月別アーカイブ: 2022年1月

最後の事件記者 p.300-301 これはもっと大変な事件になるゾ

最後の事件記者 p.300-301 品川は赤旗のウズだ。列車が同駅を発車した時、伊藤君は赤旗組を整理しながら、列車にとびのろうとしたが、人々に押されてホームと列車の間に転落、重傷を負ってついに絶命した。
最後の事件記者 p.300-301 品川は赤旗のウズだ。列車が同駅を発車した時、伊藤君は赤旗組を整理しながら、列車にとびのろうとしたが、人々に押されてホームと列車の間に転落、重傷を負ってついに絶命した。

何といっても、サツ廻りというのは、一国一城の主。これほど記者として面白い時代はないの

に、サツ種のスクープが各社とも少しも見当らないのが不思議でならない。これならば、サツ廻りなどやめてしまった方が、人の使い方としては効果的である。

私の名はソ連スパイ!

〝代々木詣り〟の復員者

私が日大で三浦逸雄先生に教えられた最大のものは、資料の収集と整理、そのための調査、そして解析である。

それが実際に成功したのが、ソ連引揚者の〝代々木詣り〟というケースだった。上野方面のサツ廻りであった私は、上野駅に到着する引揚列車の出迎えを、かかさずにやってきていた。

そこでは婦人団体よりもテキパキと、援護活動を奉仕している学生同盟の、それこそ献身的な姿がみられた。ところが、その学生の一人が、ついに殉職するという、悲惨な事件が起きたのである。

二十三年六月四日朝八時ころのこと。京浜地区学生同盟品川班情報部長、横浜専門二年生伊藤欽治君(二〇)は、引揚列車を名古屋まで迎えに行き、徹夜で車中の援護につくして、品川駅ま

で帰ってきた。

品川はその赤旗のウズだ。列車が同駅を発車した時、伊藤君は赤旗組を整理しながら、列車にとびのろうとしたが、人々に押されてホームと列車の間に転落、重傷を負ってついに絶命した。

引揚者たちは、上野駅についてこのことを知った。直ちに檄がとばされ、車中から七千五百余円の弔慰金が集められた。そのことを知った私は、記事を書きながら、「これはもっと大変な事件になるゾ」と考えていた。

それからの私は、毎日詳細な記録をとりはじめた。品川、東京、上野の三駅での、学生同盟と共産党との対立が、目立ってはげしくなってきた。共産党は何をしようとしているのだろうか。

その日は知らなかったが、党勢拡張を狙う共産党は、東北、北海道方面の引揚者が、上野駅で乗換時間に余裕のあるのをみて、この時間を利用して、党本部訪問という計画を実行しはじめていたのである。

私もこれに同行して、データを集めはじめた。出迎え党員の数も、逐次ふえていき、それに比例して、〝代々木詣り〟の引揚者もふえていった。約一カ月、一日おきに千名近い引揚者を迎える上野駅での、引揚者に関する細かな資料が出来上った。私は、これを社会部長に示して説明した。グラフも作ったのである。

「部長、この傾向がこの通り激しくなってゆきます。こちらが、出迎えの党員数です。これは、もっともっと激しくなり、事件になるか、事件を引起すと思います」

最後の事件記者 p.302-303 八百名復員者代々木詣り

最後の事件記者 p.302-303 やがて、この〝代々木詣り〟は事件となって現われてきた。京都駅での大乱闘、舞鶴援護局でのストなどと、アカハタと日の丸の対立まで、何年にもわたっての、各種の事件を生んだ。
最後の事件記者 p.302-303 やがて、この〝代々木詣り〟は事件となって現われてきた。京都駅での大乱闘、舞鶴援護局でのストなどと、アカハタと日の丸の対立まで、何年にもわたっての、各種の事件を生んだ。

私もこれに同行して、データを集めはじめた。出迎え党員の数も、逐次ふえていき、それに比例して、〝代々木詣り〟の引揚者もふえていった。約一カ月、一日おきに千名近い引揚者を迎える上野駅での、引揚者に関する細かな資料が出来上った。私は、これを社会部長に示して説明した。グラフも作ったのである。
「部長、この傾向がこの通り激しくなってゆきます。こちらが、出迎えの党員数です。これは、もっともっと激しくなり、事件になるか、事件を引起すと思います」

竹内部長は、こんな風に資料を収集、整理して、それを示しながら事件を予想するような記者は、はじめてだというような顔をしていった。

「それで?」

「予告篇とでもいったような記事を、今のうちに書いた方がいいと思います」

こうして、私は七月二日の新聞に、「先月既に八百名、復員者代々木詣り」という見出しの記事を書いた。それに対して、早速、引揚者の一人、という署名の投書がきた。

「貴紙に、先月既に八百名、という見出しで、共産党の引揚者に対する活動が、まるで犯罪を行っているように、デカデカと書かれていましたが、あれはいったい、どういうことなのですか? 云々」

私はその人に対して、叮寧な説明の返事を出した。「どうして犯罪のような記事だと、お考えになるのですか。立派な社会現象ではないですか」と。

やがて、この〝代々木詣り〟は事件となって現われてきた。上野駅での、肉親の愛の出迎えをふみにじる、すさまじいタックル、女学生の童心の花束は投げすてられるという騒ぎだ。そして京都駅での大乱闘、舞鶴援護局でのストなどと、アカハタと日の丸の対立まで、何年にもわたっての、各種の事件を生んだ、そもそもの現象だったのであった。

私の名はソ連スパイ

この一件が、私の新聞記者としての能力が、竹内部長に認められるキッカケだった。私は、その記事のあとで、「部長だけの胸に納めておいて頂きたいのですが、調査の許可を頂けませんか」と、申し出た。

「…実は、ソ連側では、引揚者の中にスパイをまぎれこませて、日本内地へ送りこんでいるのです。それが、どのような規模で、どのように行われており、現実にどんな連絡をうけて、どんな仕事をしているかを、時間をかけて、調べてみたいのです」

「何? スパイだって?」

「ハイ。きっと、アメリカ側も、一生懸命になって、その摘発をやっているに違いないと思います。米ソの間にはさまれて、日本人は同胞相剋の悲劇を強いられているに違いないと思います。だから、大きな社会問題でもあるはずですし、戦争が終ってまだ数年だというのに、もう次の戦闘の準備がはじまっていることは、日本人にも大きな問題です」

「それで、調べ終ったら、どうするつもりだね」

「もちろん、書くのです。書き方には問題があると思いますが!」

「書く? 新聞の記事に? ウン。書く自信があるか」

「ハイ。私は新聞記者です」

「ウーン。よし。危険には十分注意してやれよ」 部長は許可してくれた。それから、私のソ連スパイ網との、見えざる戦いがはじまったのであった。

最後の事件記者 p.304-305 私自身が書いた〝スパイ誓約書〟

最後の事件記者 p.304-305 だが、それにもまして、私自身が、いうなればソ連のスパイであったからだ。だからこそ、引揚者の土産話を聞けば、何かピンとくるものがあるのだった。
最後の事件記者 p.304-305 だが、それにもまして、私自身が、いうなればソ連のスパイであったからだ。だからこそ、引揚者の土産話を聞けば、何かピンとくるものがあるのだった。

「何? スパイだって?」
「ハイ。きっと、アメリカ側も、一生懸命になって、その摘発をやっているに違いないと思います。米ソの間にはさまれて、日本人は同胞相剋の悲劇を強いられているに違いないと思います。だから、大きな社会問題でもあるはずですし、戦争が終ってまだ数年だというのに、もう次の戦闘の準備がはじまっていることは、日本人にも大きな問題です」
「それで、調べ終ったら、どうするつもりだね」
「もちろん、書くのです。書き方には問題があると思いますが!」
「書く? 新聞の記事に? ウン。書く自信があるか」
「ハイ。私は新聞記者です」

「ウーン。よし。危険には十分注意してやれよ」

部長は許可してくれた。それから、私のソ連スパイ網との、見えざる戦いがはじまったのであった。もっとも、すでに私には、相当程度のデータは集っていたのである。何故かといえば、例の処女作品「シベリア印象記」で集ってきた投書について、消息一つない各個人の在ソ経歴を調べていたことや、「代々木詣り」一カ月間のデータの中から、めぼしいものが浮んでいたのである。

だが、それにもまして、私自身が、いうなればソ連のスパイであったからだ。だからこそ、引揚者の土産話を聞けば、何かピンとくるものがあるのだった。

私の名は、ソ連スパイ! 私が、「このことは、内地へ帰ってからも、たとえ、肉親であっても、決して話しません」と、私自身の手で書き、署名さえした、〝スパイ誓約書〟が、今でも、ソ連国内のどこかの、秘密警察の極秘書類箱に残されているのだ。「…もし、この誓約を破ったならば、ソ連刑法による如何なる処断をうけても構いません」と、死を約束した一文とともに。

モスクワから来た中佐

「ミータ、ミータ」兵舎の入口で歩哨が、声高に私を呼んでいる。それは、昭和二十二年二月八日の夜八時ごろのことだった。去年の十二月はじめに、もう零下五十二度という、寒暖計温度を記録したほどで、二月といえば冬のさ中だった。

北緯五十四度の、八月末といえばもう初雪のチラつくこのあたりでは、来る日も来る日も、雪曇りのようなうっとうしさの中で、刺すように痛い寒風が、地下二、三メートルも凍りついた地面の上を、雪の氷粒をサァーッ、サァーッと転がし廻している。

もう一週間も続いている深夜の炭坑作業に、疲れ切った私は、二段ベッドの板の上に横になったまま、寝つかれずにイライラしているところだった。

——来たな! やはり今夜もか?

