赤い広場-霞ヶ関
― 山本ワシントン調書 ―
三田和夫著
20世紀社
月別アーカイブ: 2019年4月
赤い広場-霞ヶ関 見返し
赤い広場-霞ヶ関
― 山本ワシントン調書 ―
三田和夫著
カットイラスト(T.h:原徳太郎)
20世紀社
赤い広場-霞ヶ関 目次・前半
目次
瞼の父を恋うモスクワの混血児
赤い恋のウシュカダラ
削除されたラ氏手記
謎に微笑むノー・コメント
果して涙の父子再会か?
北海道に落ちた赤い流れ星
宗谷岬に漂うソ連兵の死体
怪外人札幌へ飛ぶ
失敗した人浚いギャング団
秘められた山本調書の拔き書
赤い広場-霞ヶ関 目次・後半
先手を打つ「アカハタ」
スパイは殺される!
怪文書おどる内閣機密室
志位自供書に残る唯一の疑問
暗躍するマタハリ群像
シベリヤ・オルグの操り人形たち
除名された〃上陸党員〃
オイストラッフの暗いかげ
「高良資金」とナゾの秘書
〃猿〃と〃猿廻し〃と
日ソ交渉のかげに蠢くもの
小坂質間と重光外相のウソ
怪物久原と立役者メンシコフ
鳩山邸の奇怪な三人
日本の〃夜の首相〃と博愛王国
あとがき
装幀 原 徳太郎
赤い広場-霞ヶ関 扉
東京秘密情報シリーズ
赤い広場-霞ヶ関
― 山本ワシントン調書 ―
三田和夫著
カットイラスト(T.h:原徳太郎)
20世紀社
赤い広場-霞ヶ関 p001 瞼の父を恋うモスクワの混血児
瞼の父を恋うモスクワの混血兒
一 赤い恋のウシュカダラ 昭和二十九年十二月のある日。警視庁の四階中廊下に面した公安三課の事務室。
期待に燃えて、身体を乗り出さんばかりにしたAP通信記者を前にして、木幡計第一係長は、真剣な表情で考えこんでいた。
『 イヤ、これはやはり一応、課長に相談してみないことには……』
係長の机の上に視線を落してみよう。そこには英文の書類が数通、アメリカのAP通信本社から、東京支局に流してきたニュースの原稿である。記者はその記事の中に現れた一人の日本人、その名は「オグラ」という仮名で現わされてはいるが、充分実在の人物として推測し得るし、しかもその人の社会的地位が高いだけに、書かれた事実の有無を当局に確かめにきたのであった。
記者が真剣な表情で指さした個所には次のように書かれてあった。
赤い広場-霞ヶ関 p002-003 彼を担当したロシヤ女に恋愛した
しかし、日本の共同通信のモスクワ特派員をひき入れるについては、かなりの困難があつた。この特派員の接触先はきわめて有力な方面だったので、私たちの方では、それだけ彼を大いに高く評価していた。
しかも彼の志操は堅固だったので、その口説き落しにはソ連諜報活動の奥の手を用いざるを得なかった。これがために外国人脅喝用としての、売淫婦の一隊を抱えている特別班をして、この特派員を引き入れる工作をさせることになった。これがために外国人脅喝用としての、売淫婦の一隊を抱えている特別班をして、この特派員を引き入れる工作をさせることになった。
そこでこの特派員(いま、彼を仮りにオグラと呼ぶ)は、たちまち当方の手中に陥った。ところが、気の毒なことには、この通信員が彼を担当したロシヤ女に恋愛した。しかし、女の方ではそんなことには一切お構いなしに、どんどんその仕事を進めた。
やがて、その女は当方の命によって、彼に対して自分が妊娠していることを告げ、なんとかして子供を生まない工夫をする必要があると話し出した。事態がここまで進展してきたとき、はじめて秘密簪察の手が伸びてきて、いわゆる「医師」なるものが登場せしめられた。かくてオグラと「妊婦」とが、その医師の診察室を訪れることとなり、ここに彼のスキャンダルが、明るみに出されようとする破目に押しつけられた。このためオグラは、当方の手先となることを応諾したのだった。
なお、この事件にはまだその続きがあって、そのロシヤ女が、まだ彼女の真の使命が分っていないので自分をしきりに恋慕しているオグラに対して、ついに結婚することを約束した。オグラが日本に帰ることになったとき、被女はなんとか理由をこしらえて同行することを避けた。
