますとも! 〝スパイは殺される〟ですよ。釈放になったら、すぐその時に会っておかねば馱目です』

流石の某氏も留置中にやるとは思えなかったらしい。しかし、死ぬべく運命づけられていた、ということでは、この某氏の判断が正しかったのであった。

自殺直後、調べ官の東京地検公安部長谷副部長検事は新聞記者たちに『自殺の原因については思いあたるフシもあるが、供述の内容にふれるので今はいえない。供述はある程度経った後

だった』と語っている。つまり、自殺の動機や真相のカギは、この長谷検事の調書にあるわけであるが、この「長谷調書」も「山本調書」と同じように筐底深く蔵されて、極く少数の関係係官以外には読んだ人とていない。

自殺の真相をたずねるため、ここでラストヴォロフと警視庁との間の、一つのエピソードを語ろう。ラ氏がヮシントンで山本課長にいった別れの言葉、『もう一度東京で暮らしたい。……だけど,その時には、もう貴下の部下も私を尾行しないでしょうね』という言葉にまつわる話である。

ラ氏はその手記でも述べているように、アメリカ人工作も任務としていた。そのためには麻布の東京ローンテニスクラブの会員になって、ジョージという通称で、米人たちと友人として 親しくつきあっていたのであった。

彼の手記にでてくる「ブラウニング夫人」なる米婦人についての情報は、日本側当局にはない。ただソ連代表部に出入りした米婦人についてはあるので、或はその婦人がブラウニング夫人なのかも知れない。米軍人については数名のデータがある。

 たとえば、聖路加病院の軍医ラリー大尉である。当局筋の観察ではこのラリー大尉などが、ラ氏の〝西欧びいき〟を決定的にするのに、大きな影響を持った人だったのではないかという。

赤い広場―霞ヶ関 p054-055 米軍一等兵の愛人、鈴木千鶴子。

赤い広場―霞ヶ関 p.54-55 米軍一等兵の愛人、鈴木千鶴子。
赤い広場ー霞ヶ関 p.054-055 Chizuko Suzuki, Mistress of the 1st class soldier of the U.S. Army.

さらにジェニーことヴァイングトンという極東空軍の一等兵がいる。彼には新橋駅付近にたむろする夜の女で、鈴木千鶴子さんという愛人がいたのだった。彼女の新橋での通称は遠慮して、小柄などちらかといえば可愛い型の子である。

ジェニーは一等兵だからあまりお金を持っていなかった。だが、やがてお金をつくる方法を思いついた。部隊の話をソ連人が買ってくれるだろうというのである。ミグで脱出した北鮮人のように、十万弗ぐらいはくれるかも知れないと考えた。しかし、どうしたらそのソ連人に逢えるか分らない。そこで彼女に相談してみた。

彼女の答は簡単だった。

『ソリャ、ソ連大使館できけばいいわよ』

『どうして行って、何てきくんだい?』

『いいわ。アタシが行ったげる……』

こうして彼女は麻布の元代表部に、一人でのこのこと出かけていった。その時に彼女の話に乗ってきたのがラストヴォロフだったのである。

元代表部にはこのほかにも、米兵自身のネタの売込みなどの例があった。しかし、そんなのはとるに足らないので、ウルサク思ったソ連側では、その米兵の部隊に通知してやったということもあった。

彼女の話で、ラ氏は出かけてきてジェニーとレポをした。これをつかんだのが当局である。 こうして、ラストヴォロフ二等書記官は注視され、やがて実は政治部中佐という階級を持つ、 内務省系のスパイ組織者だということまで分ってきた。

そのころにはすでに日本は独立国となり、刑事特別法という、駐留米軍の機密を守る法律ができていたのである。ラ氏の行動は同法違反であるという確信を得た。

当時の課長は、何しろメーデー事件や五・三〇、六・二五各事件で、断乎として大量の朝鮮人を検挙して、〝坊ちゃん課長〟から〝鬼の山チン〟に変えられたほどの山本課長である。土性ッ骨が太くて、思い切ったことを果断実行する人である。

課内の意見は、「現行犯検挙」と決った。さらに、検察庁、外務省など関係当局との間で幾度か会議が開かれ、警視庁の意見が容れられた。この時には伊関国際協力局長、新関欧米第五課長などが相談にのり、検挙後の外交交渉の問題などが研究されていた。そして、新関課長の腹心日暮氏が、また当然その諮問に応じていたのである。

ジェニーの彼女は日本人であった。係官が事件の理由を説明して、率直に彼女の協力を求め た。