日別アーカイブ: 2019年7月25日

p56上 わが名は「悪徳記者」 反動読売の反動記者

p56上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私は公安記者のヴェテランとなり、調査記事の専門家であり、読売のスター記者の一人に数えられるようになっていた。
p56上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私は公安記者のヴェテランとなり、調査記事の専門家であり、読売のスター記者の一人に数えられるようになっていた。

私の仕えた初代社会部長小川清はすでに社を去り、宮本太郎次長はアカハタに転じ、入社当時の竹内四郎筆頭次長(現報知社長)が社会部長に、森村正平新品次長(現報知編集局長)が筆頭次長になっていた。昭和二十二年秋ごろのことだった。

過去のない男・王長徳

帰り新参の私を、この両氏ともよく覚えていて下さって、「シベリア印象記」という、生れてはじめての署名原稿を、一枚ペラの新聞の社会面の三分の二を埋めて書かせて下さった。この記事はいわゆる抑留記ではなく、新聞記者のみたシベリア紀行だった。その日の記事審査委員会日報は、私の処女作品をほめてくれたのである。

この記事に対して、当時のソ連代表部キスレンコ少将は、アカハタはじめ左翼系新聞記者を招いて、「悪質な反ソ宣伝だ」と、声明するほどの反響だったが、やがて、サツ(警察)廻りで上野署、浅草署方面を担当した私は、シベリア復員者の日共党本部訪問のトラブルを、〝代々木詣り〟としてスクープして、「反動読売の反動記者」という烙印を押されてしまった。

私は日共がニュースの中心であったころは、日共担当の記者であり、旧軍人を含んだ右翼も手がけていた。それが、日本の独立する昭和二十七年ごろからは、外国人関係をも持つようになってきた。つまり警視庁公安部の一、二、三課担当ということになる。一課の左翼、二課の右翼、三課の外人である。私は公安記者のヴェテランとなり、調査記事の専門家であり、読売のスター記者の一人に数えられるようになっていた。

p56下 わが名は「悪徳記者」 東京租界と王長徳

p56下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私の代表作品の一つに、昭和二十七年十月二十四日から十一月六日までの間、十回にわたって連載された「東京租界」の記事がある。
p56下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私の代表作品の一つに、昭和二十七年十月二十四日から十一月六日までの間、十回にわたって連載された「東京租界」の記事がある。

左翼ジャーナリズムは、私を「反動読売の反動記者」と攻撃したが、これは必ずしも当っていない。〝私はニュースの鬼〟だっただけである。

私はニュースの焦点に向って、体当りで突込んでいった。私の取材態度は常にそうである。ある場合は深入りして記事が書けなくなることもあった。しかし、この〝カミカゼ取材〟も、過去のすべてのケースが、ニュースを爆撃し終って生還していたのである。今度のは、たまたま武運拙なく自爆したにすぎない。

そろそろ、手前味噌はやめにして、私の〝悪徳〟を説明しなければなるまい。

まずそのためには、王長徳という中国籍人と、小林初三という元警視庁捜査二課の主任を紹介しよう。この二人も、小笠原の犯人隠避で、八月十三日逮捕されている。

私の代表作品の一つに、昭和二十七年十月二十四日から十一月六日までの間、十回にわたって連載された続きもの「東京租界」の記事がある。これは、独立直後の日本で、占領中からの特権を引き続き行使して、その植民地的支配を継続しようとした、不良外人たちに対し、敢然と打ち下ろした日本ジャーナリズムの最初の鉄槌であった。 原四郎部長の企画、辻本芳雄次長の指導で、流行語にさえなった「東京租界」というタイトルまで考え出し、取材には私と牧野拓司記者とが起用された。牧野記者は文部省留学生でオハイオ大学に留学したほどの英語達者だったので、良く私の片腕になってくれた。