読売梁山泊の記者たち p.272-273 かねて顔見知りの元山富雄から電話があった

読売梁山泊の記者たち p.272-273 六月に入ると、横井英樹・殺害未遂事件という、ドラマチックな事件がボッ発した。渋谷の不良、安藤組が拳銃で横井を射ったのである。いまでこそ、横井の〝正体〟はバレていて…
読売梁山泊の記者たち p.272-273 六月に入ると、横井英樹・殺害未遂事件という、ドラマチックな事件がボッ発した。渋谷の不良、安藤組が拳銃で横井を射ったのである。いまでこそ、横井の〝正体〟はバレていて…だが当時は、「東洋郵船社長」という実業家として通っていた

ころがり込んできた指名手配犯人

「危険な記者は、社会部の現場からトバす」というのが、新任の金久保社会部長の方針のようであった。

部長のこの方針は、とりも直さず、国会の法務委員会に、証人喚問されそうになって、震え上がってしまった、小島編集局長の方針でもあったのだろう。

この時期、原四郎は、編集総務から出版局長になって、新聞制作からは、遠ざけられていた。〝遠ざけられ〟たといっては、語弊があろう。立松事件の後遺症に苦しむ、社会部記者たちとは、隔離されていたのだった。

金久保部長に対する、私の反抗的な言動が、部長に伝わったのだろう。大阪の次長、週刊読売の次長といった、配置転換の話が、私にきたのは、昭和三十三年春ごろのことだったろう。

この二つの人事異動を拒否したのだから、この次には、もっと悪いポストの話がくるだろう、と思っていた。例えば、厚生部の次長とか、編集以外の部門に出されるナ、と感じていた。

——編集局以外へ左遷されたら、サッサと辞めてやる!

心中秘かに、そう決心をしていたものであった。まだ、三十歳代なのだから、転進するぐらいはヘッチャラさ、と、思っていた。

そして、六月に入ると、横井英樹・殺害未遂事件という、ドラマチックな事件がボッ発した。渋谷

の不良、安藤組が拳銃で横井を射ったのである。

久しぶりの、事件らしい事件に、警視庁クラブは沸き立っていた。司法クラブ前任キャップの萩原が、警視庁のキャップになっていたので、私も、道路一本を隔てた警視庁に出かけて、記者会見のやりとりを聞いていたりしたのだった。

ところが、安藤組の親分、安藤昇は逃亡していて、所在がつかめない。組事務所には、花田という副親分ひとりが残っていて、主な組員は、みな、地下に潜伏してしまった。

いまでこそ、毎日のように、殺人事件が起きていて、コロシが社会面のトップになるようなことはない。だが、そのころには、まだ殺人事件というのは、月に一件か二件だったから、コロシは、やはり社会面の花だった。

考えてみれば、きょうこのごろは、何でもないことで、すぐ、人を殺す。少なくとも、三十年前ごろには、殺人の件数が非常に少なかったのだから、イヤな世相に変わった、ともいえるだろう。

安藤親分は、依然として捕まらない。「これは社会不安である」として、当時の岸首相は、田中栄一警視総監を呼びつけて、叱りつけた。異例中の異例であった。

いまでこそ、横井の〝正体〟はバレていて、横井が射たれたといったところで、首相が総監を叱るなどとは、考えられもしないことだ。だが、当時は、横井は「東洋郵船社長」という、レッキとした実業家として、通っていたからであろう。

と、そこに、かねて顔見知りの元山富雄から、私に電話があった。元山とは、さきごろの国際航業

事件で、十二億円の〝闇対策費〟を受け取ったのち、急死してしまったことで有名な人物である。