何といっても、サツ廻りというのは、一国一城の主。これほど記者として面白い時代はないの
に、サツ種のスクープが各社とも少しも見当らないのが不思議でならない。これならば、サツ廻りなどやめてしまった方が、人の使い方としては効果的である。
私の名はソ連スパイ!
〝代々木詣り〟の復員者
私が日大で三浦逸雄先生に教えられた最大のものは、資料の収集と整理、そのための調査、そして解析である。
それが実際に成功したのが、ソ連引揚者の〝代々木詣り〟というケースだった。上野方面のサツ廻りであった私は、上野駅に到着する引揚列車の出迎えを、かかさずにやってきていた。
そこでは婦人団体よりもテキパキと、援護活動を奉仕している学生同盟の、それこそ献身的な姿がみられた。ところが、その学生の一人が、ついに殉職するという、悲惨な事件が起きたのである。
二十三年六月四日朝八時ころのこと。京浜地区学生同盟品川班情報部長、横浜専門二年生伊藤欽治君(二〇)は、引揚列車を名古屋まで迎えに行き、徹夜で車中の援護につくして、品川駅ま
で帰ってきた。
品川はその赤旗のウズだ。列車が同駅を発車した時、伊藤君は赤旗組を整理しながら、列車にとびのろうとしたが、人々に押されてホームと列車の間に転落、重傷を負ってついに絶命した。
引揚者たちは、上野駅についてこのことを知った。直ちに檄がとばされ、車中から七千五百余円の弔慰金が集められた。そのことを知った私は、記事を書きながら、「これはもっと大変な事件になるゾ」と考えていた。
それからの私は、毎日詳細な記録をとりはじめた。品川、東京、上野の三駅での、学生同盟と共産党との対立が、目立ってはげしくなってきた。共産党は何をしようとしているのだろうか。
その日は知らなかったが、党勢拡張を狙う共産党は、東北、北海道方面の引揚者が、上野駅で乗換時間に余裕のあるのをみて、この時間を利用して、党本部訪問という計画を実行しはじめていたのである。
私もこれに同行して、データを集めはじめた。出迎え党員の数も、逐次ふえていき、それに比例して、〝代々木詣り〟の引揚者もふえていった。約一カ月、一日おきに千名近い引揚者を迎える上野駅での、引揚者に関する細かな資料が出来上った。私は、これを社会部長に示して説明した。グラフも作ったのである。
「部長、この傾向がこの通り激しくなってゆきます。こちらが、出迎えの党員数です。これは、もっともっと激しくなり、事件になるか、事件を引起すと思います」