今まで、もう二回もひそかに司令部に呼び出されて、思想係将校に取調べをうけていた私は、直感的に今夜の呼び出しの重大さを感じとって、返事をしながら上半身を起した。

「ダー、ダー、シト?」(オーイ、何だい?)

第一回は昨年の十月末ごろのある夜であった。この日は、ペトロフ少佐という思想係将校が着任してからの第一回目、という意味であって、私自身に関する調査は、それ以前にも数回にわたって、怠りなく行われていたのである。

作業係将校のシュピツコフ少尉が、カンカンになって怒っているゾ、と、歩哨におどかされながら、収容所を出て、すぐ傍らの司令部に出頭した。ところが、行ってみると、意外にもシュピツコフ少尉ではなくて、ペトロフ少佐と並んで、格幅の良い、見馴れぬエヌカー(秘密警察)の中佐が待っていた。

私はうながされて、その中佐の前に腰を下した。中佐は驚くほど正確な日本語で、私の身上調 査をはじめた。

最後の事件記者 p.306-307 「ナゼ日本新聞で働きたいのですか」

最後の事件記者 p.306-307 当時シベリアの政治運動は、「日本新聞」の指導で、やや消極的な「友の会」運動から、「民主グループ」という、積極的な動きに変りつつある時だった。
最後の事件記者 p.306-307 当時シベリアの政治運動は、「日本新聞」の指導で、やや消極的な「友の会」運動から、「民主グループ」という、積極的な動きに変りつつある時だった。

作業係将校のシュピツコフ少尉が、カンカンになって怒っているゾ、と、歩哨におどかされながら、収容所を出て、すぐ傍らの司令部に出頭した。ところが、行ってみると、意外にもシュピツコフ少尉ではなくて、ペトロフ少佐と並んで、格幅の良い、見馴れぬエヌカー(秘密警察)の中佐が待っていた。
私はうながされて、その中佐の前に腰を下した。中佐は驚くほど正確な日本語で、私の身上調

査をはじめた。本籍、職業、学歴、財産など、彼は手にした書類と照合しながら、私の答えを熱心に記入していった。腕を組み黙然と眼を閉じているペトロフ少佐が、時々私に鋭い視線をそそぐのが不気味だ。

私はスラスラと、正直に答えていった。やがて中佐は一枚の書類を取出して質問をはじめた。フト、気がついてみると、その書類はこの春に提出した、ハバロフスクの日本新聞社の編集者募集にさいして、応募した時のものだった。

「ナゼ日本新聞で働きたいのですか」

中佐の日本語は、叮寧な言葉遣いで、アクセントも正しい、気持の良い日本語だった。中佐の浅黒い皮膚と黒い瞳は、ジョルジヤ人らしい。

「第一にソ連同盟の研究がしたいこと。第二に、ロシア語の勉強がしたいのです」

「宜しい。よく判りました」

中佐は満足気にうなずいて、「もう帰っても良い」といった。私が立上って一礼し、ドアのところへきた時、今まで黙っていた政治部員のペトロフ少佐が、低いけれども激しい声で呼びとめた。

「パダジジー!(待て)今夜、お前は、シュピツコフ少尉のもとに呼ばれたのだぞ。炭坑の作業について質問されたのだ。いいか、判ったな!」

見知らぬ中佐が、説明するように語をついだ。

「今夜、ここに呼ばれたことを、もし誰かに聞かれたならば、シュピツコフ少尉のもとに行ったと答え、私のもとにきたことは、決して話してはいけない」

と、教えてくれた。

こんなふうに言い含められたことは、今迄の呼び出しや調査のうちでも、はじめてのことであり、二人の将校からうける感じで、私にはただごとではないぞ、という予感がしたのだった。

見知らぬ中佐のことを、その後、それとなく聞いてみると、歩哨たちは〝モスクワからきた中佐〟といっていたが、私は心秘かに、ハバロフスクの極東軍情報部員に違いないと思っていた。

偽装して地下潜入せよ

それから一カ月ほどして、ペトロフ少佐のもとに、再び呼び出された。当時シベリアの政治運動は、「日本新聞」の指導で、やや消極的な「友の会」運動から、「民主グループ」という、積極的な動きに変りつつある時だった。

ペトロフ少佐は、民主グループ運動についての私の見解や、共産主義とソ連、およびソ連人への感想などを質問した。結論として、その日の少佐は、「民主運動の幹部になってはいけない。ただメンバーとして参加するのは構わないが、積極的であってはいけない」といった。

この時は、もう一人通訳の将校がいて、あの中佐はいなかった。私はこの話を聞いて、いよいよオカシナことだと感じたのだ。少佐の話をホン訳すれば、アクチヴであってはいけない、日和

見分子であり、ある時には反動分子にもなれということだ。

最後の事件記者 p.308-309 生殺与奪の権を握られている一人の捕虜

最後の事件記者 p.308-309 〝偽装〟して〝地下潜入〟せよ、ということになるではないか。——何かがはじまるンだ。忙しい身仕度が私を興奮させた。——まさか、内地帰還?
最後の事件記者 p.308-309 〝偽装〟して〝地下潜入〟せよ、ということになるではないか。——何かがはじまるンだ。忙しい身仕度が私を興奮させた。——まさか、内地帰還?

ペトロフ少佐は、民主グループ運動についての私の見解や、共産主義とソ連、およびソ連人への感想などを質問した。結論として、その日の少佐は、「民主運動の幹部になってはいけない。ただメンバーとして参加するのは構わないが、積極的であってはいけない」といった。
この時は、もう一人通訳の将校がいて、あの中佐はいなかった。私はこの話を聞いて、いよいよオカシナことだと感じたのだ。少佐の話をホン訳すれば、アクチヴであってはいけない、日和

見分子であり、ある時には反動分子にもなれということだ。

政治部将校であり、収容所の思想係将校の少佐の言葉としては、全く逆のことではないか。それをさらにホン訳すれば、〝偽装〟して〝地下潜入〟せよ、ということになるではないか。

この日の最後に、前と同じような注意を与えられた時、私は決定的に〝偽装〟を命ぜられた、という感を深くしたのである。私の身体には、早くも〝幻のヴェール〟が、イヤ、そんなロマンチックなものではなく、女郎グモの毒糸が投げられはじめていたのである。

そして、いよいよ三回目が今夜だ。「ハヤクウ、ハヤクウ」と、歩哨がせき立てるのに、「ウン今すぐ」と答えながら、二段ベッドからとびおりて、毛布の上にかけていたシューバー(毛皮外套)を着る。靴をはく。帽子をかむる。

——何かがはじまるンだ。

忙しい身仕度が私を興奮させた。

——まさか、内地帰還?

ニセの呼び出し、地下潜行——そんな感じがフト、頭をよぎった。吹きつける風に息をつめたまま、歩哨と一しょに飛ぶように衛兵所を走り抜け、一気に司令部の玄関に駈けこんだ。

廊下を右に折れて、突き当りの、一番奥まった部屋の前に立った歩哨は、一瞬緊張した顔付きで、服装を正してからコツコツとノックした。

「モージノ」(宜しい)

重い大きな扉をあけて、ペーチカでほど良くあたためられた部屋に一歩踏みこむと、何か鋭い空気が、サッと私を襲ってきた。私は曇ってしまって、何も見えない眼鏡のまま、正面に向って挙手の敬礼をした。

ソ連側からやかましく敬礼の励行を要望されてはいたが、その時の私は、そんなこととは関係なく、左手は真直ぐのびて、ズボンの縫目にふれていたし、勢いよく引きつけられた靴のカカトが、カッと鳴ったほどの、厳格な敬礼になっていた。

冷たく光る銃口

正面中央に大きなデスクをすえて、キチンと軍服を着たペトロフ少佐が坐っていた。かたわらには、みたことのない、若いやせた少尉が一人。その前の机上には、少佐と同じ明るいブルーの軍帽がおいてある。天井の張った厳めしいこの正帽でも、ブルーの帽子はエヌカーだけがかぶれるものだ。

密閉された部屋の空気は、ピーンと緊張していて、わざわざ机上にキチンとおいてある帽子の眼にしみるような鮮やかな色までが、生殺与奪の権を握られている一人の捕虜を威圧するには、十分すぎるほどの効果をあげていた。

「サジース」(坐れ)

少佐はカン骨の張った大きな顔を、わずかに動かして、向い側の椅子を示した。

最後の事件記者 p.310-311 ブローニング型の拳銃が銃口を私に向けて

最後の事件記者 p.310-311 呼び出されるごとに、立会の男が変っている。ある事柄を一貫して知り得るのは、限られた人人だけで、他の者は一部だけしか知り得ない組織になっているらしい。——何と徹底した秘密保持だろう!
最後の事件記者 p.310-311 呼び出されるごとに、立会の男が変っている。ある事柄を一貫して知り得るのは、限られた人人だけで、他の者は一部だけしか知り得ない組織になっているらしい。——何と徹底した秘密保持だろう!

