読売梁山泊の記者たち p.130-131 青木照夫もその一人である

読売梁山泊の記者たち p.130-131 それまで、私は自分の体験から、着々と、シベリア捕虜に対する強制スパイの取材を進めていた。~整理部長の南滋郎が、「ウン、これは、マボロシのようなもんだから、幻兵団と名付けよう」と、叫んでいた。
読売梁山泊の記者たち p.130-131 それまで、私は自分の体験から、着々と、シベリア捕虜に対する強制スパイの取材を進めていた。~整理部長の南滋郎が、「ウン、これは、マボロシのようなもんだから、幻兵団と名付けよう」と、叫んでいた。

第三章 米ソ冷戦の谷間で〈幻兵団〉の恐怖

シベリア引揚者の中にソ連のスパイ

満二年のシベリア抑留中に、私は、イルクーツクのそばの、バイカル湖沿いの炭鉱町、チェレムホーボの収容所で、KGBの少佐によって、「スパイ誓約書」に署名させられたという経験を持つ。

「…日本に帰ってからも…」という条項の入ったその誓約書は、シベリア抑留者の多くに暗い、重い心の負担であったに違いない。

現に、私の読売同期生で、私より一年遅れて帰国した青木照夫も、その一人である。彼は、報知新聞編集局長の現職で、早逝してしまったが、この心の重みが、彼の死を早めたのかも知れない。

昭和二十四年の暮れ、私は梅ヶ丘の都営住宅に入り、青木も、空家抽せんで、同じ平屋一戸建の都営住宅に入居していた。

寒さが、しんしんと夜気を静まらせていた深夜、米占領軍のジープの音が響き、声高な罵り声が聞こえて、目が覚めた。何事かと起き出して行ってみると、ジープが止まっているのは、青木の家だったのである。

二日か、三日、青木は帰ってこなかった。もちろん、出社していなかった。数日後に青木の家をのぞいてみると、元気のない様子で、彼が現われた。

その夜、二人は話し合った。彼が、「スパイ誓約書」に署名し、合言葉の男が訪ねてきたことを、私に打ち明けたのである。

それまで、私は自分の体験から、着々と、シベリア捕虜に対する強制スパイの取材を進めていた。事実を竹内部長だけに打ち明けていた私は、青木の告白で、最終的な取材を終えた。

シベリア捕虜たちが、誓約書の文言に縛られて、心の重荷を背負って生きていることへの、〝気晴らしのレポート〟として、このスパイ実話を、翌二十五年一月十一日付朝刊の全面を埋めて、第一回分を発表した。

整理部長の南滋郎が、「ウン、これは、マボロシのようなもんだから、幻兵団と名付けよう」と、叫んでいた。この「幻兵団」の記事には、前段がある。シベリア復員者の「代々木詣り」という記事である。

私が日大で三浦逸雄先生(三浦朱門氏の父君)に教えられた最大のものは、資料の収集と整理、そのための調査、そして解析である。

それが実際に成功したのが、ソ連引揚者の〝代々木詣り〟というケースだった。上野方面のサツ廻りであった私は、上野駅に到着する引揚列車の出迎えを、欠かさずにやっていた。

そこで、婦人団体よりもテキパキと援護活動を奉仕している学生同盟の、それこそ、献身的な姿が見られた。ところが、その学生の一人が、ついに殉職するという、悲惨な事件が起きたのである。

それからの私は、毎日詳細な記録をとりはじめた。品川、東京、上野の三駅での、学生同盟と共産党との対立が、目立って激しくなってきた。共産党は何をしようとしているのだろうか。党勢拡張を

狙う共産党は、東北、北海道方面の引揚者が、上野駅で乗換時間に余裕のあるのをみて、この時間を利用して、党本部訪問という計画を実行しはじめていたのである。