そしてまもなく彼女に対しては新しいおとりが与えられた。それはある近東の外交官であったが、皮肉にもこんどは女の方が男に恋をした。彼女は悔恨の情にたえかねて、いままでの脅喝仕事をやめようと決心した。このような間にも、オグラの方ではなおまだ女の無垢と、真実性とを信じていたので、その女が自分の使命を逸脱した行動のカドで逮捕されたというニユースを、私はオグラに知らせることができなかった。
『ウム……』
深くうなずいた係長は、その英文原稿と飜訳原稿とを持って立上った。課長室の扉は固く閉ざされた。何事かが密議された。
公安三課――ラストヴォロフ事件で名前を売り出したこの課は、一言にしていえば「外事特高」である。警視庁の組織には総務、警務、刑事、防犯などの各部と並んで、警備第一部、警備第二部という部がある。この一部の方は警備の名に相応しく、警備、警護の二課に分れて、 予備隊などの正服実力部隊を指揮するのであるが、警備第二部は「公安部」である。
警備第二部は公安第一課の左翼、同第二課の右翼、同第三課の外事と、資料を握る同第四課との四つに分れている。つまりそれぞれに思想的背景があるか、もしくは集団的威力のある犯 罪の摘発をする係である。
赤い広場ー霞ヶ関 p004-005 『LIFE』誌のラストヴォロフ手記を文春が転載
つまりそれぞれに思想的背景があるか、もしくは集団的威力のある犯
罪の摘発をする係である。公安三課の中は、さらに欧米人、朝鮮人、中国人と三つの係に分れて、二百数十名の私服警官が、情報、捜査、翻訳などの仕事を分担している。
だが、いくら外人が関係していても単純な殺人、強盗、サギなどの刑法犯は刑事部捜査第三課にまかせており、出入国管理令、外国人登録法、刑事特別法の三法令に拠って、これら思想的犯罪を追っているのである。
もちろん捜査技術として、一般刑法や外国為替、外国貿易管理法などの事件も扱うことはいうまでもない。
戦後、「外事警察」という言葉がなくなったが、二十七年四月二十八日の独立以来、再びこの言葉が用いられはじめてきた。『外事警察なくして何の独立国ぞや』というところである。だから、ここの課員たちは誇りにみちて働らいている。
二 削除されたラ氏手記 ここまで書けばすでにお分りになったことだろう。この原稿というのは、文芸春秋誌三十年二月号に発表された「日本をスパイした四年半」という、元在日ソ連代表部二等書記官ユーリ・アレクサンドロヴィッチ・ラストヴォロフ氏の手記である。これは実はアメリカのグラフ雑誌「ライフ」の転載である。それは二十九年十一月二十九日号に第一回「赤色両巨頭の権力争奪戦顚末記――スターリンの死後表面化したマレンコフ、ベリヤ武装対立の大詰」、同十二月六日号に第二回、「極東における赤の偽瞞と陰謀――ロシヤ人が共産主義の武器として、いかに脅かし手段を用いたかを、元のスパイが暴露する」、同十二月十三日号に第三回、「赤色テロよ、さようなら」と題して揭載されている。
ところが、これはライフ誌のアメリカ国内版であって、外国へ出している国際版では若干変ってきている。従って、日本で市販されている国際版では、三十年の一月十日、十七日、二十四日の三号にわたって連載されているが、内容はある部分がまったく削除されてしまっているのだ。
このライフ誌のアメリカ版に手記が発表された当時、外電はそのつど内容を報じている。これを日本の新聞でみてみると、昨年十一月二十五日付読売には「ニューヨーク特電(AFP) 二十四日発」で第一回目の分を、十二月二日付產経には「 ニューヨーク一日AP=共同」で第二回分、十二月九日付産経には「ニューヨーク八日=UP」で第三回分の内容要旨が報じられている。
ラ氏はこの第二回で、その日本に対する工作の内容を明らかにしたのだ。この部分を文芸春秋誌でみると、「日本人をスパイに買収」(二月号一九八頁)という見出しがついている。これは原文では脅喝で動かされた新聞記者」となっている点が違う。参考までに文春の記事を引用 すると、
