読売梁山泊の記者たち p.100-101 日本テレビを創立させたのはオレだ

読売梁山泊の記者たち p.100-101 当時は、だれも資本を出そうとしなかった。その時、遠藤は、保全経済会・伊藤斗福に話を持ちこみ、ポンと四億円を出資させ、ようやく、日本テレビがスタートしたのだ。
読売梁山泊の記者たち p.100-101 当時は、だれも資本を出そうとしなかった。その時、遠藤は、保全経済会・伊藤斗福に話を持ちこみ、ポンと四億円を出資させ、ようやく、日本テレビがスタートしたのだ。

森脇将光。この、高名なる人物も、九十歳近い高齢と、病気で、刑の執行免除が、昭和天皇恩赦で

決定した、という。もう、〝昭和戦後史のスター〟も、過去の人となった。

東京地検特捜部、河井信太郎検事一派が摘発した、「造船疑獄」における「森脇メモ」で、河井検事に踊らされ、揚句の果ては、河井に逮捕された。やはり、当時の〝スター〟であった、吹原弘宣に大金を貸して、その取り立てをめぐって、三菱銀行長原支店から、三十億円を詐取した、というもの。

詐欺。私文書偽造、同行使。有価証券偽造同行使。恐喝未遂、法人税法違反、金利取締令違反——この数多い、公訴事実のため、晩年の森脇は、法廷闘争に追われる毎日で、一審は、懲役十二年、追徴金四億円の判決だったが、控訴審で一部無罪となり、懲役五年、追徴金三億五千万円。それが確定していたのだった。

森脇に随身していた平本も、共犯に問われて、懲役二年、執行猶予三年の判決で、すべて終わっている。あのグループのなかで、最初にペンを捨てた平本だが、いまは、それなりに、実業の世界で地位を築いている。

森脇は、本気で出版を考えたワケではなく、高利の所得隠しと、情報収集が目的だったのだから、読売を追われた遠藤の話を聞き、日本テレビ創立時のウラ話を本にしよう、と狙ったのだろう。

というのは、正力松太郎・読売社主の日本テレビ構想は、あまりの〝時代の先取り〟だったので、当時は、だれも資本を出そうとしなかった。

その時、遠藤は、保全経済会・伊藤斗福に話を持ちこみ、ポンと四億円を出資させ、ようやく、日

本テレビがスタートしたのだ。だが、やがて、保全経済会は当局の摘発を受ける。そうなると、力道山のプロレスと街頭テレビで、隆盛の道を進みはじめていた日本テレビは、保全が株主であることに、重荷を感ずるのは、当然であったろう。

最近でいえば、豊田商事が株主、ということになるだろうか。

と同時に、「日本テレビを創立させたのはオレだ」「正力のジイさまも、オレには頭が上がらない」と、吹聴して歩く遠藤が、読売や日本テレビの幹部には、うっとうしい存在になってきたのも、これまた、当然の成り行きであろう。

つまり、戦前のタネ取り時代、しかも三流紙の読売に入った人たちは、戦後の激動期に、そして、読売の興隆期には、去って行くか、適者生存の原則で、出世してゆくかの、どちらかであったのだ。

時代の変化に、ついてゆけるかどうかは、その人の、人間性ばかりではなく、能力の問題もあるのだった。その点、遠藤は、まちがいなく〝異物〟であった。日本テレビの創立当時の株式の問題があって、遠藤はなまじ〝江戸城の抜け穴〟を掘ってしまった大工だ。それを、グッとハラの中に納めるだけのチエがあったならば、決して、読売を追われることはなかったのである。

遠藤自身の社会部記者像は「事件派と綴り方派」という分類で、事件派とは、論争ができずに、すぐ暴力に訴える〝無頼〟そのものの、戦前派の社会部記者像である。

それは、〝軍部という名の暴力〟が、日本全土を支配しており、厳しい言論統制下にあった時代だから、遠藤が、そういう〝思いこみ〟に陥ったことを、責めようとは思わないが、戦後、時代は一変し

たのである。