密閉された部屋の空気は、ピーンと緊張していて、わざわざ机上にキチンとおいてある帽子の眼にしみるような鮮やかな色までが、生殺与奪の権を握られている一人の捕虜を威圧するには、十分すぎるほどの効果をあげていた。
「サジース」(坐れ)
少佐はカン骨の張った大きな顔を、わずかに動かして、向い側の椅子を示した。

——何か大変なことがはじまる!

私のカンは当っていた。ドアのところに立ったまま、自分自身に「落ちつけ、落ちつけ」といいきかすため、私はゆっくりと室内を見廻した。

八坪ほどの部屋である。正面にはスターリンの大きな肖像画が飾られ、少佐の背後には本箱。右隅には黒いテーブルがあって、沢山の新聞や本がつみ重ねられていた。ひろげられた一抱えの新聞の、「ワストーチノ・プラウダ」(プラウダ紙極東版)とかかれたロシア文字が、凄く印象的だった。

歩哨が敬礼して出ていった。窓には深々とカーテンが垂れている。

私が静かに席につくと、少佐は立上ってドアの方へ進んだ。扉をあけて、外に人のいないのを確かめてから、ふりむいた少佐は後手にドアをとじた。「カチリ」という、鋭い金属音を聞いて、私の身体はブルブルと震えた。

——鍵をしめた!

外からは風の音さえ聞えない。シーンと静まり返ったこの部屋。外部から絶対にうかがうことのできないこの秘密警察員と相対しているのである。

——何が起ろうとしているのだ?

呼び出されるごとに、立会の男が変っている。ある事柄を一貫して知り得るのは、限られた人人だけで、他の者は一部だけしか知り得ない組織になっているらしい。

——何と徹底した秘密保持だろう!

鍵をしめた少佐は、静かに大股で歩いて、再び自席についた。何をいいだすのかと、私が固唾をのみながら、少佐に注目していると、彼はおもむろに机の引出しをあけた。ジット少佐の眼に視線を合せていた私は、「ゴトリ」という、鈍い音を聞いて、机の上に眼をうつしてみて、ハッとした。

——拳銃!

ブローニング型の拳銃が、銃口を私に向けて冷たく光っている。私の口はカラカラに乾き切って、つばきをのみこもうにも、ノドボトケが動かない。

誓いの言葉

少佐は、半ば上目使いに私をみつめながら、低いおごそかな声音のロシア語で、口を開いた。一語一語、ゆっくり区切りながらしゃべりおわると、少尉が通訳する。

「貴下はソヴェト社会主義共和国連邦のために、役立ちたいと願いますか」

歯切れのよい日本語だが、直訳調だった。少佐だって、日本語を使えるのに、今日に限って、のっけからロシア語だ。しかも、このロシア語という奴は、ゆっくり区切って発音すると、非常に厳粛感がこもるものだ。平常ならば、国名だってエス・エス・エス・エルと略称でいうはずなのに、いまはサューズ・ソヴェーツキフ・ソチャリスチィチェスキフ・レスプープリクと、正式

に呼んだ。

最後の事件記者 p.312-313 処罰サレルコトヲ承知シマス

最後の事件記者 p.312-313 「私ハ、ソヴェト社会主義共和国連邦ノタメニ、命ゼラレタコトハ、何事デアッテモ、行ウコトヲ誓イマス。(この次にもう一行あったような記憶がある)
最後の事件記者 p.312-313 「私ハ、ソヴェト社会主義共和国連邦ノタメニ、命ゼラレタコトハ、何事デアッテモ、行ウコトヲ誓イマス。(この次にもう一行あったような記憶がある)

「貴下はソヴェト社会主義共和国連邦のために、役立ちたいと願いますか」
歯切れのよい日本語だが、直訳調だった。少佐だって、日本語を使えるのに、今日に限って、のっけからロシア語だ。しかも、このロシア語という奴は、ゆっくり区切って発音すると、非常に厳粛感がこもるものだ。平常ならば、国名だってエス・エス・エス・エルと略称でいうはずなのに、いまはサューズ・ソヴェーツキフ・ソチャリスチィチェスキフ・レスプープリクと、正式

に呼んだ。

私をにらむようにみつめている、二人の表情と声とは、ハイという以外の返事は要求していないのだ。そのことを本能的に感じとった私は、上ずったかすれ声で答えた。

「ハ、ハイ」

「本当ですか」

「ハイ」

「約束できますか」

「ハイ」

タッ、タッと、息もつかせずたたみこんでくるのだ、もはや、ハイ以外の答はない。私は興奮のあまり、つづけざまに三回ばかりも首を振って答えた。

「誓えますか」

「ハイ」

しつようにおしかぶさってきて、少しの隙も与えずに、ここまでもちこむと、少佐は一枚の白紙を取出した。

「よろしい、ではこれから、私のいう通りのことを紙に書きなさい」

——とうとう来るところまで来たんだ。

私は渡されたペンを持って、促すように少佐の顔をみながら、刻むような日本語でたずねた。

「日本語ですか、ロシア語ですか」

「パ・ヤポンスキー!」(日本語!)

はね返すようにいう少佐についで、能面のように、表情一つ動かさない少尉がいった。

「漢字とカタカナで書きなさい」

静かに、少尉の声が流れはじめた。

「チ、カ、イ」(誓)

「………」

「次に住所を書いて、名前を入れなさい」

「………」

「今日の日付、一九四七年二月八日……」

「私ハ、ソヴェト社会主義共和国連邦ノタメニ、命ゼラレタコトハ、何事デアッテモ、行ウコトヲ誓イマス。(この次にもう一行あったような記憶がある)

コノコトハ、絶対ニ誰ニモ話シマセン。日本内地ニ帰ッテカラモ、親兄弟ハモチロン、ドンナ親シイ人ニモ、話サナイコトヲ誓イマス。

モシ、誓ヲ破ッタラ、ソヴェト社会主義共和国連邦ノ法律ニヨッテ、処罰サレルコトヲ承知シマス」

不思議に、ペンを持ってからの私は、次第に冷静になってきた。チ、カ、イにはじまる一字一

句ごとに、サーッと潮がひいてゆくように興奮がさめてゆき、机上の拳銃まで静かに眺める余裕ができてきた。

最後の事件記者 p.314-315 収容所内の反ソ反動分子の名簿をつくれ!

最後の事件記者 p.314-315 民主グループの連中が集めている、反動分子の情報は当然ペトロフ少佐のもとに報告されている。それと私の報告とを比較して、私の〝忠誠さ〟をテストするに違いない。
最後の事件記者 p.314-315 民主グループの連中が集めている、反動分子の情報は当然ペトロフ少佐のもとに報告されている。それと私の報告とを比較して、私の〝忠誠さ〟をテストするに違いない。

「私ハ、ソヴェト社会主義共和国連邦ノタメニ、命ゼラレタコトハ、何事デアッテモ、行ウコトヲ誓イマス。(この次にもう一行あったような記憶がある)
コノコトハ、絶対ニ誰ニモ話シマセン。日本内地ニ帰ッテカラモ、親兄弟ハモチロン、ドンナ親シイ人ニモ、話サナイコトヲ誓イマス。
モシ、誓ヲ破ッタラ、ソヴェト社会主義共和国連邦ノ法律ニヨッテ、処罰サレルコトヲ承知シマス」
不思議に、ペンを持ってからの私は、次第に冷静になってきた。チ、カ、イにはじまる一字一

句ごとに、サーッと潮がひいてゆくように興奮がさめてゆき、机上の拳銃まで静かに眺める余裕ができてきた。

最後の文字を書きあげてから、拇印をと思ったが、その必要のないことに気付いて、「誓約書の内容も判らぬうちに、一番最初にサインをさせられてしまったナ」などと考えてみたりした。

この誓約書を、今まで数回にわたって作成した書類と一緒に重ねて、ピンでとめ、大きな封筒に収めた少佐は、姿勢を正して命令調で宣告した。

「プリカーズ」(命令)

私はその声を聞くと、反射的に身構えて、陰の濃い少佐の眼を凝視した、その瞬間——

「ペールヴォエ・ザダーニエ!(第一の課題)、一カ月の期間をもって、収容所内の反ソ反動分子の名簿をつくれ!」

「ペールウイ(第一の)というロシア語が、耳朶に残って、ガーンと鳴っていた。私はガックリとうなずいた。

「ダー」(ハイ)