赤い広場ー霞ヶ関 p006-007 人間の弱点につけこむ手口で外国人をソ連諜報機関の手先に
すると、
私は秘密諜報部員としての訓練を一九四五年に終えた。そして日本語の語学将校として東京に赴任する準備を進めていた。
われわれはその年の夏に、ソ連の対日宣戦布告以後、モスクワに抑留されていた日本の外交官のなかから、スバイの手先に使う人間を物色しはじめた。その外交官のなかに、日本における自由主義的な政治思想を促進するという見地から、「新日本会」というのを組織した五人の大使館員がいた。
われわれはこの五人を一人づつ、他の者にはわからないように買収しにかかった。彼らに「西方の帝国主義」とくにアメリカの帝国主義を吹きこむことによって、われわれの側につけることは比較的容易な仕事だった。
本国政府は崩壊したと同様の状態にあり、彼らが果して将来職にありつけるか、どうかもわからない有様で、とくにその経済的な見通しは絶望状態におかれていたので、彼らに金のことをにおわせれば、比較的簡単にこちらの話にくっついてきた。おまけにその金もあまり大きな額でなくてすんだ。
文春の記事はここからあと、三節を削除して、「このように外国人を脅迫してソ連のスパイに動員する私の訓練は、東京への赴任によって中断されることになる」と、つづいている。
この三節の削除された部分というのが、冒頭に紹介した共同通信記者オグラ氏に対するソ連秘密機関の獲得工作の件りである。つまり終戦時にモスクワ駐在の特派員だったオグラ氏に対して、このような手段での獲得工作が行われていたのである。その結果〝志操の堅固〟だったオグラ氏も、ついに濃厚なロシヤ女の恋のとりこになったとは、まさに昨今流行のウシュカダラのようなお話である。
文春誌の記事はつづく。(同二〇二頁)
私はこの期間に、ソ連の諜報機関が用いる脅喝と強請の手口――外国人をソ連諜報部の手先にするために用いる手口の、いわば大学院的訓練をうけたのである。 (すなわち、私たちが以前に日本の新聞記者のオグラに対して用いたような外人獲得法について、より高度の教育をうけたのである) イデオロギーの立場から、そうした連中をわれわれの仲間に引きずりこむことのできたのは滅多になかった。だから、性、酒、賭博、麻薬、その他あらゆる人間の弱点につけこむ手口が用いられるのであり、これはまったく一つの科学にさえなっていた。 (そして、前記のオグラに関する事件は、その好適例である)
このカッコ内が、前をうけて削除された部分である。
三 謎に微笑むノー・コメント 終戦後からのソ連の対日工作を眺めてみると、そこには全くつねに一貫した政策の流れていることが分る。これは、ここでは詳述する限りではないが、現在のソヴエト体制が崩壊しない限りは、たとえ時の権力者が誰であろうと、全くいささかもの影響も受けないことだ。この政策の一貫性というものは、その諜報謀略工作に一番よく現れ ている。
赤い広場ー霞ヶ関 p008-009 ソ連と共同通信の関係に治安当局が首をかしげた
例えば、従来まったくノー・コメントの態度をとっていた代表部が、二十六年六月三十日、 日本の新聞記者の代表として、左翼勢力が〝ブル新〟ときめつけていたうちの一つである共同通信社をえらび、藤田記者単独で正式に会見をしたのである。
どうして代表部が、この画期的な〝正式会見〟に記者団会見を行わず、共同通信だけをえらんだか? ということはいろいろな理由が考えられた。
当時は、日本の三大紙といわれる、朝日、毎日、読売三社も、共同通信社に加盟していたので、共同のニュースは全日本の新聞に流れるということも、その理由の一つでもあった。しかし、アカハタをはじめとする左翼系機関紙には、共同のニュースは流れないのである。通信社としては、他に時事通信社もある。いわばこの大特ダネを、どうして共同だけが独占できたかという疑問は、他の新聞社の記者たちのハギシリを尻目に、ふたたび現れたのであった。
