読売梁山泊の記者たち p.102-103 彼の著書はその〝恨み節〟

読売梁山泊の記者たち p.102-103 それを認識できなかったところに、遠藤の悲劇があった。数多くの特ダネで、読売の紙面を飾り、かつ、日本テレビ設立に貢献しながら、彼は、石もて追われたのであった。
読売梁山泊の記者たち p.102-103 それを認識できなかったところに、遠藤の悲劇があった。数多くの特ダネで、読売の紙面を飾り、かつ、日本テレビ設立に貢献しながら、彼は、石もて追われたのであった。

遠藤自身の社会部記者像は「事件派と綴り方派」という分類で、事件派とは、論争ができずに、すぐ暴力に訴える〝無頼〟そのものの、戦前派の社会部記者像である。

それは、〝軍部という名の暴力〟が、日本全土を支配しており、厳しい言論統制下にあった時代だから、遠藤が、そういう〝思いこみ〟に陥ったことを、責めようとは思わないが、戦後、時代は一変し

たのである。

昭和二十七年四月二十八日で、連合軍の占領が終わり、それまでの〝プレスコードという名の言論統制〟も、終わった。基本的には新憲法によって、すでに、自由と民主主義時代になっていたのであった。

それを認識できなかったところに、遠藤の悲劇があった。数多くの特ダネで、読売の紙面を飾り、かつ、日本テレビ設立に貢献しながら、彼は、石もて追われたのであった。彼の著書は、その〝恨み節〟である。新聞記者として、最大の恥辱である、著書の一括買取り、断裁という〝末路〟さえ、おのれの〝末路〟にダブらせて、予見することもできなかった、のだった。

原四郎のいう、豪傑・快物とは、決して、遠藤流の社会部記者ではない。とすると、やはり〝異物〟なのである。原が、あえて、社会部長五年目の昭和三十年の編著に、「社会部記者像として、豪傑、快物、異物」と、指摘したのも、社会部から、イヤ、編集局から、読売新聞から、異物一掃を意図していた、と考えられる。

私の読売社歴十五年での、十二冊の社員名簿を繰っていくと、いつの間にか、戦前型の〝異物記者〟の名前が、次々と、消えていっているのだった。送別会ひとつ開かれないまま、名簿から、名前が無くなっている…。

遠藤の「大人になれない事件記者」の、奥付を見ると、一九五九・三・一五第一刷発行とあり、そ

の次の行には、位置がズレて、四・二五第四刷発行と、刷りこんである。つまり、森脇文庫側で、発行部数を水増ししたと判断される、痕跡が残っている。

誰と誰との間で、一括買い取り、断裁になったのか、遠藤は語らなかったが、「もう、手に入らない本だから、キミに一冊やるよ」と、手交された時、断裁されたことを話していた。

そして、誰が儲けたのかも、私は知らないが、森脇将光は、アンダー・グラウンドの人物を数多く知っている遠藤の、利用価値を考えていたのだろう、と思う。

遠藤は、「潜行記者活動は、戦後に私が切り開いた、記者活動のジャンルだ」という。いまでいう、調査取材のことだ。

原が部長になって、間もなくのころだったと思う。社内の会議室で、「部会」という、仕事の打ち合わせと懇親の会が開かれた。

ツマミとビール程度が出て、遊軍(本社詰め記者)を中心に、その日に、社に上がってきた、クラブ詰め、サツ廻りなど、二、三十名が出ていただろうか。

話題が、たまたま、日本共産党の動向に関して、各担当記者たちの意見が出された。原は、それらを黙って聞いており、筆頭次長の羽中田が、進行を勤めていた。

その時、遠藤が、口をはさんできた。あまりにも、基礎知識のなさすぎる発言に、私もつい、彼の

発言を攻撃してしまった。しかし言葉遣いには注意して、先輩への礼を失しない、心配りはしていたつもりだった。