日別アーカイブ: 2019年8月20日

p67上 わが名は「悪徳記者」 記事になる前は記者の責任だ。

p67上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 取材の過程で、尾行したり張り込んだりの軽犯罪法違反はもとより、縁の下にもぐり込む住居侵入、書類や裏付け証拠品をカッ払う窃盗などと、記者の行動が〝事件記者〟であれば法にふれる機会は極めて多い。
p67上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 取材の過程で、尾行したり張り込んだりの軽犯罪法違反はもとより、縁の下にもぐり込む住居侵入、書類や裏付け証拠品をカッ払う窃盗などと、記者の行動が〝事件記者〟であれば法にふれる機会は極めて多い。

これはガサ(家宅捜索)で小笠原の手紙を押えられたに違いないとみた。(事実、小笠原は旭川市外川方山口二郎の手紙を出し、花田はこの住所をメモしておいて、ガサで押えられた。当局は山口二郎とは何者かと、十八日から外川方の内偵をはじめたが、それらしい男の姿が見えないので、二十日午後に踏み込んで調べたのだ)

次は社に対する問題だ。〝日本一の大社会部記者〟になるための計画が、最悪の状態で失敗して、逮捕されるのだ。これは捜査当局に対する立場と同じである。新聞社は〝抜いて当り前、落したらボロクソ〟だ。やはり五歩前進の手前で表面化したのだから、立松不当逮捕事件の場合のように、書いた記事のための逮捕とは全く違う。一度、記事として紙面に出たものは、会社自体の責任だが、記事以前のものは、記者自身の責任だ。

取材の過程で、尾行したり張り込んだりの軽犯罪法違反はもとより、緑の下にもぐり込む住居侵入、書類や裏付け証拠品をカッ払う窃盗などと、記者の行動が〝事件記者〟であれば法にふれる機会は極めて多い。犯人隠避でも、当局より先に犯人をみつけ、それを確保して、会見記の取材や、手記の執筆などをさせてから、当局に通報して逮捕させたり、数時間や一日程度の「隠避」はザラだ。また有名な鬼熊事件では、当時の東日の記者が山中で鬼熊に会見して、特ダネの会見記をモノにしたが、犯人隠避で逮捕された実例さえもある。これらの一時的な取材経過の中の違法行為も、それが結果的に捜査協力だったり、取材が成功して紙面を特ダネで飾ったりすれば、捜査当局や新聞社から不問に付されるのであるが、失敗すれば違法行為のみがクローズアップされて、両者から責任を求められるのは当然だ。

p67下 わが名は「悪徳記者」 社を退職すべきだと判断した

p67下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 二十一日の月曜日早朝、辞表を持って社会部長の自宅を訪れ、経過を説明して、注意があったにもかかわらず、深入りして失敗したことを謝って辞表の受理方を頼んだ。
p67下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 二十一日の月曜日早朝、辞表を持って社会部長の自宅を訪れ、経過を説明して、注意があったにもかかわらず、深入りして失敗したことを謝って辞表の受理方を頼んだ。

記事以前の取材活動のやり方は、記者個人によってそれぞれ違うが、取材経過が刑事事件になったとすれば、あくまで記者自身の責任で、社会部次長や部長、局長には全く何の責任もない。そこで、私は責任をとって社を退職すべきことだと判断した。もしこれが、一個人の私情や金の誘惑があったとすれば、新聞記者の本質的問題だから、クビになるのが当然だが、私にはそれがないから退職しようと決心した。

私はすぐ社を出て、塚原さんを訪ねた。「貴方は何の関係もない方なのに、事件の渦中に引きずりこんで申し訳ない。明朝、警視庁へ出頭して、私に頼まれたと事情を説明して下さい。なまじウソをいうとかえって疑われるから……」と、事情を話して、お詫びと私への信頼を謝したのち、私は萩原記者の自宅へ行って、説明しておき、帰宅して辞表を書いた。

二十一日の月曜日早朝、辞表を持って社会部長の自宅を訪れ、経過を説明して、注意があったにもかかわらず、深入りして失敗したことを謝って辞表の受理方を頼んだ。部長は大いに心配して下さり、逮捕されることなく当局の調べをうけられれば、社をやめることもないではないかと、刑事部長に折衝して下さったが、私はこれを固辞して、退社し被疑者として逮捕されるべきだと主張した。私には、暴力団との取引を排除して、正攻法で捜査するという、当局の態度がよく判っていたので、私も逮捕されるべきだと思った。それがこの事件に対する当局の態度として正しいし、当然なことだからである。私も刑事部長と捜査二課長に、「取材以外の何ものでもない。だから何時でも逮捕されるなら、出頭するから呼んでほしい」と、自宅の電話番号まで知らせた。