すなわち、講和発効後、同社元モスクワ特派員、編集局次長坂田二郎氏が、はじめての日本人記者としてモスクワ入りをして、いまや共同通信社を脱退していた三大紙を口惜しがらせたのである。
藤田記者の単独会見、坂田記者の初のモスクワ入りと、相次ぐ〝事件〟の前に「外事特高」
と呼ばれて、対ソ関係に敏感な治安当局では、ようやく首をかしげはじめた。
一方、さる二十七年暮の鹿地・三橋スパイ事件で、はじめてソ連引揚者の重要な役割に気付いた当局では、今更のごとくあわてて、ソ連引揚者について真剣な研究をはじめ、個人カードの作製をはじめていた。これぞと思う引揚者の在ソ経歴、帰国後の履歴を詳細に調べて個人カードを作り、その一連の動きを観察して、方向をつかもうというのである。
こうして当局が地味な捜査をつづけているうちに、ある一人の引揚者によって、意外な〝偽装結婚〟の告白を得たのである。その引揚者(特に名を秘す)は次のようにその体験を語っている。
……結婚の翌日、私は病弱者として日本へ帰される事になりました。何が何だか分らない突然の命令だったのです。私は彼女とのあわただしい別れを借しみました。彼女はいいました。
『また、東京で! 九段の大村益次郞の銅像前で!』
もはや、私は彼女のいうがままでした。そして私が大村銅像前で逢ったのは、もちろん彼女ではありませんでした。そのソ連人は、いいました。
『彼女はその後、お前の子供を産んだ。彼女は子供と一緒に、お前が再び訪ねてくる日をたのしみにモスクワで働いている』
赤い広場ー霞ヶ関 p010-011 ソ連のスパイ網の魔手がいかに日本にはびこっているか
何という誘惑の言葉でしょうか。私はそのソ連人のために、スパイの手先として働らきました。私の働らきの如何によって、彼女と、子供とに逢わしてやるという、ソ連人の言葉をあてにしていたのです。ソ連人は私を激励していいました。
『髪の黒い可愛いい子供だよ。遠い東京の空をみて、その子は險の父を慕っているんだよ』 その後、私が連絡するソ連人たちの言葉から判断したところでは、彼女はどうやら政治の女中尉だったらしいのです。
四 果して涙の父子再会か 当局ではソ連引揚者調査から、このような偽装結婚――姙娠――墮胎(或いは分娩)というソ連側のスパイ工作の資料を持っていたので、オグラ氏に関するラ氏自供を聞いたときにはハハンとうなずいた。
終戦時にモスクワの特派員だったオグラ氏もそれから十年、もはやその社では相当の地位にある。そのオグラ氏に対して、あの引揚者に対すると同じように、
『お前の子供に逢いたくはないか。逢わしてやるぞ。ふたたびモスクワへ新聞記者として行ったらどうか』
と、誘惑の言葉がささやかれたとしたら?
一方ソ連では昭和三十年二月十一日「姙娠中の婦人の堕胎行為に対する刑罰」を廃止した。 つまりそれまでは墮胎は禁止されていたので、この引揚者へ対する〝險の父子再会〟という誘惑と同様に、オグラ氏の子供も墮胎されずに生れ、モスクワでまだ見ぬ日本人の父オグラを險に描いて、恋い慕っているのではないかとも考えられる。
そして、治安当局の一部では、戦後モスクワ入りした新聞記者の誰れ彼れをオグラ氏になぞらえ、その入ソ許可は成長したわが児に逢うという目的であたえられ、実はソ連諜報網への協力者としての論功行賞であった、とまでうがった見方をしている。
治安当局というところは、きわめて意地が悪いし、われわれの常識でまさかというようなことまで、一つ一つの事実をつみ重ねて推論する。これが情報係官としての能力の差の出てくる点である。
一つ一つの情報を集めてこれはおかしいなとチェックするのが、インタルゲーション(収集) であり、このチェックされた情報を集めて、分析判断するのがアナリシス(分析)である。したがってアナリィスト(分析者)は幹部である。治安当局のアナリィストは、オグラ氏についても、前述したような事情があるに違いないと判断し、戦後、初のモスクワ入りする新聞記者に注目していたところであった。
ソ連のスパイ網の魔手が如何にして日本にはびこっているか。その一つの事例を、新聞記者 オグラ氏の場合として紹介した。