「フショウ」(終り)

はじめてニヤリとした少佐が、立上って手をさしのべた。生温かい柔らかな手だった。私も立上った。少尉がいった。

「三月八日の夜、また逢いましょう。たずねられたら、シュピツコフ少尉を忘れぬように」

眠られぬ夜

(写真キャプション 「幻兵団」というセンセーショナルな題のもと …「シベリアで魂を売った幻兵団」)

ペールヴォエ・ザダーニエ! これがテストに違いなかった。民主グループの連中が、パンを餌にばらまいて集めている、反動分子の情報は当然ペトロフ少佐のもとに報告されている。それと私の報告とを比較して、私の〝忠誠さ〟をテストするに違いない。

そして、「忠誠なり」の判決を得れば、次の課題、そしてまた次の命令……と、私には終身暗いカゲがつきまとうのだ。

私は、もはや永遠に、私の肉体のある限り、その肩を後からガッシとつかんでいる、赤い手のことを思い悩むに違いない。そして、…モシ誓ヲ破ッタラ…と、死を意味する脅迫が、…日本内地ニ帰ッテカラモ…とつづくのだ。

ソ連人たちは、エヌカーの何者であるかを良

く知っている。兄弟が、友人が、何の断りもなく、自分の周囲から姿を消してしまう事実を、その眼で見、その耳で聞いている。私にも、エヌカーの、そしてソ連の恐ろしさは、十分すぎるほどに判っているのだ。

最後の事件記者 p.316-317 現実のオレは命令を与えられたスパイ

最後の事件記者 p.316-317 これは同胞を売ることだ。この生き地獄の中で、私は他人を犠牲にしても、生きのびねばならないのか。私は、間違いなく復員名簿にのるだろうが、その代りに永遠に名前ののらない人もできるのだ。
最後の事件記者 p.316-317 これは同胞を売ることだ。この生き地獄の中で、私は他人を犠牲にしても、生きのびねばならないのか。私は、間違いなく復員名簿にのるだろうが、その代りに永遠に名前ののらない人もできるのだ。

ソ連人たちは、エヌカーの何者であるかを良

く知っている。兄弟が、友人が、何の断りもなく、自分の周囲から姿を消してしまう事実を、その眼で見、その耳で聞いている。私にも、エヌカーの、そしてソ連の恐ろしさは、十分すぎるほどに判っているのだ。

——これは同胞を売ることだ。不当にも捕虜になり、この生き地獄の中で、私は他人を犠牲にしても、生きのびねばならないのか!

——或いは私だけ先に日本へ帰れるかもしれない。だがそれもこの命令で認められればの話だ。

——次の命令を背負ってのダモイ(帰国)か。私の名前は、間違いなく復員名簿にのるだろうが、その代りに、永遠に名前ののらない人もできるのだ。

——私は末男で独身ではあるが、その人には妻や子があるのではあるまいか。

——誓約書に書いたことは、果して正しいことだろうか。許されることだろうか。弱すぎはしなかっただろうか。

——だが待て、しかし、一カ月の期限は、すでに命令されていることなのだ……。

——ハイと答えたのは当然のことなのだ。人間として、当然……。イヤ、人間として果して当然だろうか?

——大体からして無条件降伏して、武装をといた軍隊を捕虜にしたのは国際法違反じゃないか。待て、そんなことより、死の恐怖と引替えに、スパイを命ずるなんて、人間に対する最大の侮辱だ。

——そんなことを今更、いってもはじまらない。現実のオレは命令を与えられたスパイじゃないか。

私はバラッキ(兵舎)に帰ってきて、例のオカイコ棚に身を横たえたが、もちろん寝つかれるはずもなかった。転々として思い悩んでいるうちに、ラッパが鳴っている。

「プープー、プープー」

哀愁を誘う、幽かなラッパの音が、遠くの方で深夜三番手作業の集合を知らせている。吹雪はやんだけれども、寒さのますますつのってくる夜だった。

幻兵団物語

チャンス到来

このような過去をもつ私が、どうして、いかに新聞記者の功名心とはいえ、平気でスパイの暴露をやってのけられるのだろうか。

私に舞いこんできた幸運は、このスパイ操縦者の政治部将校、ペトロフ少佐の突然の転出であった。少佐は約束のレポの三月八日を前にして、突然収容所から姿を消してしまったのである。

最後の事件記者 p.318-319 まぼろしのようにスパイ団の姿が

最後の事件記者 p.318-319 すると…無表情な男の顔、考えこむ男の姿、沈んでゆく不思議な引揚者、そして、不可解な死——或者は船上から海中に投じ、或者は列車から転落し、また或者は縊死して果てた。
最後の事件記者 p.318-319 すると…無表情な男の顔、考えこむ男の姿、沈んでゆく不思議な引揚者、そして、不可解な死——或者は船上から海中に投じ、或者は列車から転落し、また或者は縊死して果てた。

私に舞いこんできた幸運は、このスパイ操縦者の政治部将校、ペトロフ少佐の突然の転出であった。少佐は約束のレポの三月八日を前にして、突然収容所から姿を消してしまったのである。

ソ連将校の誰彼にたずねてみたが、返事は異口同音の「ヤ・ニズナイユ」(私は知らない)であった。もとより、ソ連では他人の人事問題に興味を持つことは、自分の墓穴を掘ることなのである。それが当然のことであった。私は悩みつづけていた。

不安と恐怖と焦燥の三月八日の夜がきた。バターンと、バラッキの二重扉のあく音がするたびに、「ミータ」という、歩哨の声がするのではないかと、それこそ胸のつぶれる思いであった。時間が刻々とすぎ、深夜三番手の集合ラッパが鳴り、それから三、四時間もすると、二番手の作業隊が帰ってきた、静かなザワメキが起り、そして、一番手の集合ラッパが鳴った。

夜があけはじめたのであった。三月八日の夜が終った。あの少尉も転出したのだろうか。重い気分の朝食と作業……九日も終った。一週間たち、一カ月がすぎた。だが、スパイの連絡者は現れなかった。

私の場合は、こうして、スパイ網のトバ口だけでレポは切れ、その年の秋には、ナホトカでダメ押しのレポも現れないまま、懐かしの祖国へ帰ることができたのであった。

そうしてはじまった、このスパイ網調査であった。すると……。インターを叫ぶ隊伍の中に見える無表情な男の顔、復員列車のデッキにたたずんで考えこむ男の姿、肉親のもとに帰りついてから、ますます沈んでゆく不思議な引揚者、そして、ポツンポツンと発生する引揚者の不可解な死——或者は故国を前にして船上から海中に投じ、或者は家郷近くで復員列車から転落し、また或者は自宅にたどりついてから縊死して果てた。

私はこのナゾこそ例の誓約書に違いないと感じた。駅頭に、列車に、はては舞鶴にまで出かけて、引揚者たちのもらす、片言隻句を、丹念に拾い集めていった。やがて、その綴り合わされた情報から、まぼろしのように〝スパイ団〟の姿がボーッと浮び上ってきたのだった。

やがて、参院の引揚委員会で、Kという引揚者がソ連のスパイ組織の証言を行った。その男は「オレは共産党員だ」と、ハッタリをかけて「日本新聞」の編集長にまでノシ上った男だった。

しかし、さすがに怖かったとみえ、国会が保護してくれるかどうかと要求、委員会は秘密会を開いて相談したあげくに、証言を求めたのだった。

記者席で、この証言を聞いた私は、社にハリ切って帰ってきて、竹内部長にいった。

「チャンスです。この証言をキッカケに、このスパイ団のことを書きましょう」

「何をいってるんだ。今まで程度のデータで、何を書けるというんだ。身体を張って仕事をするのならば、張り甲斐のあるだけの仕事をしなきゃ、身体が安っぽいじゃないか」

若い私はハヤりすぎて、部長にたしなめられてしまった。それからまた、雲をつかむような調査が、本来の仕事の合間に続けられていった。

魂を売った幻兵団

すでにサツ廻りを卒業して、法務庁にある司法記者クラブ員になっていた私は、昭電事件、平沢公判、吉村隊長の〝暁に祈る〟事件と追いまくられてもいたのである。

最後の事件記者 p.320-321 ソ連製スパイの事実をあばいていった

最後の事件記者 p.320-321 データは完全に揃った。談話も集まった。私たちは相談して、このスパイ群に「幻兵団」という呼び名をつけた。そして社会面の全面を埋めて、第一回分「シベリアで魂を売った幻兵団」を発表した。
最後の事件記者 p.320-321 データは完全に揃った。談話も集まった。私たちは相談して、このスパイ群に「幻兵団」という呼び名をつけた。そして社会面の全面を埋めて、第一回分「シベリアで魂を売った幻兵団」を発表した。

