その間に私が体験として知ったことは、岸本検事長直接指揮の、高検検事たちは、馬場派の河井検事を容疑者として、立松、三田両被疑者の調書にその名を記録し、逮捕状を請求して、河井検事を逮捕しようとしたことであった。
そして、それこそ〝今だから話そう〟である。立松記者は、奈良屋旅館の電話室で私の見ている前で、河井検事の自宅の電話番号を回した。その電話で問答をつづけながら、彼は宇都宮、福田両議員の名前を書き、頭の上に大きな丸印をつけたのである。そして、翌日の大〝誤報〟スクープが生まれた。私が目撃した事実と、立松記者の話から、あの記事のネタモトは、当時の河井信太郎刑事課長であった。そして、立松記者は、この事件以後に本格的に病身となり、ほとんど休職ばかりで、三十七年十月九日、四十歳の若さで、読売城南支局長の閑職で死んだ。——原因は心臓病だが、ニュース・ソース追及の厳しい検事の調べに、三日間も拒みつづけてきた精神の疲れが、彼を廃人にしてしまったようである。
岸本検事長、否、岸本前代議士もまた、失意のうちに、静養先で世を去った。昭和四十年九月九日。無位無官、しかも、選挙違反事件の控訴審被告としてであった。というのは、ついに検事総長を逸した岸本氏に大野伴睦老がハッパをかけたという。
「代議士になれ。当選してきたら、たとえ一年生でもオレが法務大臣にしてやる。そして、馬場のクビを切れ!」
停年半年後の岸本氏は、大阪五区で当選して大野派に属した。だが、岸本氏の当選が決まるや、馬場派の反撃はすさまじく、大阪地検が徹底的に選挙違反を洗いはじめた。当時の検事正は、自他ともに〝岸本派〟と認められていた、橋本乾三検事であったが、〝親分の寝首を掻い
た〟と評された。「検察の長老なるが故に、違反は許されない」と、記者会見で弁明したが、正論は正論としても、風当たりは強かったようである。そして、この時まで馬場次官——竹内刑事局長——河井刑事課長の体制であった。
井本総長は、〝李下の冠〟として非難された。これは、国民に疑いを感じさせてはいけないということである。だが、私は、極めて主観に走りすぎるといわれるかも知れないが、やはり、検察の「公正」に疑いを感ずるのである。
崩れ落ちた〝最後のトリデ〟
マスコミのつくる〝虚像〟——こんどの、井本検事総長「会食」事件の報道をみてつくづく記者の不勉強が感じられる。例えば「河井検事の東京地検か、東京地検の河井検事か」という言葉がある。事件を報道する司法記者クラブ員が、〝検事ベッタリ〟にならざるを得ないのは、現場記者として当然のことである。これをチェックするのが、論説やコラムではあるまいか。今度のケースでは、毎日新聞の報道態度が一番まともである。新聞が不勉強で「謀略」に利用されたり、週刊誌が無知で「虚像」を作りあげるのだから、私は、今更のように考えこんでしまう。
一体、社会正義とはなんだ。