石島弁護士」タグアーカイブ

最後の事件記者 p.036-037 この記事はモメるゾ!

最後の事件記者 p.036-037 ――この記事はモメるゾ! ――来たナ! しかも、石島か! 共産党関係の公判廷で、「…自由法曹団の石島弁護人が鋭く検察側に食い下った…」旨の記事をよく読んでいたのだ。
最後の事件記者 p.036-037 私に石島弁護士が面会を求めている、と伝えてきた。――来たナ! しかも、石島か! 共産党関係の公判廷で、「…自由法曹団の石島弁護人が鋭く検察側に食い下った…」旨の記事をよく読んでいたのだ。

——ウーン。ウマク使いやがるなア!

私はその夕刊を開いて、社会部と整理部のデスク(編集者)の腕の良さに、しばらくの間は、感嘆のあまりウナったほどだった。

——この記事はモメるゾ!

同時に直感した。私の記者生活の経験から、記事の反響は本能的にカギわけられる。案の定、翌四日になると、K氏から抗議がきたし、村木弁護士からも、「K氏が大学で吊しあげられたので、慌てだしている」と伝えてきた。

その数日後、社の受付から、私に石島弁護士が面会を求めている、と伝えてきた。

——来たナ! しかも、石島か!

私は緊張した。三階に通すように答えると、もう一度、取材の経過をそらんじてみたのである。「大丈夫!」、自分自身にいい聞かせる言葉だった。「オレは自信のない取材をしたことはないンだ!」

昭和二十三年から四年にかけての、約一年間というものを、私は司法記者クラブですごした。そのため、裁判記事には関心があり、共産党関係の公判廷で、「…自由法曹団の石島弁護人が鋭

く検察側に食い下った…」旨の記事をよく読んでいたのだ。石島弁護人というのは、戦斗的な気鋭の弁護士だと承知していた。

第二の裏切り

K被告の記事は、すでにアカハタ紙が、「読売新聞またもウソ、全く記者の作文」と大きく反ばくし、東大学生新聞もまた、「商業紙の正体暴露、驚くべき虚偽の報道」と、全面を費していたのだった。

だから、私としても、弁護士付添の正式の抗議ともなれば、相当の覚悟がいる。しかも石島という名前も、負担だった。社会部長に報告して、私は編集局入口の応接間のドアを開いた。

『アッ! 何だ! 石島というのは…』

『やっぱり、三田ッて、お前か!』

同時に二人の口をついて出てきた叫びだった。めぐりあい、だったのである。いうなれば、 敵、味方に分れ、対立した立場で、たがいに男の仕事の場での、めぐりあいだった。

昭和十四年三月、東京府立五中を卒業したわれわれは、新橋の今朝という肉屋の、酒まで並べ た別れの会から、十三年半ぶりで再会したのだった。

最後の事件記者 p.038-039 あれは読売が勝手にやったこと

最後の事件記者 p.038-039 このトラブルの原因の最大のものは、K氏の功利的なオポチュニストという、その人柄に問題があったのである。もちろん、私の記者としての態度にも問題はあった。
最後の事件記者 p.038-039 このトラブルの原因の最大のものは、K氏の功利的なオポチュニストという、その人柄に問題があったのである。もちろん、私の記者としての態度にも問題はあった。

昭和十四年三月、東京府立五中を卒業したわれわれは、新橋の今朝という肉屋の、酒まで並べ

た別れの会から、十三年半ぶりで再会したのだった。しかも、石島と私とは、小学校、西巣鴨第五尋常小学校(のちの池袋第五小)でも同級で、一、二番を争った仲だったのだ。何という奇遇だったろうか。

二人は思わず握手をしていた。

『石島とは聞いてたが、フル・ネームが出てなかったので、君とは思わなかった』

『オレもそうなんだ。三田という、あまりない姓だから、モシヤとも思ったンだ』

この意外な展開に、一番呆ッ気にとられていたのは、K氏だったろう。だが、しばらくのちに、石島弁護士は形をあらためて、私の記事への抗議に入った。私も、我に返って身構えた。

彼の抗議は鋭い。微細な点まで根拠を突ッこんでくる。私は突ッぱねるべきは突ッぱね、説明すべきは説明した。約一時間のち、会見は物別れとなった。

このトラブルの原因の最大のものは、K氏の功利的なオポチュニストという、その人柄に問題があったのである。もちろん、私の記者としての態度にも、たった一つだけ問題はあった。

この抗議のある前に、私が調べてみた事情はこうだった。K氏はこの記事の出た翌日、学校へ行った時に、裏切者として相当吊しあげられた形跡があるのである。

自分が毎日生活する周囲から、こんなに強い反撥を受けたのでは、全くやり切れるものではない。K氏の態度は、また、変ったのであった。あれは読売が勝手にやったことであって、私は知らない、私だって迷惑しているのだ、と。

一人の女を捨てることのできる男は、二人の女をも捨てられる。こんな言葉がある。最初に、仲間を裏切った彼は、また、第二の仲間をも裏切ったのである。それと同時に、彼の感じたものは、新聞への無知、ということであろう。

つまり、読売という大新聞のトップ記事の影響力の強さを、彼は私と話している間には、それほど感じていなかったのであろう。しかも、彼のひややかな裏切行為が、かくも派手に、かくも効果的に使われるとは! というのが、彼の実感だったに違いないと、私は今でも信じている。

彼は信念のない人である。こういう種類の人物は、いかようにも使えるのである。私はこの「共産党はお断り」というスクープを、与論形成者として、意識的に造ったのであった。K氏は、その素材である。

最後の事件記者 p.050-051 懐しき悪童の頃

最後の事件記者 p.050-051 思想的立場の違う弁護士と新聞記者、しかも物別れになった事件を抱えてはいたが、小学校六年問の池袋かいわい、駕籠町の五中へ通っていたころの、たのしい想い出話がはずんだ。
最後の事件記者 p.050-051 思想的立場の違う弁護士と新聞記者、しかも物別れになった事件を抱えてはいたが、小学校六年問の池袋かいわい、駕籠町の五中へ通っていたころの、たのしい想い出話がはずんだ。

二人は時間のたつのも忘れて、すっかり話しこんでしまった。私が逮捕されるや、新聞記事をみた石島弁護士は、私の妻へ電話してきて、「お役に立てるなら、何時でも、どうぞおっしゃって下さい」と温かい言葉を贈ってくれたのだった。

あこがれの新聞記者

懐しき悪童の頃

悪童の昔は懐かしい。思想的立場の違う弁護士と新聞記者、しかも物別れになった事件を抱えてはいたが、小学校六年問の池袋かいわい、静かな大和郷を抜けて、駕籠町の五中へ通っていたころの、たのしい想い出話がはずんだ。

大正十年六月十一日、横井事件の発生と日を同じうして、大阪府下豊中郡(現豊中市)で私は生れた。当時、九大助教投を辞して、大阪市に大きな外科病院を経営し、その院長となっていた、父源四郎の五男であった。生後一年半で、〝医者の不養生〟から脳炎に倒れた父に死別し、一家は郷里岩手県盛岡市に帰ってきた。

キリスト教会の幼稲園から、県立女子師範の付属小学校二年に進んだ時、一家はあげて東京へ 移り住んだのである。当時の私は成績優秀で、石島や商法の東大助教授三ヶ月章らと、一、二を争うほどであった。