魂を売った幻兵団

すでにサツ廻りを卒業して、法務庁にある司法記者クラブ員になっていた私は、昭電事件、平沢公判、吉村隊長の〝暁に祈る〟事件と追いまくられてもいたのである。

そして、同時に国会も担当して、吉村隊や人民裁判と、引揚関係の委員会も探っていたが、二十四年秋には、国会担当の遊軍に変って、いよいよ、ソ連スパイの解明に努力していた。

その結果、現に内地に帰ってきているシベリア引揚者の中に、誰にも打明けられないスパイとしての暗い運命を背負わされた、と信じこんで、この日本の土の上で、生命の危険までを懸念しながら、独りはんもんしているという、奇怪な事実までが明らかになった。

そして、そういう悩みを持つ、数人の人たちをやっと探しあてることができたのだが、彼らの中には、その内容をもらすことが、直接死につらなると信じこみ、真向から否定した人もあるが、名を秘して自分の暗い運命を語った人もあった。

さらに、進んで名乗りをあげれば、同じような運命にはんもんしている他の人たちの、勇気をふるい起させるだろうというので、一切を堂々と明らかにした人もいた。

私の場合は、テストさえも済まなかったので、偽名の合言葉も与えられなかったが、他の多くの人は、東京での最初のレポのための、合言葉さえ授けられていた。

例えば、例の三橋事件の三橋正雄は、不忍池のそばで「この池には魚がいますか」と問われて「戦時中はいましたが、今はいません」と答えるのが合言葉であった。

ラストボロフ事件の志位正二元少佐の場合は、通訳が日本語に学のあるところを示そうとして、万葉の古歌「憶良らはいまはまからむ子泣くらむ、そのかの母も吾をまつらむぞ」という、むつかしい合言葉だった。そして、自宅から駅へ向う途中の道で、ジープを修理していた男に

「ギブ・ミー・ファイヤ」と、タバコの火を借りられた。その時、その白人は素早く一枚の紙片を彼のポケットにおしこんだ。

彼があとでひろげてみると、金釘流の日本文で「あなたが帰ってから三年です。子供たちもワンワン泣いています。こんどの水曜日の二十一時、テイコク劇場ウラでお待ちしています、もしだめなら、次の水曜日、同じ時間、同じ場所で」とあった。子供がワンワン泣いているというのが、さきの万葉だったのである。

また、「あなたは何時企業をやるつもりですか」「私は金がある時に」とか「私はクレムペラーを持ってくることができませんでした」と話しかける人が、何国人であっても連絡者だ、と教えられたのもある。

データは完全に揃った。談話も集まった。私たちは相談して、このスパイ群に「幻兵団」という呼び名をつけたのであった。そして二十五年一月十一日、社会面の全面を埋めて第一回分、「シベリアで魂を売った幻兵団」を発表した。それから二月十四日まで、八回にわたって、このソ連製スパイの事実を、あらゆる角度からあばいていった。

大きな反響

反響は大きかった。読者をはじめ、警視庁、国警、特審局などの治安当局でさえも、半信半疑であった。CICが確実なデータを握っている時、日本側の治安当局は全くツンボさじきにおか

れて、日本側では舞鶴引揚援護局の一部の人しか知らなかった。

最後の事件記者 p.322-323 「幻兵団」の実在が立証された

最後の事件記者 p.322-323 アカハタだけがヤッキにデマだと書いた。左翼系バクロ雑誌「真相」も〝幻兵団製造物語〟で、私の記事を否定した。その狼狽ぶりがおかしかった。そして二十七年暮に、鹿地・三橋スパイ事件が起った
最後の事件記者 p.322-323 アカハタだけがヤッキにデマだと書いた。左翼系バクロ雑誌「真相」も〝幻兵団製造物語〟で、私の記事を否定した。その狼狽ぶりがおかしかった。そして二十七年暮に鹿地・三橋スパイ事件が起った

データは完全に揃った。談話も集まった。私たちは相談して、このスパイ群に「幻兵団」という呼び名をつけたのであった。そして二十五年一月十一日、社会面の全面を埋めて第一回分、「シベリアで魂を売った幻兵団」を発表した。それから二月十四日まで、八回にわたって、このソ連製スパイの事実を、あらゆる角度からあばいていった。
大きな反響
反響は大きかった。読者をはじめ、警視庁、国警、特審局などの治安当局でさえも、半信半疑であった。CICが確実なデータを握っている時、日本側の治安当局は全くツンボさじきにおか

れて、日本側では舞鶴引揚援護局の一部の人しか知らなかった。

「デマだろう」という人に、私は笑って答える。

「大人の紙芝居さ。今に赤いマントの黄金バットが登場するよ」

紙面では、回を追って、〝幻のヴェール〟をはがすように、信ぴょう性を高めていった。

「よく生きているな」

親しい友人が笑う。私も笑った。

「新聞記者が自分の記事で死ねたら本望じゃないか」

ただ、アカハタ紙だけが、ヤッキになってデマだと書いていた。読売の八回の記事に対し、十回も否定記事をのせ、左翼系のバクロ雑誌「真相」も、〝幻兵団製造物語〟というデマ記事で、私の記事を否定した。私にはその狼狽ぶりがおかしかった。そして、それから丸三年たって、二十七年暮に、鹿地・三橋スパイ事件が起って、「幻兵団」の実在が立証されたのであった。

アメリカ側の引揚者調査機関、NYKビルがその業務を終った時、チェックされた「幻兵団」員は、多分私もふくめて七万人にものぼっていたのである。この事件は、私の新聞記者としてのいわば出世作品であった。

この記事を書いた当時、私の妻は妊娠中で三月に予定日を控えていたのだった。前年の暮ごろから、私の取材が本格化して、ソ連引揚者のある人などを、私の自宅へ伴ってきて話を聞いていたので、彼女も私がどんな仕事をしているか、良く知っていた。何しろ六畳一間の暮しである。

「私の名前を出さないという約束をして下さいね」

その男は、念を押してから、とうとう誓約にいたるまでの経過や、マーシャと呼ぶ女士官の〝また、東京で、逢いましょう〟という耳もとでの、熱いささやきまで語った。彼は東京での話になると、日比谷の交叉点で、そのマーシャそっくりの女をみかけて、ハッと心臓の凍る思いをした、とまでいった。私は彼が、本物のマーシャとレポしたに違いないと、にらんでいた。

「どうして、名前が判ったらマズイんですね。思い切って、すべてを発表したらどうです。マーシャのレポや合言葉も……」

彼は黙っていた。やがて、ボツンと一言だけいった。

「殺されるかもしれないから」

彼の表情は、全く真剣そのもので、思いつめていた。人間の恐怖の瞬間を、私も、妻もみた。彼女は、私の仕事が、そんなように、大変な危険につながることを覚った。その夜、彼女は自分の大きなお腹に眼をやってから、私に話しかけてきた。

「ねエ、そのスパイの仕事、危いらしいじゃないの、大丈夫?」

もう、お腹の中の新しい生命は、胎動をはじめていた。

「判ンないさ。やってみなくちゃ。でも、こんなやり甲斐のある仕事は、そうザラにはないンだよ」

「どうして、あなたがやらなきゃならないの?」

最後の事件記者 p.324-325 ボクは新聞記者だからね

最後の事件記者 p.324-325 「男に生れて自分の仕事に倒れるなンて素敵じゃないか。男子の本懐これに過ぎるものはないさ」「男の生き甲斐はあるかもしれないけど、夫として、父としてどうなの?」
最後の事件記者 p.324-325 「男に生れて自分の仕事に倒れるなンて素敵じゃないか。男子の本懐これに過ぎるものはないさ」「男の生き甲斐はあるかもしれないけど、夫として、父としてどうなの?」

「ねエ、そのスパイの仕事、危いらしいじゃないの、大丈夫?」
もう、お腹の中の新しい生命は、胎動をはじめていた。
「判ンないさ。やってみなくちゃ。でも、こんなやり甲斐のある仕事は、そうザラにはないンだよ」
「どうして、あなたがやらなきゃならないの?」

「他にやる奴も、やれる奴もいないからだよ。それに、ボクは新聞記者だからね」

「新聞記者って、そんなにお仕事のために身体を張っていたら、幾つ身体があっても足りないわネ」

「男に生れて、自分の仕事に倒れるなンて、素敵じゃないか。男子の本懐これに過ぎるものはないさ。お巡りさんだってそうじゃないか。強盗が刃物を持っていて、危いから知らんふりはできないだろう。職業にも倫理があるンだよ。それに生き甲斐さ」

「男の生き甲斐はあるかもしれないけど、夫として、父としてどうなの?」

人の子の父

私はしばらく黙ってしまった。私は二歳の時に父に死別しているので、全く父親の味を知らずに成長した。兄弟は大勢いたが、やはり物足りなかった。小学生のころは、父親に手をひかれたよその子供をみると、シットを感じた。そんなせいで、私の〝人恋しさ〟の念は人一倍強く、愛憎がはげしい性格となってきた。

