「特オチの後始末だが、オレが進退伺いを出すんだが、お前も、黙って始末書を出せ」
「ハイ、部長がそういうのなら、私も黙っていわれた通りにします」
景山とは、そういう人柄の人物であった。そして、それなりに、部長を理解できる部下からは、良く慕われていたが、ある意味では古いタイプの〝社会部派〟の記者であった。人情に篤く、温厚な人柄ではあっても、もうひとつ、原のような鋭さや〝非情さ〟に欠けていた。
数日たって、処分の辞令が、社内に掲示された。社会部長は譴責罰俸。私は、罰俸一カ月、とあって、処分者は二名だけ。デスクはお構いなしだった。
原四郎が七年間も社会部長、ということの意味の重要さは、毎日、毎日の朝夕刊の「紙面」というクビのかかった生活のなかで、名部長といわれるほどに、ほとんどまったくミスがなかった——ということなのである。だからこそ、七年間も、「社会部長」がつづいたのだ。
そしてそれは、原が、統率の才にめぐまれていたことと同時に、さらに「新聞の体質」が、原という「記者の体質」と、同一だったことである。
だが、景山は、あまりにも人情家でありすぎた。「ホトケのカゲさん」だったのである。「立松事件」という、日本新聞史に記録される、大誤報事件は、遠因として、山崎次長のミスを秘かに救ってやった景山温情部長の、部長としての在り方、姿勢に、すでに胚胎していたと私は思う。同じように、長期病欠から復帰してきた立松記者への思いやり、温情が、かえって裏目に出たのであった。
第三章 米ソ冷戦の谷間で〈幻兵団〉の恐怖