読売梁山泊の記者たち p.048-049 こういうのを「号外落ち」という

読売梁山泊の記者たち p.048-049 「バカヤローッ!」と、二、三十メートルも離れた社会部長席から、竹内の大音声がとどろいた。編集局中が、一瞬、何事が起きたのかと、静まったほどの大喝であった。
読売梁山泊の記者たち p.048-049 「バカヤローッ!」と、二、三十メートルも離れた社会部長席から、竹内の大音声がとどろいた。編集局中が、一瞬、何事が起きたのかと、静まったほどの大喝であった。

記者・カメラ・自動車の個性豊かな面々

竹内四郎社会部長の、「バカヤローッ!」という大喝を浴びた記憶が、私にも生々しく残っている。

昭和二十四年四月四日、政府は、団体等規制令を、公布、即日施行とした。そして、九月八日、この団規令によって、在日本朝鮮人連盟(朝連)など、朝鮮人関係四団体の解散を指定したのであった。

前年の二十三年秋から、司法記者クラブに移っていた私は、もっぱら、帝銀事件の平沢貞通の公判を担当していた。

政治部の法務記者クラブでは、法務庁そのものの担当で、三品鼎がいた。社会部は、裁判所と検察庁を受け持ち、司法記者クラブといった。

竹内の子分をもって任じていた、警察記者のボス、はんにゃこと稲垣武雄がキャップ。その下に、井浦浩一、立松和博、萩原福三と私がいた。井浦は、社歴が一、二年古いのでバイス・キャップと自称して、私たち三人との折り合いが悪かった。

と、そこに、朝連解散である。翌九日付の記事の書き出しが、「政府は八日午前十一時…」とある。多分、十一時半ごろには、記者クラブで発表された、だろう。読売だけは記者がだれも出ていない。

夕刊がなくとも、号外はある。街々に、号外の鈴の音が響き渡るころ、萩原あたりが、あわてて、原稿を社に送る。朝日、毎日の号外が、有楽町界隈に貼り出されている、というのに、読売だけは、いま、送稿中だ。

こういうのを、「号外落ち」という。発表モノでなくとも、大きな事件などで、一社だけ、記事が出ていないのは、「特落ち」である。新聞社は、できて当たり前、できねばボロクソの、優勝劣敗、適者生存の原則に厳しい。

原稿を送り終わって間もなく、手まわし直通電話が、チリチリリと鳴って、「稲公! すぐ社に上がってこい!」と、竹内部長の怒鳴り声が響いた。

ユーウツな数時間が過ぎて、夕方ともなれば、どうしても、社に上がらざるを得ない。私たち三人は、屠所にひかれる羊のように、先を譲り合いながら、編集局の入り口に立った時だった。

「バカヤローッ!」と、二、三十メートルも離れた社会部長席から、竹内の大音声がとどろいた。編集局中が、一瞬、何事が起きたのかと、静まったほどの大喝であった。

三人とも、顔色を失って、この大音声に引き寄せられるように、部長席の傍らに、首うなだれて、立ち並んだ。竹内は、ジロリ、ジロリと、三人の顔をニラミつけただけで、一声も発しないのだ。

長い、長い沈黙がつづいた。あとで気がつくと五、六分間ぐらいだったが、それこそ小一時間にも感じた〝時間〟だった。

「オイ、もう、いいぞ。こっちへ来い」

般若の稲ちゃんの顔が、菩薩さまに見えた感じがした——竹内は、もはや、小言のひとつもいわなかった。三人は、稲ちゃんに連れられて、付近の喫茶店に入って、我に返ったのだった。