父がなかっただけに、母への感謝の気持も強かった。それを裏返すと、母への不満であった。二十歳の夜に男になろうと計画してみたり、アルバイトをしたり、学校を放浪したり、演劇青年を気取ったのも、そのためであった。

青年になってから、何度か恋をした。ある看板かりの芸者と深くなって、本気で結婚しようと

考えたことがあった。彼女は四つ年上で、その土地では一流の姐さんだった。ずいぶんと、若い私のために達引いてくれたのだが、熱中する私をおさえて、「出世前のあなただから……」といって、やはり芸者らしい道を去っていった。

しばらくあと、こんどは劇団仲間の女性と一緒になろうと思った。手一つ握り合わないうちに彼女は病死した。急に腹膜炎を起したのだった。

そして、戦局が激しくなってから、好きな女性がいた。しかし何もいわずに黙って出征した。外地へ向う最後の日、彼女はオハギを作って駅まできてくれた。私はサッパリとした明るい顔で一ツ星らしい敬礼をして別れを告げた。私は「戦死」を目標にしていたからだ。

残した母親のことは、他の息子にまかせればよい。何の系累もなくて、私は自分のことだけを考えればよい、気楽な気持だった。その女性とは、せめて一日でも、結婚してから出征したいとは思ったが、戦死者の妻にするのが可哀想だったのである。

どうして、そんなに私が〝人恋し〟かったのだろうか。私の希望は、私の子供に、私が子供の時に与えられなかった父親の愛情を、それこそフンダンに、惜しみなくそそいでやりたい——そんな、平和な家庭を作りたいと、幼年のころから考えていたからだった。

それを、今やキッパリとあきらめて、兵隊になったのだった。だが、幸か不幸か、私は生きて帰ってきて、新聞記者にもどったのである。そして、第一にみたされなかった幸福の夢——家庭をもって、人の子の父となることを考えたのであった。

最後の事件記者 p.326-327 私は自分の生命力に自信を抱いた

最後の事件記者 p.326-327 戦争で死んだ男たちをみると、運命といったようなものを信ぜざるを得なくなってくる。死ぬ奴は死ぬべくあった、と思われるフシがあるのだった。
最後の事件記者 p.326-327 戦争で死んだ男たちをみると、運命といったようなものを信ぜざるを得なくなってくる。死ぬ奴は死ぬべくあった、と思われるフシがあるのだった。

それを、今やキッパリとあきらめて、兵隊になったのだった。だが、幸か不幸か、私は生きて帰ってきて、新聞記者にもどったのである。そして、第一にみたされなかった幸福の夢——家庭をもって、人の子の父となることを考えたのであった。

戦争と捕虜を通して、私は自分の生命力と生活力とに自信を抱いた。戦争で死んだ男たちをみると、運命といったようなものを信ぜざるを得なくなってくる。死ぬ奴は死ぬべくあった、と思われるフシがあるのだった。

そこで結婚して、子供を計画出産するようにしたのである。だが、そのころから、私の新聞記者としての打込み方が、少し異常になってきたのであった。〝ニュースの鬼〟になったのであった。当然、家庭の夫として、父としての理想像からは、かけ離れてくるのだった。ことに、危険を覚悟の上で、体当りに仕事にぶつかってゆく取材態度は、私の経験則の父親の責任「人の子の父は、子供が巣立つまで健康であらねばならない」と、相反するのであった。

結婚前の私は、そんな家庭の理想を、妻に語ったりしていたのだ。だから、戦争前には放埓の限りを尽した私も、軍隊と捕虜とで、身も心も洗われた気持(実際もそうであった)で帰ってきて、同僚の誘惑にも負けず、キレイナ身体で結婚に入った。

結婚して一週間目の夜、同僚のN、S両記者と祝盃をあげた。呑むほどに酔うほどに、独身の両記者はヤリ切れなくなったらしい。ついに三人は、小岩の東京パレスという赤線に沈没してしまった。私をどうしても、二人が釈放してくれなかったのである。「オレたちの身になってみろ」というのが、その口説だった。

女と二人だけになった時、戦後はじめての、遊廓ではない赤線という名に変ったオ女郎屋風景に、私は物珍しくアチコチ眺めていた。つい思い出して、私は女に懇願した。

「実は、オレ。結婚一週間目なンだ。だから、いいだろう?」

戦前の遊廓であったら、こんなことは女にとっての最大の侮辱で、許さるべきことではなかったのである。だが、そこは戦後派だ、いとも簡単に許してくれた。

私は、シーツの上に女の腰ヒモを一本、真直ぐに引いて、ニヤリと笑った。帰宅して妻に話す時のたのしみを、作りたかったのである。女もうなずいた。おたがいの領地を決めたのである。

翌朝、雨がふっていて、バスの停留所まで濡れねばならなかった。NとSとは、背広のエリを立て、ズボンのもも立ちを取って、水たまりを避けながら、ピョン、ピョンとはね歩くという、みじめさだったが、私だけはダンナ面をして、相合傘で送られたのである。

スパイは殺される

そんなに潔癖な私だったのである。そのことは妻も良く知っていた。それなのに、夢中になって、この危険なスパイの仕事に打込んでいる夫を、理解しようとしているのだ。黙っている私に彼女はいった。

「もうじき、あなたの待ちこがれていた、あなたの子供が生れるのよ」

「ウン、ウソをついたことになりそうだ。だけど、何ていうのかな。会社のためでもあるんだけど、もっと大きな、新聞記者魂というか、業(ゴウ)というのか、俗っぽく一言でいえば功名心、そんなものが、ボクの心の中からうずいてくるンだ」

最後の事件記者 p.328-329 待伏せされてるかも知れない

最後の事件記者 p.328-329 しかし、実際には私もこわかった。「スパイは殺される」という。所轄の北沢署に保護を頼んだり、一日中社へよりつかなかったりした。
最後の事件記者 p.328-329 しかし、実際には私もこわかった。「スパイは殺される」という。所轄の北沢署に保護を頼んだり、一日中社へよりつかなかったりした。

「ウン、ウソをついたことになりそうだ。だけど、何ていうのかな。会社のためでもあるんだけど、もっと大きな、新聞記者魂というか、業(ゴウ)というのか、俗っぽく一言でいえば功名心、そんなものが、ボクの心の中からうずいてくるンだ」

「……」

今度は妻が黙った。私は懸命になって説明した。危険も少ないだろうという、見通しの根拠を説明した。私はこの記事によって顕在化されるのだ。潜在化している間は危険だが、公表されたスパイはもう役に立たない。しかも、注目されている時は、危害を加えたりすれば、さらに大きな反響を呼んで、かえって不利になるのだから、大丈夫だと、妻を安心させるのに努めた。

「それに、殉職すれば、原部長も、担当デスクの辻本次長も、きっと仇討ちをしてくれるよ。第一、お葬式代がかからないよ。ハハハハ」

私は冗談で、妻の不安を笑いとばそうとした。長い間黙っていた妻は、やっと顔をあげた。

「いいわ。あなたのお葬式が済んだら、私も心中するわ。だから、安心して確りやって頂戴。そうすればいいわ、私も安心だわ」

彼女が、「残る家庭に心配するナ」という言葉を、口にしたのはこれがはじめてだった。二人は何かオカシくなって、アハハハと笑いあった。

しかし、実際には私もこわかった。「スパイは殺される」という。所轄の北沢署に保護を頼んだり、一日中社へよりつかなかったりした。ある夜などは、私の帰りを待ちくたびれた妻が、深夜にフト眼覚めて、用足しに階下へおりようとして、二階の踊り場から見通しの階段へ一歩踏み出した。

アッと、もう少しで叫び出して、階段から転がり落ちそうになった。玄関のドアにはまったガ

ラス、その上のラン間のガラスに、一条の懐中電燈の光が走っている。

その光は、標札の文字でも確かめているらしく、瞬時にして消えた。耳を澄ます妻には、玄関を去ってゆく足音さえ聞えない。背筋を冷たく氷が走って、片足は階段に踏みだしたまま、もう身動きができなかった。

その夜、私は帰宅しなかった。妻は今でもその時のことを想い出しては、

「あれほど恐かったことは、まずちょっとなかったわね」

という。あの懐中電燈の光の主が保護を頼んだ警官なのか、或いは郵便配達か、また〝黒い手〟の人だったのか、とうとう判らない。

「危いから、待伏せされてるかも知れないと考えて、あなたが帰ってこなければいい、と願ったわ。外泊を祈ったのは、後にも先にもこれだけね」

新聞記者の功名心

意外な反響は、米軍側のものだった。東京駅前の郵船ビルのCICが、私と私の記事とを疑ったのである。「どうしてこの事実を知ったのか」「なぜ記事にしたのか——危険だと思わないのか」の二点に集中されて、私への疑惑を露骨に出した調べだった。

調べ官はハワイ生れの二世で、田中耕作という中尉だった。「私の父は百姓なので、コーサクとは、耕す作ると書くんです」というほど、日本人らしい二世だったが、調べは厳しかった。

