最後の事件記者 p.050-051 懐しき悪童の頃

最後の事件記者 p.050-051 思想的立場の違う弁護士と新聞記者、しかも物別れになった事件を抱えてはいたが、小学校六年問の池袋かいわい、駕籠町の五中へ通っていたころの、たのしい想い出話がはずんだ。
最後の事件記者 p.050-051 思想的立場の違う弁護士と新聞記者、しかも物別れになった事件を抱えてはいたが、小学校六年問の池袋かいわい、駕籠町の五中へ通っていたころの、たのしい想い出話がはずんだ。

二人は時間のたつのも忘れて、すっかり話しこんでしまった。私が逮捕されるや、新聞記事をみた石島弁護士は、私の妻へ電話してきて、「お役に立てるなら、何時でも、どうぞおっしゃって下さい」と温かい言葉を贈ってくれたのだった。

あこがれの新聞記者

懐しき悪童の頃

悪童の昔は懐かしい。思想的立場の違う弁護士と新聞記者、しかも物別れになった事件を抱えてはいたが、小学校六年問の池袋かいわい、静かな大和郷を抜けて、駕籠町の五中へ通っていたころの、たのしい想い出話がはずんだ。

大正十年六月十一日、横井事件の発生と日を同じうして、大阪府下豊中郡(現豊中市)で私は生れた。当時、九大助教投を辞して、大阪市に大きな外科病院を経営し、その院長となっていた、父源四郎の五男であった。生後一年半で、〝医者の不養生〟から脳炎に倒れた父に死別し、一家は郷里岩手県盛岡市に帰ってきた。

キリスト教会の幼稲園から、県立女子師範の付属小学校二年に進んだ時、一家はあげて東京へ 移り住んだのである。当時の私は成績優秀で、石島や商法の東大助教授三ヶ月章らと、一、二を争うほどであった。