読売梁山泊の記者たち p.172-173 常に戦争の残滓を背負い

読売梁山泊の記者たち p.172-173 今村一郎——国学院大学を出て、兵隊で満州へ送られ、甲種幹部候補生から、ハルビンの露語教育隊に入り、少尉任官。ハルビン特務機関に所属する、陸軍中尉であった。つまり、第一線の対ソ・スパイのひとりだった。
読売梁山泊の記者たち p.172-173 今村一郎——国学院大学を出て、兵隊で満州へ送られ、甲種幹部候補生から、ハルビンの露語教育隊に入り、少尉任官。ハルビン特務機関に所属する、陸軍中尉であった。つまり、第一線の対ソ・スパイのひとりだった。

コンクリート壁をも通す、その性能にビックリした課長は、重大な決心をした。その機器を電機メ

ーカーに渡し、分解して、同じ性能のコピーを造るよう、依頼したのである。

数日間の日程を終えて、その代表団が離日した後、村井課長は、「担当員が操作を誤って失敗した」と、米側に頭を下げ、ナニ食わぬ顔で、コピー済みの盗聴器を返した。それ以後、日本警察の盗聴術は、格段の進歩をしたのだった。

近代諜報戦が変えたスパイの概念

時代の流れは、公安・外事が主流になるべく、動き出していた。それは人事面でも、土田国保、富田朝彦、山本鎮彦といった人材たちを、登用してゆく方向からも、裏付けられている。いずれも、公安・外事に眼を見開いていた連中である。

警視庁七社会(読、朝、毎、東、日経、共同、時事新報の七社の、記者クラブ)での、私の相棒は、北海道新聞から移ってきた、深江靖であった。彼は、東京外語のロシア語科の出身だった。

さる平成元年十二月八日、私のデスクの上に置かれた郵便物のなかに、一通の黒枠のハガキがあった。「今村由紀子」という差出人の名前に、ハテナ、と首を傾げた。それから、視線を本文に走らせて、アッと声をのんだ。

「平成元年十一月二十一日(七十二歳)の誕生日に、夫一郎が心のう血腫で急逝致しました。兼ねてからの遺志により、通夜及び葬儀は、近親者のみにて相済ませました。

常に戦争の残滓を背負い、厳しく自己を律して、その信念のままに、最後の日まで仕事に励み、潔

い生涯であったと思います。

故人に生前賜わりました御芳情に対し、厚く御礼申し上げここに御通知申し上げます」と、あった。想えば、その日は、〝常に戦争の残滓を背負い、とある、太平洋戦争勃発の日であった。

今村一郎——国学院大学を出て、兵隊で満州へ送られ、甲種幹部候補生から、ハルビンの露語教育隊に入り、少尉任官。ハルビン特務機関に所属する、陸軍中尉であった。つまり、第一線の対ソ・スパイのひとりだった。

そして、彼と私との出会いは、昭和二十五年一月十三日付の「幻兵団第二報」に、今村が、〝鈴木〟という仮名ながら、横顔の写真入りで登場しているので、多分、前年の十二月ごろのことであろう。

晩年の今村は、端正な顔立ちに、やや白髪を交えこそしたが、背筋を伸ばし、胸を張った姿勢で、待ち合わせの喫茶店に現われた。気取った挙手の敬礼をして、「ズドラースチェ(今日は)」といった。

それこそ、将校服と正帽の似合いそうな男だったが、彼は、陸軍中尉の軍服を着用したことはなかった、だろう。

それなのに、ナゼ、「常に戦争の残滓を背負い…」と、夫人をして、書かしめたのだろうか。どうしても、今村一郎について、語らねばならない。戦後の四十年、東欧貿易の商社員という名刺こそ持ってはいたが、公然たる定職もなく逝ってしまった男の、これは墓碑銘である。

哈爾浜(ハルビン)、小上海と呼ばれる、エキゾチックな街である。ロシア革命以後、亡命した白系

露人が多く住んでいた。そして、黒竜江をはさんで、中国側が愛輝、ソ連領がブラゴベシチェンスク、とある。愛輝とは、黒河という町で、地図にも、カッコつきで、示されている。