最後の事件記者 p.330-331 吉橋調査第一部長が私に忠告

最後の事件記者 p.330-331 同局が共産党の押収した文書の中に、「読売三田記者を合法的に抹殺せよ」という、極秘指令を発見したというのだ。「合法的ということは、事故を装ったコロシですよ」
最後の事件記者 p.330-331 同局が共産党の押収した文書の中に、「読売三田記者を合法的に抹殺せよ」という、極秘指令を発見したというのだ。「合法的ということは、事故を装ったコロシですよ」

意外な反響は、米軍側のものだった。東京駅前の郵船ビルのCICが、私と私の記事とを疑ったのである。「どうしてこの事実を知ったのか」「なぜ記事にしたのか——危険だと思わないのか」の二点に集中されて、私への疑惑を露骨に出した調べだった。
調べ官はハワイ生れの二世で、田中耕作という中尉だった。「私の父は百姓なので、コーサクとは、耕す作ると書くんです」というほど、日本人らしい二世だったが、調べは厳しかった。

「どういう目的で書いたか? こんなことをバクロすればソ側スパイに殺されると思わないか。生命が惜しくないのか? 怖くないのか」

これに対して私の答は簡単だ。

「書いたのは新聞記者の功名心からだ。生命も惜しくない。戦争と捕虜とで、二度も死んだはずの生命だ。新聞記者として仕事のために死ぬのは本望だ。自分の記事のために死ぬなんて、ステキだ」

「新聞記者の功名心だって? 生命の危険を冒した功名心? 信じられない、納得できない」

この中尉にどんなに説明しても、とうとう判ってもらえなかった。この事実を知っていることは記者自身が幻兵団、すなわちスパイ誓約者であるか、どこからか、資料の提供をうけたということ。秘密組織をバクロすることに伴う危険を、おそれず記事にしたということは、危険がないことを保証されている。ひっくり返すと、安全を保証されて、資料の提供をうけて記事にした。その意図は何かということだ。

すると、その答は、ソ連側と了解の上で、反ソ風に装ってアメリカ側に近づく目的で書いたに違いない、とみられたのであった。

だが、このCICの係官の疑問は、そのまま日本の治安当局に引継がれて、今だに「三田記者はソ連の秘密工作員だ」という、報告書が当局へ提出され、それがファイルされている。

ある当局の親しい係官に、その後ずっとたってから、またたずねてみた。

「最近、当局ではオレのことをどうみているンだネ。依然として、反動を偽装している〝赤の手先〟とみているンかネ」

「それについて、ワシの方には別にデータも出ていないようだが、しかし……」

この〝しかし〟がクセモノである。

「しかし、幻兵団の記事を書いた動機は、いまだにナゾですナ。危害を与えるに値しないと先方が判断したのか、危害を加えられないという保証があったのか、依然としてナゾだとみているンだ」

やはり、この生命の危険を冒した記者の功名心は、どこでも、誰にでも、判ってもらえないらしい。

判ってもらえないばかりではない。危険はツイ眼の前まできていたのだった。当時の法務府特審局(現公安調査庁)の吉橋調査第一部長が私に忠告してくれたのである。

同局がある共産党の細胞か何かを捜索した時に、押収した文書の中に、「読売三田記者を合法的に抹殺せよ」という、極秘指令を発見したというのだ。

「合法的ということは、事故を装ったコロシですよ。第一が交通事故、信号を無視したり、酔って道路を横断したりなさるナ。それから駅のプラットホーム。これは電車が進入してきた時に、突き落されるのです。酔ってたので、足がからんでブツかった、などと事故にされちゃうよ。それと、高い所もダメですよ」

最後の事件記者 p.332-333 キタナラしい立身出世主義

最後の事件記者 p.332-333 現実にこの社会の中で、果して実力者だけが〝立身出世〟をしているといえるだろうか。現実には、〝危険な英雄〟よりは〝安全なサラリーマン〟が、出世のコツであるのだ。
最後の事件記者 p.332-333 現実にこの社会の中で、果して実力者だけが〝立身出世〟をしているといえるだろうか。現実には、〝危険な英雄〟よりは〝安全なサラリーマン〟が、出世のコツであるのだ。

判ってもらえないばかりではない。危険はツイ眼の前まできていたのだった。当時の法務府特審局(現公安調査庁)の吉橋調査第一部長が私に忠告してくれたのである。
同局がある共産党の細胞か何かを捜索した時に、押収した文書の中に、「読売三田記者を合法的に抹殺せよ」という、極秘指令を発見したというのだ。
「合法的ということは、事故を装ったコロシですよ。第一が交通事故、信号を無視したり、酔って道路を横断したりなさるナ。それから駅のプラットホーム。これは電車が進入してきた時に、突き落されるのです。酔ってたので、足がからんでブツかった、などと事故にされちゃうよ。それと、高い所もダメですよ」

吉橋部長は、一応まじめな顔で、

「ともかく、当分は気をつけた方がいいですよ」と、親切に忠告してくれた。

そんな空気の中で、やがて、長男が生れたのだ。妻は覚悟をきめたのか、格別の心配もせず、従って、やせたり病気になったりもせずに、一貫八十匁という、大きな赤ン坊を生んだ。産後も順調だった。健康第一を願って健太と名付けた。

子供が生れると人間は弱くなるという。社の自動車部員などで、独身の時代にハリ切っていて、事件だなどというと、百キロ近くも出して飛ばした男も、結婚して、子供が生れると、もう完全な〝安全運転〟になってしまうほどだ。

私は子ぼんのうな父親ではあったが、一歩家を後にすると、相変らずのカミカゼ取材だった。ニュースの焦点に体当りで突ッこんでゆく。

妻は、何回か、「子供もいることだから、危険なお仕事をやめて!」と哀願した。私も子供の寝顔を見ながら、そういわれると一言もなく、「ウン、もうこれからはしないよ」と答えた。

しかし、一体、この「新聞記者の功名心」とは何なのであろうか。あの、割に合わない仕事で精根をスリへらす功名心とは? 単なる男の名誉慾なのだろうか、物慾なのだろうか。

書かれざる特種

功名心と立身出世

新聞記者の功名心という、旺盛な報道精神が、ただ単に報道しさえすればよいんだ、というものでないことは確かである。当然、そこには合法的であり、人権を尊重するといった一定のルールがあるはずである。

そればかりではなく、社会批判としての、厳しい〝記者の眼〟がなければならない。この厳しさのかげには、同時に、温かさも必要である。

記者の功名心が、直ちに立身出世主義と結びつけられるということは、おかしな論理である。つまり、功名心というものが、人間の欲望の一つであるに違いないが、この「欲」が、すなわちキタナラしい立身出世主義ではない。

現実にこの社会の中で、特に新聞社とは限らずに、あらゆる組織体の中で、果して実力者だけが〝立身出世〟をしているといえるだろうか。現実には、〝危険な英雄〟よりは〝安全なサラリーマン〟が、出世のコツであるのだ。

最後の事件記者 p.334-335 菊村氏などは不遇であった

最後の事件記者 p.334-335 読売出身の作家、菊村到氏の記者モノをみると、部長と視線が合わないようにソッと席に坐る場面がある。彼はいつもゆっくりと出てきて、私をみるとニヤリと笑う。私も出勤がおそかったからだ。
最後の事件記者 p.334-335 読売出身の作家、菊村到氏の記者モノをみると、部長と視線が合わないようにソッと席に坐る場面がある。彼はいつもゆっくりと出てきて、私をみるとニヤリと笑う。私も出勤がおそかったからだ。

現実にこの社会の中で、特に新聞社とは限らずに、あらゆる組織体の中で、果して実力者だけが〝立身出世〟をしているといえるだろうか。現実には、〝危険な英雄〟よりは〝安全なサラリーマン〟が、出世のコツであるのだ。

読売の記者に、ある立身出世主義者がいた。もちろん、バカや無能力者では、出世できないのは当然である。記者としての能力は、もちろん一通りは備えていた。しかし、彼には、「あの事件の時は……」といった、自慢話は、これといってないようである。

彼は、朝の出勤時間に、他人よりは必ず早く出てきた。他人といっても、他の記者もふくめられるが、特に部長である。彼は部長よりは必ずといっていいほど、先に出社したのである。部長が自席につく時には、必ずすでに坐っている彼の姿がある。

読売社会部出身の作家、菊村到氏の記者モノをみると、その記者は必ず部長より遅く出てきて部長と視線が合わないようにして、ソッと席に坐る場面がある。彼の記者時代がそうだった。読売で出世をしようとは考えていなかったのだから、彼はいつもゆっくりと出勤してきて、私をみるとニヤリと笑う。私も出勤がおそかったからだ。

ところが、この〝出世〟記者は、早く出てくるのだ。このことは確かにエライことだと思う。努力なしではできないことだからである。私も敬服はしていたのだが、あとが何とも、私には我慢できないことだった。

