読売梁山泊の記者たち p.170-171 NKの政治部将校が同行

読売梁山泊の記者たち p.170-171 亡くなった綜合警備保障の村井順が、まだ国警本部警備課長だったころ、ソ連から代表団が来日した。米側にとっては、情報入手の好機でもある。村井課長は、米国製の優れた盗聴器を渡され、ホテルでの盗聴を、米占領軍から命令された。
読売梁山泊の記者たち p.170-171 亡くなった綜合警備保障の村井順が、まだ国警本部警備課長だったころ、ソ連から代表団が来日した。米側にとっては、情報入手の好機でもある。村井課長は、米国製の優れた盗聴器を渡され、ホテルでの盗聴を、米占領軍から命令された。

その結果、米国側では、三橋の密告によりそのレポとして、ソ連のスパイである一人の男を逮捕した。調べてみると、意外なことには、この男は、米側のスパイであるはずの、鹿地だということが、

判ったから大変だ。

米国側が怒ったのも無理はない。飼犬に手をかまれていたのだ。それから、鹿地証言にあるような拷問が行なわれた?

ソ連のスパイをやっていたが、逆スパイになれというだけなら、こんな拷問をせずもっと賢明な方法がある位のことは、いくらなんでも、米国諜報員が知っているはずである。米国側には、鹿地が米国スパイとして、働いた記録があるそうだから、やはり裏切者への怒りが、爆発したのであろう。

その頃には、米国側では、鹿地を殺すべく計画していた、かも知れない。そして鹿地はその米国側の企図を察知したか、または他の理由で自殺(狂言?)を図った。

折よく、肺病が再発したので各所を転々、殺すか、釈放するかを打ち合せ中、〝謀略のマーフィー〟といわれる、マーフィー大使が着任、さらに利用価値があるかも知れない、というので、たらい廻しのまま時が経ってしまった。

またソ連側では、鹿地が消息を絶ったので、調べてみると、米側に逮捕されたと分かった。そこで日本の世論をわかして、鹿地を釈放させ、さらにこれを、反米感情をたかめるのに、利用したのではあるまいか。それを証拠だてる有力な資料が、怪文書である。この文書なるものが、左翼系から流されたであろうことは、明らかであるが、なぜか、「アカハタ」(現・赤旗)には、この好個のニュースが一言半句も掲載されなかった。とすれば、鹿地逮捕を知ったソ連側が鹿地に行なわれた虐待を、反米感情をかき立てる材料として、ヘタクソな英文に託して、怪文書なるものを作成させ、バラまかせ

たことが、容易に推測できる。これは、「敵の手で敵をたおす」という、諜報謀略の原則からも、うなずける推理であろう。

三橋は、アメリカ側の逆スパイとして、働くようになった。その三橋が、はしなくも、ここに無電スパイとして、けんらんたるお目見得をすることになった。それは、鹿地事件における、日本世論の硬化に驚いて、鹿地を釈放せざるを得なかった米国側の鹿地問題処理策でもある。

自らの不手際のため、鹿地問題でその虚をつかれた米国側としては、釈放に当たって、鹿地から、「私はソ連スパイだった、この事件で米国に対しては賠償要求などしない」と、一札をとってはおいたけれど、すでに、鹿地を反米闘争の英雄として祭り上げるお膳立てができているところへ放すのだから、鹿地事件をつぶす準備だけは忘れなかった。

亡くなった綜合警備保障の村井順が、まだ国警本部警備課長だったころ、ソ連から代表団が来日して、品川のホテルに宿泊した。

ソ連の海外派遣団というのは、スポーツであれ、文化であれ、必ず、NKの政治部将校が、マネージャーとか、随員とか、つまらぬ肩書で同行してくる。もちろん、亡命の阻止と同時に、アメリカのスパイに接触されぬよう、防諜上の任務を持つ。

それはまた、米側にとっては、情報入手の好機でもある。村井課長は、米国製の優れた盗聴器を渡され、ホテルでの盗聴を、米占領軍から命令された。

コンクリート壁をも通す、その性能にビックリした課長は、重大な決心をした。その機器を電機メ

―カーに渡し、分解して、同じ性能のコピーを造るよう、依頼したのである。