読売梁山泊の記者たち p.196-197 テッド・ルーインと倭島英二

読売梁山泊の記者たち p.196-197 フィリピンの戦犯収容所のモンテンルパは、歌にも唱われて有名である。当時のマニラ在外事務所長だった倭島英二が、モンテンルパ問題で〝取引〟して、ルーインの入国をヤミで認めたものだった。
読売梁山泊の記者たち p.196-197 フィリピンの戦犯収容所のモンテンルパは、歌にも唱われて有名である。当時のマニラ在外事務所長だった倭島英二が、モンテンルパ問題で〝取引〟して、ルーインの入国をヤミで認めたものだった。

だが、私の取材は、この外人記者のレポートに刺激されて、三人の〝賭博王〟にインタビューすることであった。そして、三人それぞれに、印象深いのである。

まず、テッド・ルーイン——日本が独立したことによって、出入国管理も、日本側に引き継がれた。連合軍総司令官(GHQ)が、入国拒否者(エクスクルージョン)とした人物のリストは、日本政府によって、同じように指定された。

テッド・ルーインの情報を求めているうちに、ある情報通が教えてくれた。マニラから入国してきた、ザビア・クガート楽団の写真のなかに、ルーインが写っている、というのだった。身分を調べてみると、楽団のマネージャー。

私は、入国管理庁に行って、K事務官(現弁護士)に会った。然るべき紹介は得ていたので、K事務官は気軽に立ち上がって、ファイルのアルファベットを探してくれた。

「オカシイなあ、名前まちがっていない?」

と、彼は、テッド・ルーインのカードを取り出して、呟いた。そのカードには、赤スタンプの、EX CLUSIONが、押されていた。

「ドレドレ…」と、私も、のぞきこむ。しかし、日本入国の年月日が記入されていた。クガート楽団の入国日と一致した。

「ナゼ、入国できたのだろう…?」と、K事務官。「ありがとう、調べて見ますネ」と、挨拶もそこそこに、私は走っていた。

ルーインの代貸しのモー・リプトンが、マンダリン・クラブの段取りをつけ、その実況検分のため、ルーインは、どうしても、日本に入国する必要があった。

フィリピンの戦犯収容所のモンテンルパは、歌にも唱われて有名である。当時のマニラ在外事務所長だった倭島英二が、モンテンルパ問題で〝取引〟して、ルーインの入国をヤミで認めたものだった。

私は、社会党の猪俣浩三代議士に、この件を話して、法務委員会で追及してもらった。その質問通告があった法務委に、本省に戻ってアジア局長になっていた倭島は、政府委員として出席してきた。

記者席にいた私の姿が、その前を通りすぎようとした、彼の視野に入ったのだろう。アジア局長は、一瞬、歩を止めて、私に鋭い一べつをくれた。数日前、局長室で渡り合った若僧の記者が、社会党にタレこんだナ、と、腹立たしい思いだったのだろう。

猪俣委員の質問が始まった。要点を衝いた良い質問だ。ナゼ、エクスクルージョンとGHQでさえ指定した、バクチ打ちのボスが日本に入国できたのだ、と。答弁に立ったアジア局長は、委員長に秘密会を要求して、記者席の私たちは、室外に追い出されてしまい、真相はヤミの中に消えた。

用事を終えたルーインは、日本からサンフランシスコに向かい、そこで逮捕された。

マニラ系のルーインとリプトン、シカゴ系のリーと、取材は進んだけれども、外人記者のいう「上海の王」は、その影すら、アンテナにかかってこない。サイコロ模様のある、金の腕輪をした女の子たちの〝情報〟も、サッパリだった。

国際都市・上海の賭博王というのだから、それは、当然、古くからの秘密組織「青幇」(チンパン)の首領である、杜月笙(と・げつ・せい)の流れを汲む人物であろう、と推測していた。