夕方になる。昼勤の遊軍記者は、特に忙しくさえなければ、適当に消えてしまうのが慣例である。つまり夜勤記者が出てくれば、帰ってしまって、構わない。

ところが、この記者は、部長が着席している限り、絶対に消えないのである。しかも、横目や上目で、チラと部長の席をみる。部長が席を立たない限り、彼も立たない。このような記者が出

世をする。部長となり、局長となるのである。

(写真キャプション 東京駅前の郵船ビルからの呼び出しは公用郵便)

才能を殺す新聞機構

その限りでは、実力者であった菊村氏などは新聞社における限り、不遇であった。彼の芥川賞受賞の光栄は、本当の意味では社会部員全部によろこんではもらえなかった。彼が社を去る時は、送別会すらなく、いつの間にか出勤しなくなり、辞令が出てはじめて、その退社を知ったほどであった。

だから、私の功名心を、このような立身出世主義に置きかえてみるのは、誤りだ。今度の横井事件の〝五人の犯人生け捕り〝計画も、「彼は社会の多数がこうむる迷惑よりも、自分の抜け駈けの功名や、社会部長の椅子の方が大事であったに違いない」とみるのは、全くの誤りである。

最後の事件記者 p.336-337 吊しあげるはずの徳球一人に引ずり廻され

最後の事件記者 p.336-337 日本共産党書記長徳田球一がソ連側に「日本人の引揚をおくらせてほしい」と要請したという問題。徳田書記長はベランメエ口調で〝モスクワへ行ってきいて来い〟という名ゼリフをはいたのである。
最後の事件記者 p.336-337 日本共産党書記長徳田球一がソ連側に「日本人の引揚をおくらせてほしい」と要請したという問題。徳田書記長はベランメエ口調で〝モスクワへ行ってきいて来い〟という名ゼリフをはいたのである。

だから、私の功名心を、このような立身出世主義に置きかえてみるのは、誤りだ。今度の横井事件の〝五人の犯人生け捕り〝計画も、「彼は社会の多数がこうむる迷惑よりも、自分の抜け駈けの功名や、社会部長の椅子の方が大事であったに違いない」とみるのは、全くの誤りである。

第一、現在の新聞社の機構では、社会部長も次長も、記者ではなくて事務屋である。ことに次長というのは、行政官、悪くいえば請負仕事の職人である。アメリカの記者のように、例えばNBC放送のブラウン記者が、五十歳ほどの立派な紳士でありながら、デンスケを担ぐのとは違うのだ。

私のように根ッからの記者は、取材、自分で走り廻ることをやめて、伝票にハンコを押すことなどに、執着や興味はさらにない。万年取材記者でありたいと願っていた。第一、部長、次長という役職者は、自分で原稿を書くチャンスが与えられていない。空前ではないかも知れないが、絶後であるのは、読売の高木健夫編集局次長のような立場だ。

高木局次長は、今でも新聞記者である。自分自身で原稿を書いているからだ。編集局の一隅に自分のデスクがあって、電話の取次ぎをする給仕一人いない。不思議に、このような大記者制度というものが、日本の新聞にはないのである。古くなれば、誰でもが、オートメで役職につけてその才能を殺してしまうのが、日本の新聞である。

私が、どんなに功名心にかられていても、書かなかった記事、つまり事件は、いくつもある。つまり、相手がどうあろうと、何でも彼でも書きまくって、自分だけが出世をしようなどとは、いささかも考えはしなかった。

徳球要請事件

二十五年三月、参院引揚委員会では、いわゆる徳田要請問題の審議を行った。日本共産党書記長徳田球一が、ソ連側に、「日本人の引揚をおくらせてほしい」と要請したという問題が、引揚者によって伝えられたのである。

同委員会では、これを引揚阻害として重視した。そして、ついに徳田書記長を証人として喚問し、吊しあげるという一幕が演ぜられたのだが、徳田書記長はベランメエ口調で荒れまわって、〝モスクワへ行ってきいて来い〟という、名ゼリフをはいたのである。

委員会の審議は、吊しあげるはずの徳球一人に引ずり廻されて、何の真相もわからず、何の結論も出ないまま、その日は散会となってしまった。

その数日後のことである。私は日共関係のニュース・ソースである一人の男から、実に意外なことを聞いたのであった。

それは、日共内部が、「徳田要請」は事実であるという一派と、そんなことはデマだという一派とに分れて、モメているというのである。しかも、事実だと主張するのが、〝ナホトカ天皇〟とまで呼ばれて、在ソ抑留同胞がその一挙手一投足で左右されたと伝えられる、上陸党員の大幹部津村謙二だという。

これこそビッグ・ニュースであった。ことに、徳田書記長にやられてしまって、国会の権威が

どうのこうのと、騒いでいる時であったから、その書記長の下にある党員が、事実だと主張しているとあれば、もちろんトップ記事である。

最後の事件記者 p.338-339 津村追放理由の事実は恐るべきものだった

最後の事件記者 p.338-339 その吊しあげは、袴田の命令をうけた久留義蔵が、津村らナホトカ・グループ六名を、産別会館に軟禁して徹底的に吊しあげを行い、党活動停止の処分にしたのであった。
最後の事件記者 p.338-339 その吊しあげは、袴田の命令をうけた久留義蔵が、津村らナホトカ・グループ六名を、産別会館に軟禁して徹底的に吊しあげを行い、党活動停止の処分にしたのであった。

それは、日共内部が、「徳田要請」は事実であるという一派と、そんなことはデマだという一派とに分れて、モメているというのである。しかも、事実だと主張するのが、〝ナホトカ天皇〟とまで呼ばれて、在ソ抑留同胞がその一挙手一投足で左右されたと伝えられる、上陸党員の大幹部津村謙二だという。
これこそビッグ・ニュースであった。ことに、徳田書記長にやられてしまって、国会の権威が

どうのこうのと、騒いでいる時であったから、その書記長の下にある党員が、事実だと主張しているとあれば、もちろんトップ記事である。

私は張り切って、すぐ調べはじめた。もともと、津村はソ連帰還者生活擁護同盟委員長であったのだが、この一月にその地位を追われたばかりであるし、ソ帰同は改組されて、日帰同となっていた。徳田要請問題は、その前年の暮に、日の丸梯団の帰還者から持ち出された問題である。私は、ソ帰同の改組の当時から調べはじめたのであった。

ソ帰同というのは、二十三年に〝ナホトカ天皇〟こと津村らの、ナホトカ・グループの帰国と同時に組織されたもので、その名の通り、ソ連帰還者の生活擁護を目的としていた。ところが、二十四年十月二十八日に、第二回全国大会が開かれ、中共引揚を考えて、帰還者戦線の統一が叫ばれ、「日本帰還者生活擁護同盟」と改称されて、日共市民対策部の下部組織となった。

この第二回大会で組織の改正が行われた、つまり、最高機関は全国大会で、中央委員会三十名中執委と常任各十名で平常活動を行い、事務局は組織、文化、財政の三つに分れたのである。そして、文化工作隊として、シベリア十六地区楽団と、沿海州楽劇団を合流させて、楽団カチューシャとし、高山秀夫をその責任者とした。これは津村一派でしめていた、委員長、書記長制の廃止であった。

そして、明けて一月になると、役員の改選が行われた。津村委員長は、①楽団カチューシャの資金は、地方帰還者中の情報担当者に渡すべきなのに、本部人件費として十二万円を流用した。

②下部組織に対して発展性なし。③逆スパイを党内に放っている。④婦人問題を起した。などの理由で、はげしく非難され、ついに三月に入ると、委員長の地位を追われてしまった。

このような経過はすぐ判ったのだが、それをさらに調べてみると、津村追放の表面上の理由は前記の四つの点であったが、事実は恐るべきものだった。

ナホトカ天皇との対面

津村委員長は、党内において、①徳田要請問題の否定的資料を集めることを拒否し、肯定資料はあるけれども、否定資料はないという発言を、数回にわたって行った。②現在の党批判をソ連代表部員ロザノフ(註、二十九年来日のソ連スケート団の監督、ラストボロフ帰国命令の護送者)を通じてソ連側へ提出していたが、それが妥当を欠いていた。③日共幹部袴田里見を数々の偏向ありと指摘し、その弟睦夫をボスとして批判した、という三点で粛正された事実が明らかになってきた。

しかも、その吊しあげは、袴田の命令をうけた市民対策部の久留義蔵が、津村らナホトカ・グループ六名(佐藤五郎、生某、大棚某、陣野敏郎、大石孝ら)を、三月九日から十三日までの五日間、産別会館に軟禁して、徹底的に吊しあげを行い、そのあげくに、党活動停止の処分にしたのであった。

私は、そこまで調べ終ってから、翌日の朝刊のトップに書こうと考えた。社を出る時、デスクに、「明日はボクが書きますよ。トップはグンと広くあけておいて下さい。エ? もちろん、特

ダネですよ」と、予約をした。取材のしめくくりは、当の本人にインタヴューすることだ。私は、津村を世田谷のはずれの千歳烏山引揚者寮におとずれた。